幼少期に出来なかった事を今やりたい

 「若い頃に手に入れられなかったものや出来なかったことに執着する」という言葉をネットで昔、見た。その時はそんな訳ないだろうと思っていたが、こうして大人になると案外この言葉は私にとって凡そ真実であった。

 皆さんは、子供の時、家族と旅行をしたことがあるだろうか。誰かと祭りに行ったり花火を見たりしたことがあるだろうか。学校の帰り道に寄り道をしてちょっと悪戯な気持ちになったことがあるだろうか。朝目が覚めた時「おはよう」というと「おはよう」と返してもらったことがあるだろうか。「いただきます」「ごちそうさま」を誰かと共にしたことがあるだろうか。家で作った料理を作った本人と食べたことがあるだろうか。「おめでとう」「頑張ったね。」と優しい言葉をかけてもらったことはあるだろうか。眠れない夜に昔話などをして寝かしつけてもらった事があるだろうか。

 私はこれらが殆どない。私の幼少期を知る友人は、今の私を「歪み切っている」と言う。高校の時付き合っていた彼氏と思われる人物に「いろはちゃんって台本みたいなセリフとか行動するよね。演劇部だからかな。」と言われたことがある。それはそうだ。私は自分の生活が可笑しいと自覚してから、他人の家庭や日常を注意深く観察して、こう言われたらこう返す、などを学んできたのだ。実践なんてせずに誰かの真似事を一人しか存在しない家で、愛しのベアちゃん人形や目玉人形と練習していたのだから。

 まぁ過去話などはいつか書くとして、とにかくそういった経験がなかったのだ。しかし、最近偶然にも誰かとご飯を食べることが増えた。今までの練習なんて無意味だったのではないかというくらい難しかった。家で誰かとご飯を食べる、これだけの事が難しかった。「いただきます」「ごちそうさま」のタイミングもわからなかった。もちろんお店などでは必ず言う癖はついていた。(幼少期に母親と松屋に行って、言わなかった際に店で殴られて以来必ず言うようにしている。)しかし、いざ二人だけになって、しかも相手が作ったとなるとそれはもう受験数学よりも難しく思えたのである。相手がテーブルへ運んだ料理はどこに置けばいいのかとか、相手が座るまで何を手伝えばいいかとか。別の時には「先に食べてていいよ。」などという応用問題のようなセリフが飛んできたり。先に食べるとはどこまで食べていいのか、スペースはどうすればいいのかなど。多分これを友人に話したら何を言ってるんだという目で見られそうだからここだけの話に留めておくが。

 こうして私は一般家庭でいう2歳くらいで経験することを20年越しくらいでまともに経験したのである。簡単に言えば、経験値が2歳なのだ。そして経験をしてしまったが故に願望が生まれた。例えばどこかに行きたいとか、〇〇したいとか。しかし、見た目は成人の女である。そのズレが気持ち悪かった。だから、仲のいい友人などから聞くようにした。旅行なんて、一人でしか行った事もないし、誰かがいる時を想定したこともなかったからそれはもうパニックだった。けれど、とても心地よかった。誰かと生活を自分の意志で共にするのも初めてだった。家に居る時に会話が自然とできるようになるまでには多分時間がかかると思うが、これは遅れて来た成長期なのだと思う事にしている。

 また、幼少期に私は友達と外で遊んだことが殆どなかった。父親とは馬鹿の一つ覚えのようにいろんな公園や博物館には行ったが、友人となると経験が皆無であった。高校くらいまではそういう外で遊ぶ行為をしたいとも思わなかったから当然と言えば当然ではあるが。

 そんな私が平成の終わりに、友人と雨の中公園でフリスビーをしていたというのは、なんとも感動的な事ではないだろうか。大学生にもなってと思わなくもないが、というか友人にはそういわれたが初めての経験だったのだから純粋に「楽しそう。」とでも言ってほしいものだ。

 私には記憶や経験がない。今まではそれを「仕方ない。」と諦めていた。自ら経験の機会を潰していたのだ。それに気づかせてくれた友人たちには感謝してもしきれない。ただこれ、方向を間違えると執着しすぎて全てが崩れていくから気を付けなければいけない。

 私は「普通の家族」「普通の生活」に執着をしている。これは紛れもない事実であり、自覚をしている。今後は執着しつつも、自分も少しずつ経験することで多少は違和感のない人間になりたいな、などと思う。そもそも普通ってなんだ?と問われたら答えられないからその時点で私の思う普通も偏見でしかないのだろうけれど。

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