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園田林太朗の仕事のことなど(2019)

この記事はTwitterから私を知っていただいた方々に向けたものです。

Tweetでは役に立つ金言をご提供できないのですが、勢いで生きてきてもそれなりに学びや経験は得られるよという意味でまとめてみました。
実績ではなく、いつどんなことを学んだのかを歴史を追って書いてみたものです。胸アツなエピソードはたくさんあるのですがキリがないので省いてます。

■株式会社TKC時代(2000年4月~2001年3月)

株式会社TKCに新卒入社した。
税理士・公認会計士のシステムコンサル会社、と聞いて入ったが、世の中的には会計システムの会社として知られている。
東証一部上場、23期連続増収増益というスゴい会社だったと今になってその意味がわかる。それくらい当時は何も考えずに就職していた。

最初はシステムエンジニア。業界的に簿記は必須


採用された職種はSE、システムエンジニア。同期は120人いた。
栃木県宇都宮市の開発本社で半年すごす。
相続税システムのひよっこエンジニア、というかプリンタテストして不具合出しただけ。その節は本当にご迷惑をお掛けしました。8000枚の修正プログラムフロッピーディスクをひたすら作って送付した事は今でも覚えています。

また、税法の改正が決まる前の協議段階から企業も議論に参加しているということを知ったのはこの時。法と経済は密接と学んだ

学生時代に趣味で簿記3級を取っていたが、入社前に2級を取ったらボーナスをくれるというので真剣に勉強して取った。業界的に簿記は知ってて当たり前のモノだった。簿記の知識は今でも役立っている、一番コスパが高い知識かもしれない

税理士回りのルート営業へ異動


半年経った頃「営業へ5人ほど異動しないか」という募集に応募。

八王子営業所へ異動。
担当範囲は23区以外の東京すべて。営業マン1人が三十前後の会員税理士事務所を担当し、毎月1回以上訪問していくいわゆるルート営業。
ルート営業といいつつ、当時はパソコン普及期だったので「社長がゲームやってたらパソコンが動かなくなった」とか「便利なショートカットを教えてくれ」みたいなパソコンそのもののお手伝いが多かった。この時期にPCスキルがかなり増えた

会計士のシステムコンサルタントになるつもりだったのに、なぜパソコンやプリンタを売ってるのかが腹落ちできず、また、なぜ営業と開発がいがみ合ってる(ように見えた)のかが分からなくてストレスを抱える。当然成績も上がらない。青かったし、甘かった。

偶然の出会いがあり、転職。
社会人2年目の春には2社目へ。

■株式会社ビジア時代(2001年4月~2012年5月?)

転職して10人以下のITベンチャーへ

大学時代の先輩が働く10名弱のITベンチャー企業に入った。
社長は当時は面識がなかったけども高校時代の先輩だった。
JR武蔵小金井駅から徒歩数分にあるオフィス。

当時はドコモ、J-PHONE(現ソフトバンク)、auの時代。
携帯電話でインターネット接続ができる、そこに掲載する情報でビジネスができる、という大きな波に乗っていくつものベンチャー企業が立ち上がっていた。その中の一企業だ。

ビジアは2輪4輪のモータースポーツ情報サイトを展開していて、月額300円を支払うユーザーを数万人持っていた。そもそもそこに目をつけたのはイベント業においてレース関係に関わっていたからだ。
ということでビジアは「WEB」と「イベント」の2つを主な生業にしていた。

ケータイサイト、PCサイト、芸能界チラ見、WEBデザインの端くれ

モバイルだけでなくPCwebもやった。
私は入社早々に芸能レポーター梨元勝さんの公式WEB担当に就く。テレビ局に行ったり、映画記者会見に行ったり、人に言えないような取材のそばにいたりと芸能界を垣間見た。WEBの技術どうこうより交渉や業界のしきたりを学んだ時期。あ、書籍化にも関わり、文字校正の経験もした
学生時代に独学したHTMLが活きた場面でもある。簡単なページ作成や修正は全部自分でやった。なおデザインは下手だ。

