正しい人
一、
先月から新しく入ってきた吉村さんは、「正しい人」だと社内でちょっとした話題になっていた。
松浦さんの話によると、いったいどこから聞いたのか知らないが、彼女は動物性の食品を一切とらず、使い捨てのプラスチック製品は使わず、服も古着屋か信頼できるエシカルブランドで買っている。お昼休みにみんなが行く、向かい側の建物にあるチェーンのカフェは現在不買運動をしているらしい。さらに毎月の給料のうち何割かを慈善団体に寄付しており、寄付額が集まって最近どこかの国の家庭にロバを一頭買ったのだという。
吉村さんはみんなとおしゃべりすることがほとんどなく、昼休みもデスクで家から持ってきたお弁当を広げながらパソコンの画面を見ている。だから松浦さんの話を聞くまで、彼女がそんな意図をもって日々の行動を選択しているとは思いにもよらなかった。
わたしは吉村さんのお弁当の中身を遠くから見てみた。たしかにゆで卵もタコさんウインナーも冷凍のミートボールも入っていない。代わりにお弁当箱は温野菜や十五穀米で彩られていた。そのお弁当を作るのに朝何時に起きているのだろうと考えるとぞっとした。
お茶はコンビニで買ったものではなくちゃんと水筒に入っていたし、紙コップではなくコーヒー用のマグカップをちゃんと持参して、退勤前にそれを律儀に洗って乾かしているのだった。
今日のわたしのランチはコンビニのおにぎりとサラダとヨーグルトだ。お弁当箱どころか、毎日必ず使うとわかっている箸やスプーンさえもコンビニで使い捨てのをもらってきて、食べ終わったら捨ててしまう。吉村さんがこれを見たら怒るだろうか、それとも呆れるだろうか。わたしは急に恥ずかしくなって、吉村さんに見られていないかきょろきょろしながらゴミ箱へと向かった。
トイレへ向かおうとすると、吉村さん、まじめなのはいいんだけどねえ、と松浦さんたちがコーヒー片手に話しているのが聞こえた。
「なんていうか、何を考えてるのかよくわかんないのよ。まあ今回の件が終わればもう関わることもないんだけど、もっと一丸となって和気あいあいとやりたいとわたしは思ってるから」
内緒話のつもりなのだろうが、松浦さんの甲高くて、語尾を伸ばす甘ったるい話し声は天井の高い廊下でわんわんと響いた。
吉村さんは今度のプロジェクトで松浦さんとわたしと同じチームになっている。たしかに彼女は寡黙でちょっと近寄りがたいところがあるかもしれなかった。しかしチームのマネジメントはわたしではなく松浦さんの仕事なので、経験豊富な彼女に任せておこうと思った。
昼休みが終わるまであと数分あったので、ロビーの椅子に座ってSNSを開いた。大学時代の友達が有給をとってディズニーに行っている。誰かが今日もラーメンを食べている。サークルの先輩が結婚したようだ。下のほうまでスクロールすると「あなたへのおすすめ」が出てきて、ペットの動画には「かわいい!」というコメントを差し置いて「いいねのためにペットを利用するなんてどんな神経してるんですか?」というコメントが、料理動画には「おいしそう! 作ってみます!」というコメントよりも「夏休みだからってこんな手抜きみたいなご飯食べさせられる子どもさんが可哀想」というコメントが、それぞれ上のほうに表示されて注目を浴びていた。人気者になるのもそれはそれで大変だと思った。
ニュースアプリを開くと、昨年からA国とB国間で起きている紛争の死者が、B国の人口の四分の一に達しそうだと書いてあった。「関連記事」欄にはA国を擁護する記事もあれば、その下にはB国で起きている惨事を写真とともに付きで訴えている記事もある。一部の写真には「センシティブな画像」としてぼかしがかかっている。わたしが生まれる前からずっと、悲劇がこの地球上から消えることはない。
このまま地球の温暖化が続けば森林火災や干ばつでより多くの人が亡くなるだろう、という記事もある。確かに日本の夏は年々暑くなっていって、それは温暖化のせいなのだけど、わたしは余計にクーラーを使う頻度が増えるという悪循環に陥っている。
スマホの画面を消して、オフィスの吹き抜けになっている高い天井を見上げた。わたしの生きてる範囲の、この両手が届く範囲の狭い世界はなんて平和なんだろう、と思う。この平和な世界とあちら側を隔てるものはなんなのだろう。そんな考えが、開閉する自動扉から吹き込む生ぬるい風と共に脳裏をかすめていったけれど、そろそろわたしは午後の仕事に戻らなければいけない。
