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14歳の私に衝撃を与えた4人

たしか夏の夕方だったと思う。
実家で、テレビを付けながら食事の準備をしていた。

当時地元のテレビ局は(他のテレビ局がどうたっかは知らないが)
デビューしたてのミュージシャンのPV(今はMVというね)をバックに
天気予報を放送していた。

何気なく見ていた時に、私を釘付けにした長髪のドラマー。
一目惚れだった。

準備そっちのけでPVを見届け、曲名とアーティスト名を記憶した。

その後どれくらい経ってからかは忘れてしまったけど
そのアーティストのCDを手に入れた。

THE YELLOW MONKEY「追憶のマーメイド」


とにかく私はドラムの菊池英二(通称ANNIE)に夢中になった。
その後出るシングルだけではなく、インディーズ時代のアルバムも手に入れ
雑誌の表紙を飾れば買い、音楽番組に出れば夜中だろうとチェックした。

「本当にカッコいい!大好き!付き合いたい!」
って心の底から思ってた。恋に恋する14歳。
一回り以上離れた男に本気で恋していた。

そうしている内に、ドラムのアニーだけではなく
ボーカルの吉井和哉(通称ロビン。私はずっと吉井さんと呼んでいる)にも夢中になった。
こんなカッコいい人がいるなんて。
(イニシャルが同じってだけで喜べた当時は
 おバカで最高にハッピーだったな)

ちなみに当時は、ギターとベースのエマちゃんヒーセの魅力には
子どもだった私は全く気づけなかった。
今思えばあんな色気のある30前後の男達って、他にいただろうか。

こんな感じで、夢中になっている内にとうとうLIVEに行ける時が来た。
どうしても行きたい!と両親に頼み、ライブチケット代を手に入れ
(私の家は小遣い制ではなく、交渉制だった)
当時はネットではなく、電話申込で奇跡的にチケットを手に入れた。

そのツアーが、後に吉井さんが「失敗だった」と発言した
PUNCH DRUNKARD TOUR
ツアーの記録が「パンドラ」と題され映像化されているが未だに観ていない。
前述の通り「失敗だった」と発言があったのを、何年も後に知り
私にとっては初めてのライブで、キラキラした思い出ぃ(「ぃ」は誤字ではない。)を曇ったものにしたくなかったのかもしれない。

初めてのライブ。17歳だった。
当時の私にできる精一杯のおしゃれをしていった。
とはいっても、どんな服を着ていったかは覚えてないんだけど
年上のいとこからのおさがりで、黒いエナメルの小さめトランクを持って行ったことは覚えている。

会場の秋田県民会館に着くと、年上の御姉様達が多くいて
ちょっと恥ずかしい気持ちと、ライブ前特有の緊張感に包まれた。
少ない小遣いで手に入れたグッズは、折り畳み式でバンド名とツアー名がプリントされたヘアブラシ。
今でも大事にとってある。

ライブは、「パンチドランカー」から始まった。
アニーのドラムから。
ドラムの音に合わせて心臓が動いている様に感じた。

そこからはもういまや記憶が薄れているのだけど
御姉様達の動きを必死に真似して
誰かがメンバーの名前を叫べば、それも真似した。

初めてのライブを緊張しながらも楽しんで
また行きたいなと願うのだけどその願いもむなしく、
私が夢中になったバンドは
2001年1月8日に活動停止を発表後、2004年7月7日に解散した。

活動停止前のシングル「プライマル。」のMVを観た時はとてもショックだった。
当時私は、メンバーが当時よく着ていた古着を真似していて
(それで古着が好きになったし、古着屋のバイトを始めた)
古着以外にも、ギラギラとしたグラムロック系のファッションも
真似こそしなかったものの
「これがTHE YELLOW MONKEY!」と思っていて
他のバンドにはない唯一無二さがあった。

それが「プライマル。」のMVじゃ、凝ったセットなんてなくて
吉井さんてばシンプルな黒の革ジャケットだし
サングラスまでしてやがる(←これは当時の感想そのまま)

いや、サングラスなんて他のMVでもしてたんだけど。
MY WINDING ROAD」とかね。

活動停止後、吉井さんやヒーセのソロアルバムも買って聞いてはみたものの
そこに私の好きなTHE YELLOW MONKEYは当然いなくて
「あぁもう、やる気ないんだ…」ととにかくショックだった。

解散の知らせは、居酒屋でのバイト中だった。
店が暇だったせいで、半分泣きながら仕事をしていた。

もうとにかくTHE YELLOW MONKEYはいない。
秋田でのパンチドランカーツアーが私にとって最初で最後のライブになってしまった。
その後、各メンバーのソロ活動には興味を持てなかった。
後に吉井さんがソロライブでTHE YELLOW MONKEYの曲をギターのエマちゃんと一緒にやったことを知っても
ライブに申し込む気にはなれなった。

解散後は椎名林檎がいたおかげで心の拠り所を失わずにいられた。
(椎名林檎沼についてはまたいつか語りたい。)

そうこうしている内に時は過ぎ、活動停止から15年後の2016年1月8日。
私は30代半ば。
まさかの再結成が発表された。
「金がないからだ」とか揶揄する書き込みも目についたが
メンバー全員生きていて、スタイルも保ってて
とにかくまたライブが観られるかもしれない、新曲が聴ける!
という想いが、大げさだけど生きる糧になったし
何より自分自身が生きてて良かった…!と思った。

解散前にあったファンクラブ「ペチコートレーン」は
10代の私には金銭面でハードルが高かったが
再結成後に発足されたファンクラブは迷うことなくすぐに入会した。

そして再結成後の最初のライブ。
奇跡的にチケットを手に入れることができた。
「同じ空間にいられる。」
「再結成後の最初の曲は何だろう」
期待と不安。とても緊張した。

1曲目は「プライマル。」だった。
再結成後の最初のライブでの1曲目が「プライマル。」だったことは
多くのファンが抱えてた苦い思い出ぃを浄化したと思う。
だって、活動休止後にリリースされてその後活動再開することもなく
解散してしまったから。

だからこの曲を最初に持ってきてくれるなんてすごく「粋」だと思った。
ライブが終わった後もただただ「復活してくれてありがとう」
という感謝の気持ちでいっぱいだった。
ライブ後にインタビューされたが、友人と2人で興奮しすぎて
応えていたためか、しばらくして上映された映画
オトトキ」では採用されなかった。
ちなみにオトトキは4回観に行った。

そして再結成後最初のライブだけでなく
運よくその後のライブも何度か当選し
念願の「メカラウロコ」にも参加できたし
地元秋田でもまたライブを観ることができた。
再結成後、秋田では2回ライブを開催してくれたが
GRATEFUL SPOONFUL」ツアーは、県民会館ではなく
まさかの県立体育館。
夏の湿度に雨の湿気も加わって、会場はとても暑かったが
その湿度のおかげで、自分史上最も色気のあるライブだったと思う。

再結成後のライブは行ける限りのものは応募し
当然抽選から外れたライブもあった。
吉井さんの気まぐれかもしれない
「もう解散しない」発言を信じていないわけではないけど
いつ、最後になるかわからない。

ついこないだ、ハイスタの恒岡さんが亡くなったが
一度もライブに行かなかったことを激しく後悔した。
先日のレッチリも、チケット代に躊躇して申込すらしなかったが
やっぱり申し込めばよかったと、この時も激しく後悔した。
行ける内にライブは行った方が良い。

THE YELLOW MONKEYは2023年12月28日にライブがあることを
2022年12月28日に発表した。
何があっても絶対に行きたい。
その時まで、それじゃさよならお元気で

#ハマった沼を語らせて

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