提案営業、企画、取材、サイト設計、システム開発などを同時に

並行して、レースクイーンの待受画像サイトなどの企画書を作ってキャリア(ドコモ、J-PHONE、auね)の担当に提案しつつ、その企画書を実現すべくPHPとSQLでサイト構築を行う日々だった。
レースクイーンのデータベースを日本で最初に構築したのはボクだと思う。どうでもいいけど。
提案営業、企画、取材、サイト設計、システム開発などを同時に濃密に学んだ
とにかく細かく刻んでタスクを書き出し、どんどんやっつけていく。タスク管理を習得したのはこの頃。体系だった仕事の仕方はネットの記事を見て、本を読んで学ぶことが多かった。

週末は国内のサーキットに取材に行くか、ヨーロッパ時間、アメリカ時間でメディアから届く速報をサイト掲載する生活。いやこれを同時並行してたことも多かった。サーキットにおいてもレースクイーンの取材とレースの取材、だいぶ種類の違う事をやっていた。これを全部繋げると金曜朝から月曜昼までうたた寝くらいしかできないことになる。
新しいコンテンツ、サイトリニューアルの開発がここに重なり、寝ない帰らない日々も多かった。ここで鍛えられた

この頃は動作確認の必要もあり3キャリア全ての携帯を持ち、あらゆる動きをメール通知してたので未読数百件は当たり前、大量の情報を浴びてその中から必要なものを選ぶ生活スタイルはここから始まった

小規模のシステム開発プロデューサーも

モバイルで身につけたシステム知識を基にプログラムが関わる案件も多く経験、プロデューサーポジションが多かった。とはいえ大きくても10人月くらいの規模。小さいながらシステム開発を学んだことがその後に活きた。

新卒採用事業の立ち上げ

ビジアは成長拡大し、新卒採用を行うことになり、その立ち上げを担当した
その企業がなぜ存在し、どう世の中に役に立とうとしているのか、そこで働く人達はどんな想いでここに居るのか。こうしたことを言葉に文字にすることは非常に良い経験だったと思う。
ミッション・ビジョン・バリューといった企業の根幹を学んだのがこの頃。
また、学生と真剣に向き合うことで自分とも向き合ったと思う。


社長になった

分社化して、モバイル・WEB部門を担う子会社の社長になった
創業したわけではなく安定収入を生む事業もある状態なので、並み居る経営者先輩方を前に語れることは何もないが、資金繰りの大変さを多少経験した事業計画を立てて、それを実行・達成させるという事に会社単位・年単位で向き合ったのも良い経験だった。

創業社長たちの集まりに顔を出させてもらうことも多くなり、先輩経営者の生き様をたくさん学ばせてもらった

野菜もフリーペーパーも自治体もイベントも

ビジアでは他にも本当に様々なことをやった。
野菜の路面販売、フリーペーパー制作、自治体入札などなど
やったことがなくても調べて聞いてみれば何でもできる事を学んだ
特にイベント業は教えてくれたことがとても多い
「段取り8割、本番2割」「スジが大事」など今でも活きている。
なお、この業界も寝ない帰らない朝早い。
気合!根性!頑丈!とかいう割には繊細で柔軟で夢のある世界だと思う。


■株式会社インフォマート時代(2012年7月~現在)

色々あって、もう一度「WEB制作」と向き合いたくなり転職。
入れてもらえたのは、インフォマートだった。

当時は外食産業・フード業界にシステム提供するベンチャー企業という見られ方だったと思う。社員200人程度、マザーズ上場、経常利益率が非常に高い有望企業。

フード業界ベンチャーのWEBディレクターへ

WEBディレクターという職種で入った現場は大炎上中だった。
ここでいう現場とは会社全体のこと。予定していたフルリニューアルが2年遅れてて、開発本部は常に緊急事態だった。