視線を元に戻すと、そこに吉村さんが立っていた。びっくりして軽く会釈をしたけれど、彼女は眉間に皺を寄せたままそこから動かなかった。わたしなんかやらかしたっけ、と逡巡したけれど、どう考えても特に吉村さんに睨まれる筋合いはないのだった。松浦さんがああやって愚痴をこぼすのもなんだかちょっとわかる気がした。
二、
午後からはクライエントとのオンライン会議があった。先方の社員はパソコンを使い慣れていない年配の人が多く、音声が聞こえないとか画面共有ができないとかいう理由で会議はそのたび中断された。なかなか終わらない野球の試合みたいだ。ランチで急上昇した血糖値が下降するせいでわたしはあくびを噛み殺し、向かい側の建物にあるカフェのトールサイズラテをちびちびと飲んで黙っていた。ここのコーヒーはトールサイズならかなりお得だと思うし、週替わりブレンドを選ぶのも楽しい。しかし最近は店の前を通るたびに吉村さんの顔が脳裏に浮かんで、なんだかコーヒーを買いにくくなった気がする。そのカフェは最近コマーシャルが人種差別的で炎上したとかの理由で、アメリカで不買運動が広がっているらしい。「不買運動」という言葉すら馴染みのなかったわたしは、吉村さんがその運動をしている理由を知りたくてネットで調べたのだった。
先方の社員が資料共有でモタモタしている間に、松浦さんがわたしに耳打ちした。
「ちょっとこのあと、残ってもらってもいい? 懇親会の準備、お願いしたくて」
新しいプロジェクトが始まる際に懇親会を開くのが恒例なのだが、どうやら今回はわたしがその担当になるようだった。
会のメンバーはわたしと松浦さん、ほかのチームメンバーである田中さん、白木さんと吉村さん。場所はいつもの鶏料理の居酒屋でいいかな、と思ってぼうっとしていると、むつかしい顔をしてパソコンの画面を凝視する吉村さんの姿が視界に入った。そういえば彼女は動物性食品を食べないのだった。心拍が急に早くなり、わたしは唾を飲み込んでそっと胸に手を当てた。
仕事がひと段落したときに、野菜中心の料理が食べられて、それでいてお酒も飲める店を探し始めた。しかしたいていの店は会社から遠いか、個人経営のビストロやレストランで、飲み放題三千五百円とは比べものにならないくらい高級だった。松浦さんが「おっ、やってるね」と言って後ろを通りかかった。
「あれー、いつものところじゃないの?」
わたしは松浦さんの前で急に、吉村さんのためにほかの店を探しているとは言いづらくなった。
「ちょっと新しいところ開拓しようかと思って」
わたしがへらへらしていると、松浦さんがパソコンの画面をのぞきこんだ。検索画面には「ヴィーガン料理 東京」という文字が並んでおり、松浦さんはそれを見ると笑ってわたしの肩を叩いた。
「そんな、たった一人のことなんて気にしなくていいんじゃない。あの人が肉が嫌だったらほかのものを食べればいいんだし。あなたにも負担かかるし、サクッと済ませましょうよ」
松浦さんからは複数の化粧品が混じりあったにおいがして、彼女の眉山はキュッと高く、眉尻は細く描いている。まるで平成初期のファッション誌から飛び出してきて、そのまま令和の東京に取り残されたみたいだ。彼女は長い前髪をかきあげてからヒラヒラと手を振り、「バイバイ」と言って退勤していった。
わたしは今の会話が吉村さんに聞かれていないかどうか気になって彼女のデスクの方を見た。給湯室で、丹念にコーヒーのマグカップを洗っている彼女の背中が見えた。
帰りにわたしは初めて吉村さんに話しかけた。
「吉村さんって、なんか好きな食べ物とかあるんですか」
我ながら唐突でアホみたいな質問だった。
吉村さんは意外にも、「そうですねえ」と言ってしばらく真剣に考えていた。
「パスタが好きです。いろいろ具材のバリエーションがあるので」
なるほど、と答えた。確かにイタリアンだったらペペロンチーノとかきのこパスタとか、吉村さんも食べられるメニューがあるのかもしれない。
横断歩道の信号が赤に変わった。雨あがりの夜で、濡れた群青の道路が信号や街の明かりを反射していた。
「吉村さんは」
そこまで言いかけて、わたしは口をつぐんだ。
