映画「ハーモニー」 圧倒されるほど、美しいハーモニーの世界

映画『ハーモニー』は、監督:なかむらたかし/マイケル・アリアス による、伊藤計劃の遺作『ハーモニー<harmony/>』の映像化作品です。

※この文章は、同作品の感想についてまとめたもので、ネタバレを多く含みます。自己判断でお読みください。





 この映画を見て、私が何を思ったか。

 まず最初に、「やってくれた!」と、感じた。

 観ている間、ただひたすらその美しさに涙していた。

 そして物語が終わった時、「ありがとう」と思った。



 この作品は、「物語を語り継ぐ」伊藤計劃作品映画化プロジェクト「Project.Itoh」によって映像化された、小説「ハーモニー」の世界である。

 この説明に入る前に、まずは原作「ハーモニー」について軽く説明しよう。

 この作品は、はるか未来を描いた作品である。先進国では、ナノマテリアルや医療分子による高度に発達した医療社会が実現し、生府<ヴァイガメント>と呼ばれる、人間の生存を第一とする統治機構による統治が行われいる。人々はそこで、病気や不衛生の一掃された世界で、他者を心の底から思いやる社会常識の中で生活している。しかしその中で、ある日同時多発自殺が発生し、世界は大混乱に陥っていく。

 現代とあまりに異なる社会常識は、主人公「霧慧トァン」と彼女のカリスマだった「御冷ミァハ」との記憶の中で、まるで寓話のように美しく語られる。ストーリー構成は「フー・ダニット?(誰がやったか)」の構成で、主人公は同時多発自殺の首謀者を追う中、社会の主軸を成す研究者・生府要人たちに接触し、その中で世界の仕掛けが少しずつ明らかになっていく――というのが、この作品のおおまかな骨子だ。

 正直、非常に難解な設定だ。あまりにも常識がかけ離れているので、説明しなければならないことが多く、それだけにとてもわかりにくい。

 私が「Project.Itoh」で最も懸念していたのもこの作品だ。果たしてこの重厚な世界観を描き切ることができるのか、見る前まではただ不安しかなかった。

 しかし、この映画の終わりに、私はこの作品の存在を、ただただ感謝した。

 この作品には文句のつけようがない。いや、正確には文句をつけるべき場所さえも計算された作品で、その狙いも含めてただただ全肯定するしかないのである。その点は議論の焦点にもなると思うが、まずはこの作品の素晴らしい点について私なりの言葉で語っていこうと思う。


 この映画のストーリーは、原作を忠実に再現しており綺麗に、かつ簡潔にまとめられている。作品世界を印象づける原作の台詞を残し、世界観を崩さぬよう、観客が世界観に没入できるよう、細心の注意を払って組み立てられている。

 この作品は、これまでのSF作品と共通するガジェットが少なく(せいぜい拡張現実ぐらい)、従ってその描写や説明には、マイケル・アリアス監督の下、細心の注意が払われて構成されている。作品世界の根幹を成すSF要素は、もちろんどれ一つとして欠かすことはできないし、かといって原作の文章を全て台詞に落とし込むことは、時間的にも、そして観客の耐性的にも不可能だ。全てを2時間弱で語らなければならないのが映画なのだ。

 これは正直に言って大変な作業だ。無論、原作を100%とはいかない。枠に合わせて修正し添削し、登場人物の心情をよりドラマティックに描くために、新たに書かねばならないシーンもある。しかしこの作品は、原作のイメージを全く崩すことなく作品を再構成して見せた。

 特に効果的だと思ったのは、ミァハとトァンの生府社会への嫌悪感、そしてそれ故に生じた、ミァハというカリスマへの憧憬の描写だ。作品では様々なエピソードを織り交ぜじっくりと掘り下げていくこのテーマを、映画では「三人の自死」というエピソードだけ抜きだし、それを丁寧に描くことで見事に表現している。

 映画は小説とは違い、印象的なワンシーンさえあればそれで事足りる事が多い。重複する描写は観客を飽きさせる。いかに不必要なシーンを除いて、重要なシーンを洗練させていくかが求められる。

 社会的凶器として自らを研ぎ澄まし、社会に対する最大の反撃として己の自死を選ぶミァハ。それに追随し、しかし失敗してしまうトァンとキアン。顔も知らないミァハの死をわが娘の事のように悲しむトァンの母の異常性。その後のキアンが抱える罪の意識。このエピソードは、後のエピソードにつながる要素が全て濃縮されている。だから、このエピソードさえあれば十分なのだ。

 他の会話も作品世界を語る魅力的なエピソードでありながら大胆に削り、それでいて作品の主題をぼやけさせない。本当に、これ以外に考えられないほど見事な采配だ。


 作画・美術・演出も、見事という他ない。白とピンクを基調とした色彩、優しさを追求した結果、生物的な造詣となった建築・車・椅子・机といった人工物、拡張現実<オーギュメンテッドリアリティ>からみる世界の描写、それらが全て効果的に表現されていて、「他者への優しさに満ちた世界」がどういうものかを、視覚的に否が応でも見せてくれるのだ。

