左手 (逆転)
「お客さん…、それにしたら?」
ベテラン店員がカウンターの向こうから私の左手のほうを指さして言った。私は、左手に1枚の賃貸物件案内をつかんだまま、大量の賃貸物件案内の中から候補としてピックアップしたものを、さらに右手でめくりながら比較検討していた。
左手の1枚は、もともとは、候補の中にあった物件だった。賃料が予算オーバーなので、最終候補群から外したつもりでいたものだ。私の相手をしていた若い店員もそのことに気づいていて、手ごろな価格の部屋を探してくれていた。
私は、自分の左手がまだその1枚をつかんでいることに全く意識がなかった。複数の間取りや条件を見比べるために、ペンを持ったまま忙しく動いている右手のほうに集中していたからだ。
ベテラン店員は私のほうへ近づいてきて、私の左手がつかんでいた物件案内を受け取り、私の右手がめくっていた最終候補群の上に重ねておいた。私の左手は、再びその物件案内をつかんで持ち上げた。右手がその後を追うように、その紙の反対側をつかんだ。私は、両手でつかんだその物件案内を少しの間見つめ、それから、顔を上げて「これにします」と言っていた。
『寄生獣』という漫画に出てくる「ミギー」のように、私の左手は、ときどき、勝手に動いて「ヒダリー」になる。悲しんでいる人の肩にそっと触れてみたり、私の右手をつかもうとしている人よりも先につかんで動かしたりする。その時、いつもは自在に動いて私の思考や判断と一体化しているよう思える私の右手は、否、私が私であると信じている思考と判断は、もう一人の私の存在を知る。
その日、目の前に平積みされていた本へ、私の左手はスーッと伸びていった。私の左手が取った、シンプルで美しい書籍の表紙には
『進化思考』
と描かれていた。
左手は、本の重みや凹凸のある表紙の手触りを確かめると、それを右手に開かせた。頭が叫ぶ。「きれい。文章も難しくない。これなら、私でも読めそう…、でも…」右手によって閉じられた本を左手に持ったまま、私は逡巡する。左手は私に、本をもとの平積みの山へと戻すことを許しそうになかった。
トクンと心臓が鳴って、顔を上げると、自分の選んだ本を手に、お支払いコーナーへと向かう夫の姿があった。左手は本の重みを味わうように固まったまま動かない。足が、私を彼のほうへと運んで行った。さっきまで固まっていた左手が、彼の手元へと、その「重み」を差し出した。
「この前買ってもらった『問いのデザイン』を書いた人と対談する人の本なの…」口が勝手に動く。意味不明だ、と頭は思う。彼は不思議そうに私を見ると、私の左手が差し出した書籍を受け取り、手慣れた様子でチェックした。そして、「これを買うのね?」といってお支払いコーナーへと歩いて行った。
呆然と見ていた頭と右手が、ようやく主体性を取り戻し始める。
左手は、もう、動かなかった。
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