吉村さんは、どうして「正しい人」でいられるんですか? そう聞きたいけれど、その聞き方じゃあまりにも失礼な気がした。
彼女はスマホから顔を上げてこちらを見ている。獲物をとらえる動物のような、そしてちょっと相手を軽蔑するようなその目つきに、心音が高鳴るのを感じた。
「吉村さんは、社会問題とかけっこう関心があるんですか」
はたしてその聞き方も正しいのかわからず、心臓の音が頭のほうで大きく聞こえた。吉村さんはまっすぐ道の向こう側を向いて答えた。
「関心がある、ないとかいうより、わたしは苦しいのよ」
え、と思わず聞き返した。「苦しい、ってどういうことですか」
「自分がおいしいご飯を食べたり友達と笑ったり、恋人と寝たりしてる間も、命の危険に晒されたり、苦しんだりしている人々がいるという事実にただ耐えられないのよ。自分だけでも正しくあることで、免罪されようとしているのかもって思うこともある」
わたしはどう返せばいいのかわからず、黙って吉村さんを見つめていた。
「でもこれってきっと傲慢よね。わたしもわからないの。おかしいでしょ?」
吉村さんはかばんの紐を強く握りしめ、わたしのほうを向いた。彼女の笑顔を初めて見たような気がするが、その口角はぶるぶるとひきつっていた。吉村さんの眉毛は「ハ」の字に歪んでおり、大きな両目には大きな宝石みたいな涙が溜まっていて、それは今にも地面へこぼれ落ちていきそうだった。
「おかしくなんか、ないですよ」
わたしは自分が思っているより大きな声を出したことにびっくりした。
「わたしは、おかしいとは思ってないです」
しかしその先に続くべき言葉が、わたしにはわからなかった。自動車用の信号が黄色になり、赤になり、車が停止した。
歩行者信号が青に変わると、彼女は「じゃ」と挨拶して足早に道の向こう側へと渡っていった。道のこちら側には、わたしがひとり取り残された。
眠れなくなるのはわかっているけれど、なんとなくベッドの中で画面をスクロールするのがやめられなかった。友達はあいかわらず仕事おわりにあのチェーンのカフェに行ったり、恋人と手をつないだり、飼っている猫とじゃれていたりする写真を投稿していた。
「おすすめ」欄にはいつもの通り料理やDIYやアイドルやペットの動画が表示されていて、コメント欄ではそれぞれがそれぞれの正しいと思うことを言い合っていた。画面にはときおり、海外の激安通販や整形や怪しい痩せ薬やエロ漫画の広告が表示された。吉村さんもこういうところでコメントしたりするんだろうか、と思ったけれど、吉村さんは若いのにSNSを一切やってないのだと松浦さんが言ってたのを思い出した。
わたしは天井に向かって両手を伸ばした。それから両手を大きく回して布団の感触を確かめた。布団はいつも通りのやわらかさとあたたかさで、エアコンはちょうどいい室温と湿度を保っていて、あたりは静かだった。ときおり近所の家から犬の鳴き声や、駅のロータリーから都営バスが発車する音が聞こえた。
正しいということがなんなのか、幸せがなんなのかわからなくなった。「正しくあることで免罪されようとしている」という彼女の言葉は、きっとあまり正しい言葉ではないけれど、でもなんだか彼女の正直な気持ちなんだろうなという気がした。そしてその気持ちが正しくともそうでなくとも、それはそのままで大事なことだと思った。
わたしはスマホを消すと横向きになり、胎児のように丸まって目を閉じた。こちらを睨みつける吉村さんの顔と、ひきつった笑顔とともに両目に涙を溜める彼女の顔が交互に思い出された。
懇親会はイタリアンで、料理が個別注文できるお店にしよう。そうすれば吉村さんも少しは選択肢が広がるだろうし、他のメンバーも納得するはずだ。ぼんやりとそう考えていると、わたしの意識はまどろみの中へと静かに引きずりこまれていった。
三、
通院の予定があるからといって、けっきょく懇親会に吉村さんは来なかった。おまけにそのイタリアンのお店は、お世辞にも料理がおいしいとは言えなかった。
「せっかくだから、ほんとは全員来てくれればよかったんだけどねー」
松浦さんは「はあー残念っ」とアニメの登場人物みたいなため息をつき、リップグロスと油でテカテカした口元を白いナプキンで拭った。
