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映画『獣手』感想その2 妄想は続くよどこまでも

前回の記事では全体の感想に加え主人公二人(ほぼ和田さん)について語ったが今回は悪役たちについて。
当然ながらネタバレありまくりの感想になっておりますので、未見の方はご注意ください。

 


まずは何といっても乾役

川瀬陽太さん。

乾明 - 川瀬陽太

修の先輩である乾は前編である『手』において物語を動かす一番のエンジン、その嵐の如き苛烈さと暴力がなければ『獣手』はこうまで心揺さぶるショッキングさを得ることはできなかったのではなかろうか。
 
停滞をまとう修で始まる冒頭に乾が現れた瞬間の空気の締まり具合は作品の方向性が決まる瞬間でもある。
その後の立ち居振る舞いや理不尽な暴力は初回に観た際は心胆寒からしめるものがあったが、何度も作品を見るうちにその辺りが麻痺をしてくる。
危険な兆候である。
「しょうがない、この人はこういう人なんだから…」という諦めにも似た心の防衛作用。
修や小雪が彼の元を逃げられない心情もそういった面があるのではないだろうか、DVに反抗できなくなっていったりストックホルム症候群のように閉鎖環境に置かれることで恐怖を下敷きにどこか諦めや信頼が芽生えていく様を、一度では分からなかった感覚だが複数回観ているうちに観客側も追体験していく。
実際、二度目以降は乾の暴力以外の面が少しづつ見えてくるのだ。
襲撃は修や小雪を養うためなのだという発言に始まり、鍋を囲うシーンでは火加減を見たり自分よりも先に修にビールを注いでやったり。
乾は古き時代の家父長制を体現する存在なのかもしれない。
家庭内で絶対的支配力を持つが、それは同時に庇護し守ることでもあると考えている。
傍からすれば内弁慶の暴力野郎でしかないかもしれないが、彼の中では確固たる信念(それが倫理として正しいかはともかく)がありそれに則り行動しているのだろうというのが見えてくる。
そしてだからこそあの救いなき共同生活が生まれてしまったのであることも。
 
修と小雪は共に乾の元から離れられなかったが、その理由は全く同じと言う訳ではない。
小雪にとってはやはり圧倒的に暴力に対する恐怖があると思う。
感想で「なんで二人は逃げないんだ」といったものを目にしたが、確実に逃げ切れなければより酷い目に遭うのなら現状に甘んじた方が楽というのが根底にあるのだろう。
まさに劇中で、小雪は一度乾の元を離れたが見つかってしまいあれほどの仕打ちを受けたのだ、また逃げることを考えられるだろうか?
整形に対する望みも、より美しくなりたいといった変身願望というよりは、別人にならなければ現状から這い出せないのだという悲しい動機が見える。
では修が逃げないのも怯えによるものだろうか?
前編を観た際から一貫して抱いてる印象として修は常に逃げ続けている男だと思っている。
それは前向きに生きる事であったり自分で選択することからである。
物語の終盤になるまでとにかく修は自身で進むことなく、周りがどんどんと動いていく中で流れに身を任せているだけだ。
最初の現場のシーンでもそうだが嫌なら彼は逃げ出すのだ。
後半に工場長から首を宣告されても縋ることなくあっさりと受け入れる。
また前回長編化に伴ってカットされたシーンが好きだと書いたが、そこも乾に凌辱される小雪の横に居られず逃げたシーンだ。
本当に乾の暴力が恐ろしいのであれば修は逃げたと思う。
では何故乾の元に残るのか。
そこで前述した乾のもう一つの面によるものだと考えられる。
圧倒的な力、そこから来る頼もしさが弱い心の修にとっては拠り所となっているのでは。
修は小雪に比べればあまり暴力を振るわれていない。(目立つのは車のシーンで逃げた罰としてぐらい)
基本的には乾の言う事を聞いて行動するからだ。
そしてそれが実は楽なのだ。
「乾に言われたから」
それを免罪符として行動することの楽さ。
働かない、小雪を差し出す、強盗をする。
全部乾のせいだ。
自分は悪くない。
しょうがない。
乾の強さは修から責任や自分で考えることから逃がしてくれるものなのだ。
矛盾のようだが、乾の元に居れば修は社会から逃げていられるので、彼の元からは逃げない。
結果として物語以前の生活において乾は修を可愛がってきたのであろう。
近年のフェミニズムからは到底受け入れられない序列の様なものも含め、修と小雪、男と女では乾の中での扱いに差がある。
 
乾は暴力によって2人を支配するが、作用の仕方が実は違っている。
それは川瀬さんが演じているからこそ見えてきたように思える。
恐ろしさに垣間見える僅かな愛嬌であったり歪んだ優しさであったり。
 
一度しか観てない方はぜひ川瀬さんの暴力性のベールの下にも注目した上で再見していただきたい。
全然内面と関係ないがうどんのシーンなんてとても良い。(こんだけ語っておいてそこ)
 
