風が吹いたら桶屋が儲かるのか

「風が吹いたら桶屋が儲かる」ということわざがある。

このことわざは

「風が吹く」と目にゴミが入る

目にゴミが入ると目を洗う必要がある

目を洗うためには水を溜める桶が必要になる

桶を買う人が増えて「桶屋が儲かる」

という、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えである。
(なお、実際にはもう少し飛躍した理由なのだけれど、現代の表現としては若干の差別的要素も含むと考えて、今回はこのような流れにした)

さてこのとき、風が吹けばどうなるかの「答え(≒結果)」が、桶屋が儲かるになるということではない。

むしろ、多少のこじつけであっても、その結論まで(ある意味で)論理的に結びつけることが、このことわざの醍醐味と言ってもいい。

そこが人間の持つ「想像力」であり、つまり「考える力」とも言えるのではないだろうか。

しかし、現代の日本教育は、こういう考える力を養うことを疎かにしているように、僕は感じる。

それは、このことわざのような過程をすっ飛ばして、風が吹けば桶屋が儲かるんだと「覚えなさい」と教えているのが、今の教育で行われていることだと思うからだ。

今の若い人たちは、すぐに「答え」を欲しがると言われる。

このことわざで言えば「風が吹くと目にゴミが入るよね、そうすると…」と説明を始めると「そういうのはいいから、答えだけ聞かせてくれればいいんです」ということになる。
または「風が吹くとどうなると思うか考えてごらん」と言っても、すぐに「分かるわけないです、だって答えを知らないから」ということになる。

答えだけは知っているけれど、それが何を意味するのかに興味はない。
ある答えと別の答えが、たとえ矛盾していても気にならない。

全ては「答え」として教えられ覚えたものだから、それが正しいのか間違っているのかは関係ない。それを決めるのは、答えを覚えた僕ではなく、別の「判定者」に任せればいい。
そして、もし間違いだと言われたら、新しい別のも答えをまた覚えればいい。

さあ、早く私にもっと「分かりやすい答え」を教えてほしい。
答えを教えられない馬鹿に用はない。

僕の目に、若者の姿が時々こんな風に映るのは、果たして彼らだけの責任なのだろうか。

僕にはそうは思えない。

そしていつのまにか、この日本は「風が吹いても桶屋が儲かるはずがない」という空気に満ちた国になってしまった。

それが「答え」になってしまった。

僕にはそれが、残念で仕方ないんだ。

最後にラーメンズのコントを貼っておく。
くだらないけれど、これも人間の愛すべき豊かさの一つだと思うんだ。

「風と桶に関する幾つかの考察」