インフォマートは村上勝照というスーパー社長が牽引する企業だった。
この動画を見てほしい。

このコワモテの社長が、営業全員の日報に目を通し、お客様からの問い合わせ全てを最初に読み、昼夜土日問わず事業のことを考え続けて、出した方針によってサービスが作られていた。

独裁というとそれまでだが、それだけ真剣だった。本部長や部長が社長室に呼ばれると2時間3時間と戻ってこなかった。事業をお客様を社員を真剣に考えていたからこそ説教が止まらなかったのだろう。

そこに「役職は役割でしかない」と考えていた私が現れ「世の中ではこうやってる。外を見たほうがいい」「この問題の本質はここだ」などと好き勝手言ったのが、この会社では新鮮だったらしい。社長含め多方から重宝された、と思う。

新規プロジェクト「BtoBプラットフォーム請求書」立ち上げ

大炎上していた会社全体のプロジェクトが終わると、新サービス立ち上げのチーフディレクターに選ばれた。それが「BtoBプラットフォーム請求書」、請求書のやり取りをオンラインで行うサービスだ。
会計知識、経営経験、実際に請求書を発行し受け取っていた経験が活かせた

こちらも膨大な時間を使って、サービスリリースした。
詳細省くが、そりゃもう働きまくった。残業350時間は行っていた。定時160時間を足して30日で割ると毎日17時間労働で休日なし、今はもうできないと思う。

ここでは大規模開発、部署間調整を学んだ
ノリと勢いでは数十人月、数百人月の開発案件は進められない。
社内外の様々な利害ある方々に動いてもらうには、多種多様な調整が発生する。ロジカルで優秀な人ほど、同じ土俵には上がらずに意外な方向から絡んでいって共感しあい理解しあう、そんな調整術を磨いていった

「大人数に影響するからこそ、きちんとした段取りを踏んで、運用フローを決めてマニュアルを作成して、各所の意見を取り入れて始めるべきだ。」
そんな常識が渦巻くところに「とりあえず駆け抜けてって獣道は作るのであとの道路舗装はお願いします」的に切り込んでった。多くの人に好かれて疎まれたに違いない。
道路舗装が上手なメンバーがチームに加わってからは非常に上手く回っていった。適材適所、欠点を補い合うチームの形を学んだ

開発本部の中でも新規事業立ち上げを担当する役員直轄部署に異動になった。他社との協業や新機能のタネ集めなどをやっていた。

新規サービス立ち上げ、リスト管理営業を学ぶ

その次は新規サービスの立ち上げメンバー。
テスト営業をしながら必要機能を具体化して開発メンバーと形作っていく。とはいえ営業職でもあるので日々3,4件訪問し、営業記録をつけて、ランクで管理し、今月の獲得目標を追いながら来月再来月の見込み案件を育てる、インフォマート直伝のリスト管理営業の型を学んだ

様々な協力を得て、サービス第1号契約、通期営業成績1位を獲ったが、目指していたチームの通期目標達成はできなかった。悔しいもんだ。

これまでの集大成、何でも屋

翌年、正式に営業部門へ異動となった。
サービス立ち上げに関わった「BtoBプラットフォーム請求書」担当。
執行役員直轄の遊撃隊として「前例のない取り組み、標準化されていない業務を先行して担当して事業目標達成に貢献すること」をミッションとした。

ここまでの集大成と言えるような何でも屋となった。
新規営業、インサイドセールス(の真似ごと)、アライアンス交渉、法務調整、自治体提案、広告制作、イベント制作、メディア制作などなど

アート、文化。一見ビジネスと無関係なものも人生に迎え入れ始める

仕事やプライベートを通じて出会う人が非常に増え、趣味が広がり、生きることを改めて考え直し、ビジネス直結な知識だけでなく、学問と呼ばれるものにも興味が増えた。アートや哲学・文化人類学に刺激を受ける一方、探究心が爆発して、歴史、昆虫食やサウナなどをどんどん掘り深めていっている。これらが全て人生を豊かにし、仕事を豊かにしている。

こんな人が呟いているのが @sonodarin です。


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