 
お次は刑事黒田を演じる

松浦祐也さん。

黒田隆一 - 松浦祐也


後編で出てくる彼の役割はやはり暴力装置。
前編で退場した乾同様に強者には媚びへつらいつつも力を拠り所とし弱者に暴力をふるい徹底的にヘイトを集める存在。
ならば作品として役目は二番煎じ、乾≒黒田なのか?
個人的にはそうでないと思っている。
少し話は逸れるが以前に『獣手』のアートワークの一環として昨今よく見るキャラクターのキービジュアルポスターなんかどうだろうと考えたことがある。
アニメだとかアイドル物のイメージだが、キャラクターの個性を表すような一枚絵とタイトルやキャッチフレーズの組み合わせの物。
メインビジュアルとは別の宣伝素材としてSNSだったり映画館のポスタージャック的に使える類の。
そこで、キャラクターと春日さんが考えたタイトル案の組み合わせでのキービジュを妄想してたのだ。
作ってみてセンスのなさに結果的にはやめたのだが……
その中で上西さんには「世界の果て」、川瀬さんには「SINISITER」を選んだ。
そして福谷さんには「獣手」、和田さんには「ツナグ」。
さてそれでは「破壊せよ、と その手は言った」は誰にすべきか。
当然本来なら修なのだろう、もしくはもう一人の獣手の持ち主となったことが明らかになる別所か?
でも自分は黒田だと思った。
もちろん『手』の代替案として考案されたタイトル群なのだから福谷さんに集中するものばかりで、それを振り分けることになったからという事情もある。
川瀬さんの「SINISITER」にしたって副題は「悪魔の左手」とついていたが《邪悪な、悪意のある、不吉な》といった意味合いなら乾がピッタリでもあったので割り振った。
ではなぜ黒田が「破壊せよ、と その手は言った」に相応しいと感じたのか。
そこで黒田の役割が乾の後継ではないという話になる。

黒田は修の写し鏡たる存在だからだ。
悪徳警官として登場し、人の痛みを何とも思わないどころか悪戯に人命を奪うなど、まさに悪魔の所業を見せつける。
ところが、彼が手を汚すきっかけは自らの子供のためであったことが明らかになる。
もしかしたら正義感に溢れ社会のために人々のために警察官という職業を目指したかもしれない男は、やむを得ずあの場所へ転落していっただけなのかもしれない。
最初は忸怩たる思いで組織の誘惑に乗り、金のために仕方なく悪事の片棒を担ぎ、次第にその罪悪感は薄れ自分の振るう力に溺れ最後には人の心を失ったが如く妊婦にすら手をかける獣と化した。
彼の「手」はバイオテクノロジーによって人知を超えた存在などにはなっていない唯の人の「手」だ。
だが獣の心によって血を求める「獣手」でもあるのだ。
理性無く本能のままに「破壊せよ、と その手は言った」から殺す。
あの松浦さんの横に沿える言葉としてしっくりは来ないだろうか?

本作は愛の物語であり、ラストは獣の心に打ち勝った人の強さが描かれている。
しかし、愛する者を守るため、生まれてくる未来のためにその手を揮った修はその後も同じままでいられるだろうか。
『獣手』はダークヒーロー物であるという見方も存在するが、彼らは手段を選ばないだけであってヒーローであり続けなければヴィランと変わらない存在になってしまう。
将来的に小雪や子供のためを思ってでも、満足に職に就くことができない自身の身体のために安易に金を欲するなどして「手」を使ってしまえば、修は怒りのままに殺した黒田と変わらぬ存在に堕ちるだけだ。
本当に大事な物が何なのか忘れた修が辿り着く未来の姿が黒田であり、その、外に立ちふさがる獣と内に潜む獣の双方を乗り越えた先にあの「生」があったのだ。
今まではずっと背後へと逃げ続けた修がようやく踏み出した前への一歩は、弱い自分、獣の自分、未来の自分全てを倒した満身創痍の一歩なのだ。
 
 
最後はラスボス須藤の

上西雄大さん。

須藤章 - 上西雄大


ぶっちゃけてしまえば須藤に関してはそこまで語れる要素は少ない。
悪役ながら無事に退場するし、バックボーンもうかがいにくい。
であるからこそ「続編作れるのでは?」と思わせる造りにもなっているし、次回作があるとすればそこで深掘りされる奥行を残したままの強敵としてはそのぐらいで丁度よいのかもしれない。
だからといって存在感が薄いわけではなく、しっかりと黒幕としての見せ場はあるしラストで修の前に現れるシーンのカッコよさよ。
自分はnoteに限らず度々、主題歌の「ツナグ」を聞いたときにこの映画は勝ち確だと思ったと言ってきた。
だが主題歌発表のトレーラーで映像として大好きなのは42秒辺りの上西さんシーンなのだ。
前編はクライムサスペンスとしては比較的コンパクトな範囲内でのゴタゴタであったのが、手下を連れ現れる須藤の姿は「これでもかって位のボスキャラ出てきているじゃん!どうなっちゃうのよ!」と興奮を抑え切れなくなるほどのカッコよさなのだ。
クラファン出資で前編を見た上でのあの特報は「凄いものが出来上がる」という期待に満ちたものだが、その感情を加速させたのは数秒だけにもかかわらず強者感を放つ上西さんの存在が大きい。
乾の支配から解放され旅立った先が決して楽園ではなく、苦難に満ちた日々が続くことを登場一発で感じさせてくれる。
舞台挨拶では上西さん本人も続編での活躍を待ち望んでらっしゃる様子なので作品が跳ねればあるぞ『獣手二』!
 
 
ということで今回も長々と語りましたが、登場人物や作品背景の考察なんて大した代物ではない妄想ですので、こんなん読んでないでまた劇場で『獣手』を観て!
本日2024/02/24からは横浜ジャックアンドベティで一週間の公開が始まりますし、その後は名古屋での公開も控えています。

映画『獣手』公式HP
https://filmdog.jp/kemonote/index.html

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