 これがもうSF好きにはたまらない。もうこれだけでも往年の伊藤計劃ファンには涙腺直撃である。

 伊藤計劃は古くから「有機物と無機物の融合」をその作品世界に組み込んできた。虐殺器官なら空飛ぶ海苔<フライングシーウィード>、ハーモニーならWarBirdやPassengerBird、WarDog……今まで決して映像化することのなかったそれらが、ついに映像として描写されたのである。(表現されなかったのは教授の部屋のThingListとゼリーの椅子ぐらいのものだ。ちなみにWarDogはこの映像化に先駆けて現実化してしまった。ご存知、あのキモい動きで姿勢制御をする四脚機械である。「海兵隊 LS3」で検索するといい)

 さらに際立つのは、自然世界の美しさである。主人公を乗せたPassenger Birdが海のように深い群青の空を泳ぐ姿、生府の外の美しさ、雄大なチグリス・ユーフラテス川の姿、廃墟と化したミァハの生まれ故郷、そして最後の宗教曲を思わせる荘厳なハーモニーの音楽を背景に流れる風景たち。これは原作では描かれることのなかった風景だが、しかしこれが作品世界をよく表現している!

 この作品における自然風景は、常に生府社会との対比である。原作でミァハとトァンが感じる生府社会の不自然さは、映像では、生府社会の白とピンクの人工物の不自然さな色合いによって描写されている。トァンが生府社会にいる時、空は常に曇っており、建物の毒々しいピンク色と空の白だけが世界を占めている。特に、拡張現実上で実行される会議は、人物が全て白いポリゴンだ。コンマ1秒ごとに破綻を繰り返すポリゴン像は、そのままトァンが感じる生府社会の歪さである。徹底された白とピンク。それは極限まで優しい色なのに暴力的な存在感を放ち、トァンだけでなく我々の心も優しさで窒息させようとする。白とピンクの人工世界が、生府社会の歪さを完全に描写している。その二色は生府社会の作られた優しさそのもので、正にトァンが憎むものだ。

 一方、生府社会の外は、常に色彩に富む美しい自然が広がっている。更にそれは、トァンがミァハと接触するシーンにおいてより鮮烈になる。トァンがミァハのメッセージを聞くシーンでは、トァンの乗るPassengerBirdが、まるで南国の海のように青く澄み渡る空を泳ぐ姿が描かれる。ミァハの家族は生府社会で唯一自然豊かな地域にあり、そこでも自然の美しさが、ミァハの思い出と共に描かれる。ミァハの意識が生まれた場所は、美しいコーカサスの山の中にあり、そこにあるのは廃墟ではあるものの、廃墟の持つ独特の美が、繊細な美術でこれでもかというほど美しく描かれている。

ミァハとの美しい思い出を自然の美しさで示し、相対する生府社会を、白とピンクの無機質さで徹底的に埋め尽くす。その徹底した姿勢は脱帽するほかない。言葉ではなく、鮮烈な色彩と映像で示しているのだ。トァンとミァハが感じていた、生府社会の歪さを。白とピンクに支配された世界は、優しいはずなのに息苦しいディストピアのメタファーで、ミァハとトァンの回想や、様々な場面で現れる自然の美しさは、正にミァハが望んだ「すばらしき新世界」のメタファーだ。

 登場人物の演技も素晴らしい。特に主人公であるトァンは会話以外にもモノローグや回想等で語る事が多く、物語の後半になるにつれて大きくなる感情の揺れが実によく演じ分けられている。ミァハの透明感のある声も、彼女の神秘性とそこから現れるカリスマの表現としてぴったりだ。その他の作品を彩るキャラクター(ヴァシロフ、そしてオスカー)も、文句のつけようがない名演だ。


 総合して、この映画はとても美しい作品だ。原作の世界観を壊すことなく、美術で、デザインで、色彩で、音楽で、演技で、脚本で、作品世界を完全に表現している。

 正直に言って、物語の中盤からもう泣きっぱなしだった。クライマックスでもなんでもないのに泣いてる私はさぞ滑稽だっただろう。しかし、仕方がないではないか。映像化されたハーモニーの世界は。あまりに美しいのだ。もはや文句のつけようがないほどに。

 正直まだまだ語り足りないのだが、長くなってきたのでこのあたりで一度しめることにしたい。

 語るべきことはまだまだある。特にあのラストシーンは納得のいかない人が多いはずだ。けれど私は、あのシーンも映画版「ハーモニー」という作品の一つの答えだと思っているし、この映画はあのラストでなければならなかったのではないかとさえ感じている。

 それは考察の意味合いもあるので、それついてはまた次の機会に述べることにして。



 最後に、この映画に携わり、この作品を手掛けてくれた方々に「ありがとう」といいたい。

 今はそれしか言葉が浮かばない。小説では描きえなかった美術で、デザインで、色彩で、音楽で、言葉で、脚本で、演出で、それぞれが持ちうる全力で、このハーモニーの世界を描き切ってくれたことに本当に感謝したい。

 本当に、ありがとう。

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