「会社は学校じゃないから個人の価値観とか行動とかをみんなに合わせろとは言わないけどさ。でも仕事とはいえチームワークも大事だと思うんだけどな」
向かいの席に座っている田中さんが口を開いた。
「でも通院なら仕方ないんじゃないですか。今の時代、プライベートまで強要することはできないし」
田中さんの隣に座る一年目の白木さんは絵文字みたいな笑顔をつくって、松浦さんと田中さんの両方に対してうんうんと頷いていた。
「時代、時代か」
松浦さんはつぶやいた。彼女のまつ毛の上では真っ黒なマスカラがダマになっており、アイラインが溶けて下まぶたにくっついていた。彼女が黙ると、なんとなくテーブルの雰囲気が悪くなってしまった。
「でも、みなさんとこうやってちゃんとお話しできてわたしは安心しました。本格的なプロジェクトに携わるの、初めてだったので」
白木さんが言うと、少しだけ場が和んだ。
「そうそう、白木さんよく頑張ってくれてるよ」
田中さんが笑顔になった。自分よりも若い二人に気を遣わせてしまってなんだか申し訳なくなった。
「今日、ありがとね」
会計を済ませた松浦さんが疲れた顔で言った。きっと飲み会にはあまり満足していなかったのだろうが、きちんと感謝の気持ちを伝えてくれるのはありがたいと思った。
「帰ろっかー」と松浦さんはわたしに笑顔を向けた。田中さんと白木さんは実家暮らしなので先に帰ってしまっていた。
時計を見ると十時近かった。横では松浦さんがスマホを開いており、息子さんの写真を壁紙にしているのが見えた。
「今日、お子さんはどうしてるんですか」
「実家の親が来てくれてるの。でもこんな小さな子がいるのに職場の飲み会なんて、って呆れてた」
「そうなんですね」と言ってわたしは笑った。松浦さんのこんな自虐を笑えるのも、わたしたちの信頼関係があるからだった。
わたしたちは駅に向かって、ふわふわとした気持ちで歩いていった。繁華街はまだまだ元気で、賑わっている店の前を通ると炭火やにんにくのにおいが鼻先をかすめていった。
「親不孝って言葉があるけど、ダメな親はなんて表現すればいいんだろう」
ふと松浦さんがつぶやいた。
「松浦さんは立派なお母さんじゃないですか」
「そうかなー」
松浦さんはため息をついた。
「子どもをとるなら仕事は後回し。仕事をとるなら子どもが後回し。どっちもバランスよく、なんていうけど、そんな世の中になる頃にはわたしゃとっくに死んでるわ」
実家に頼ることはあるにせよ、普段は一人で息子さんの面倒をみながら立派に仕事をしている松浦さんは、ちょっと価値観が合わないところはあっても尊敬できる先輩であることに変わりはなかった。きっと彼女の抱える問題は、松浦さん自身の問題ではなく、もっと社会のシステムとかみんなの考え方とか、松浦さんよりもっと大きななにかの問題なんだろうなと思った。
「昔は女だったらみんな最初はお茶汲みコピーとり、飲み会ではお酌だった。心の底ではおかしいと思ってたけど、そんなこと言い出したらそれよりも大切なものを失いかねないから黙ってるしかなかった」
うちの会社もコロナ禍でやっと、あいまいになっていた働き方改革が始まった。残業が減り、リモートワークが増えてわたしたちの世代のストレスが減ったのは喜ばしいが、松浦さんの世代は負の遺産を抱えていることを忘れてはいけないのだった。
「吉村さんのことなんだけどね」
駅の明かりが見えはじめた頃、彼女が口を開いた。
「わたしは嫉妬してるのかもしれない。わたしだって自分の子どもが大人になったとき、今よりもひどい世の中になっていてほしくないと思う。そのためにはやるべきことが無限にあって、でもそれを見て見ぬふりしていて、その罪悪感を抱えながら今の幸せを生きているの。子どもがこれから生きていく世の中に希望を持たせたいと思いつつも、正しさを犠牲に幸せや便利さや快適さを得ている。これって矛盾だよね」
ただしさ、とわたしは口に出して言ってみた。次に、しあわせ、とも。
松浦さんにとっての正しさと、吉村さんが考える正しさと、この地球や社会にとっての正しさは少しずつ違って、それでも同じくらい尊く、また切迫しているものだと感じた。
「少し飲み過ぎたかな。バイバイ」
松浦さんは改札口でわたしに手を振った。
十時を過ぎ、駅前のショッピングモールはとっくに閉店したにもかかわらず街は煌々とライトで照らされていた。
