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3.JUNE 2019 舞踏への誘い 地に沈み、天へ昇る


原初舞踏体験

ドーム映像作品「HIRUKO」の上映を無事に大盛況で終えてまもなく1ヶ月。

ようやく実現した。

HIRUKO 主演の原初舞踏家=最上和子さんのお稽古を体験。

演劇経験がちょっとばかしあるだけで舞踏経験はゼロ。

「HIRUKO」に関わり、制作協力としてプロモーションや宣伝活動する上で、

そして何よりトークショーMCをさせていただいたなかでわんさか頂いた珠玉の言葉の数々がわたしの身体に財産として残されたわけだけども。

撮影:金子千裕

やっぱり経験しないことにはつまらない。


こわがりなのに飛び込みたがり…というネジ曲がった身体ひとつで、約4時間ほど体験したお稽古で私の身体が感じたことをざっと綴る。


仙骨という神聖な骨

お稽古終わったあと、目に見えてはっきりとした変化が現れた。

眼がよくみえる!!!

乱視なので、近くでも人の顔がぼやけてみえる。

だがしかし…
ひとつのお稽古を終えるごとに、目がすっきりして、最後にはみんなの顔、目鼻立ちまでもがくっきりと輪郭を帯びて見ることが出来た。たぶん、視力検査をしたらあがってる。

この現象はカイロプラクティックを受けた後と同じかもしれない。

施術を受けると身体の軸が整うので目がすっきりする。

お稽古で仙骨を意識するようにいわれたので、初心者なりにさぐりながら動いてみたことで調整されたのかもしれない。


よく仙骨をあたためると良い、
気持ちが満たされる。"神聖な骨"と聞く。

あとから調べたら、身体全体の歪みも仙骨を調整することで、自然治癒力、自己回復力とともに整うのだとか。

写真:ドーム映像作品「HIRUKO」より

うねる声

「HIRUKO」本編にも登場したオーム。

「オォォ…」という大地が唸るような声を前ではなく、身体を筒と捉えて響かせていく。

意図せずとも声が重なりあい響き合うのが気持ちいい。

声はどこからやってくるのか。
声になる前になにがあるのか。

"オーム"をすると最初はじぶんの声の滞りを感じるが、次第に声の通り道がひらかれてゆく。心地よく雄大に声が流れていくイメージ

ものと向き合うのはむずかしい。
ものをゾンザイに扱うのは身体をゾンザイに扱うのと同じこと。

瞬間で動くクセが日常的にあって、あの身体に慣れてしまうと人との関わりも浅くなるとふと思った。


ものと真剣に関わると、広い視野と対象物への集中が両方できる。

「自分がどうしたいか、何を欲してるか」

イメージにひきずられるというより途中から思いもよらない感情がわいてきてそれにひっぱられたり、しがみつきがちになるのでそうゆうのもっと自由に手放せたらよいな。

哲学を脳ミソだけでなく身体全部ではみ出しながら行うような不思議なあっという間の時間だった。

答えを与えられるより、見つけていくのが好きだから尚更楽しい。

成果がすぐ目にみえて感じられるものではない。
ずっと置き去りにしてきたものがたやすく手に入ることはない。

内部に広がる大地を求める旅が苦しくも豊かだと信じられたらずっと続けられることなんだろうな。

身体の内部、きめ細やかな細胞の美しさを他者の"見とり稽古"のなかにも感じました。



***

日々のなかにエネルギーはひとつひとつ確かにあると思う。(日常生活レベル)

でもその背後にうごめくエネルギーに自覚的でいるかいないかは大きい。エネルギーを具現化させたのが舞踏とも言えるのか。

そのエネルギーは生命そのものが燃えているかのよう。禁断の果実です。

***

ずっと気になっていた
「退(ひ)きの身体」のお稽古。

退(しりぞ)くことによって「身体」が立ち上がると、そこで初めてみえた世界こそが世界であって、その前の段階はわりと人間のご都合的な世界というか、引いた時に、別の世界が立ち上がる、その世界を相手にしていく。一度退いてから、はじめて能動性というものが働くんです。(最上和子さんの言葉より)


今を点でとらえ生きるのではなく、

大きな世界を意識しながら歩むことと、日々粛々と生きることを繋げたい。

例えばお茶碗を持つとか、字を書くとか、お水を飲むとかなにげない所作が美しいひとが好きだった。

モノと丁寧に向き合えるということは、ひととも丁寧に向き合えるということだ。

解像度があがるとなんでよいのだろうか。

お稽古に取り組むと繊細になりすぎて、社会で生きていけないといったひとがいたそう。

とてもよくわかる。
痛みや細やかな感情や空気の変化が感じ取れるようになるから、自分の首をしめるのかもしれない。生きにくくなるのかな。


それでも私は解像度をあげたいと願う。

表出していないもの、その深くに眠るありとあらゆることに気づけることは生きる上でとても大切な宝だから。それは脳内をこえたレベルで生命が欲しているから気づけるのではないか。


死ぬとき、ひとはなにも持ってはいけない。名誉も財産も、どんなに大切なひとでも引き連れてはいけない。

そのときに唯一、小脇に抱えていけるのはそういうものなんじゃないかと思ってる。
身体ではじまり、身体で終わるとは思っていないけど。

わたしの身体の旅はようやく、その一ページをめくったに過ぎない。これまで向き合うことすらしていなかったのだから。

そのページをめくれたのも
ドーム映像「HIRUKO」という作品で飯田将茂監督が、原初舞踏をドームに映し出すという試みをしてくれたから。

作品はナマが一番だと思っていたけど、今回このような上映会があったから多くのひとが舞踏を知り、最上和子さんの生命に出会えた。

作品は確実に人と人との架け橋となり、沢山の種を運んだ。


その運び屋にすこしでもなれたのなら嬉しい。


次の舞踏体験、プロジェクト展開に思いを寄せつつ。

プラネタリウムで観るドーム映像作品「HIRUKO」

死と生、アニミズムとシャーマニズム、映像と身体…現代社会でこぼれ落ちる何かを描く。
監督 飯田将茂   主演 原初舞踏家 最上和子

第一弾上映会を終え、たくさんの再上映を願う声により2019年夏の再上映会が実現。乞うご期待!

⬛️作品ページ http://fulldome-hiruko.com/
⬛️公式ツイッター(情報発信はこちらから。フォローください!)
@Fulldome_HIRUKO

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