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ふたつにあらず ほしをしるわけ

2年前家族で
信州諏訪へ
旅をしました

諏訪は
もともと愛する場所で
何度か訪れていますが
その時の目的は

「不二山」


本阿弥光悦の
最高傑作と名高い
国宝です

 期間限定でしか
見ることの叶わぬ
この焼き物に
じっくり出逢ってみたいというのが
この旅の目的でした


初めてみる「不二山」
何度も何度も
くるくると
さまざまな角度で眺めたものでした


光悦という巨人の
徹頭徹尾、知であった
その証を
目の当たりにしているような
そんな感覚を
抱きました

それ以来、
最も好きな焼き物として
Heartに刻まれた「不二山」
ですが

数日前の
父の言葉で
また、わたしの中で
その存在が
大きくなっています

父は
唯識をメインに
仏教を勉強しており

よくわたしたちは
ゼロ 空について
話しあいます

時に講義のような
ディスカッションのような
父との対話は
わたしにとって
とても大切な時間なのですが

数ヶ月まえに
父に
あの光悦の不二山は

「ふたつにあらず」

って意味なんだね、
と言われ
わたしも
そう理解していたので

「そうだね、
わたしもそう思う
ふたつとして並ぶものがない」
って、ことと
富士山もかけているのだと思っているよ
と答えました

その時はそれで
話は別のことへ移ったのですが
数日まえに
また父から

あの「不二山」は
「ふたつにあらず」って意味だね

言われたのです

前と同じこと?と
思っていると

「ふたつにあらず」は

ふたつにわかれていない

ということだと

そのことを
この焼き物は顕しているのだ、
と言います

衝撃がはしりました

あの時、しげしげと眺めた
色やフォルムが
まざまざと浮かんできます

そして、
理屈でなく
合点がいったというか
深い深いところで
「あぁ、そうだ」
この焼き物は

一なるもの

なのだと深く合点しました

父から
そのことを聞き
数日経ち
ずっとこのことを
感じている最中ですが

なぜわたしが
占星術を学び
自分なりに研究しているのか

そのことも
わかったような気がします

すべての惑星や
すべてのサインを
自分だと受け入れることは

「自分なくし」

なのだと
わかったのです

わたしにとって
占星術とは
自分探しではなく
自分なくしだった

そのことも
深いところで
なんだか納得するのです


万華鏡も
いかに
自分をなくすか
そのことが
鍵のような
そんな気がしています


love&light🧜‍♀️yuki



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