松浦さんと別れて一人になり、電車の中でSNSを見る。友達はあいかわらずラーメンを食べたり海鮮丼を食べたり海外旅行をしたりしていて、「おすすめ」欄の動画のコメントはいつも通り荒れていた。
B国の死者数は人口の四分の一を超過し、国境沿いの橋も爆破されてしまったため救援物資や食糧が届かなくなった。日本出身の義勇兵も、激しい銃撃戦により二人死亡した。
今年は異常気象が多く観測され、今年の夏は観測史上もっとも気温が高かった。地球の温度は今世紀末までに一.四度から四.五度上昇し、関東地域の真夏日は現在の倍以上になるかもしれないと予測されている。
四、
オフィスから徒歩三分ほどのところに喫茶店があり、たまにそこのナポリタンを食べることを楽しみにしていた。向かい側は公園になっており、今日は曇りだからか、夏休みの子どもたちの姿がいつもよりも多く見えた。
一人の小さな男の子がシャボン玉を吹いた。シャボン玉は風に流され、くっついたり離れたり、くっつきすぎてお互いに割れたりしながら、わたしの背よりも高い空まで飛んでいってぷつりと消えた。
しあわせ、とただしさ、という言葉は、わたしの胸の奥で、いつまでも吹かれずに固まったシャボン玉みたいにつっかえたままだった。
ここの喫茶店はおしぼりもビニールの袋に入っているし、ストローもミルクの容器もいまだに使い捨てのプラスチックのままだ。わたしは死んだ一匹の豚の肉を食べている。ナポリタンどころか、栄養ある食べ物すら口にすることができない人々が、どこかで今日もあえいでいる。
わたしは大きな口を開けてナポリタンの最後の一口を運んだ。パスタは太麺でもちもちしていて、ソースは胡椒が効いていると同時にトマトの酸味や甘味が絶妙なハーモニーを醸し出している。
ごちそうさまでした、と声に出して言った。これが正しいのかどうかはわからない。今日のわたしの幸せは、このナポリタンでできている。
オフィスに戻ると、吉村さんがお弁当を食べながらパソコンで何かを作っているのが見えた。
目があって軽く会釈をすると、彼女がおもむろに口を開いた。
「ペットボトルのラベルや蓋を取らないまま燃えるゴミに捨てる人が多いので、分別のポスターを作るよう言われたんです。これでも社内SDGs推進の一環です」
なるほど、とわたしは言った。しかし社員も子どもじゃあるまいし、お昼休みを使ってわざわざ分別ポスターを作らなければいけない彼女が少し不憫に思えた。
「でもわたしは嬉しいです」と、彼女は画面から顔を上げずに言った。
「一人で正しいことをするのは怖いけど、どんなに馬鹿馬鹿しいくらい小さなことでもみんなでやればちょっとハードルが下がるじゃないですか」
確かに、とわたしは答えた。
「正しさって、みんな同じ方向を向くようになにか大きな権力に強制されることなんじゃないかと思ってました」
わたしは、眉間に皺を寄せて著作権フリーのイラストを探す吉村さんの背後で言った。
「でもいろんな人にいろんな事情があって、それぞれちょっとずつ違う正しさがあって、それが最終的に集合体として良い方向を向いてればいいんですよね、きっと」
「さあ、知らんけど」と吉村さんが真面目な顔で言ったので、わたしは思わず声をあげて笑ってしまった。
「吉村さん、今度はイタリアン一緒に行きましょうね」
彼女はパソコンのキーを叩きはじめた。
「気が向いたら」
それはとても彼女らしい答えだった。
今日もわたしは死んだ動物の肉を食べる。たくさんのゴミを出す。エアコンをつける。車に乗る。あのカフェのコーヒーにお金を払う。街頭募金の人を無視する。そして幸せや便利さや快適さを手に入れる。
正しくないわたしがいる。正しくなろうと、幸せになろうともがくわたしがいる。
わたしはパスタをタッパーに詰め、解凍したソースをかけてフォークで混ぜた。あとはオフィスのレンジであたためればいい。普段使っていないフォークと箸をタッパーの上に置き、花柄の風呂敷で包んでかばんの中に入れた。
手作りのナポリタン、自分専用のフォーク、やわらかい風呂敷の手触り。今日のわたしが、明日のわたしたちが少しだけ幸せになれるように願った。
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