見出し画像

CRYAMYとわたし

6月16日。日比谷野外大音楽堂で3時間半の伝説を目の当たりにしてから丸3日経った。

まだ余韻が抜けないまま心は野音に置き去りにしてしまっている。
それなのに記憶はどうしても薄れていくもので、伝説の全ての瞬間を切り取って心に留めて置けないことが悔しくてならない。


私がCRYAMYに出会ったのはいつだったのかはっきり覚えていないけど、中学生のときだったと思う。

調べてみると2019.12.9にチャンネル登録をしていた


始まりはYouTubeでディスタンスのMVを見つけてしまったことだと記憶している。
中学生の私は人生に絶望していた。
学校にも行けず、家からも出ず、だからと言って家に居場所もなくて、毎日自分が嫌いで泣いて泣いて頭が痛くて、弱くて何もできない自分を責めて、死んでしまいたかった。生まれたくなかった。
そんな状態の私に、たまたま見つけたディスタンスがぶっ刺さった。

"生まれてきてよかったなんて思ったことはないんじゃないかな"

私のための曲だと思った。
カワノの叫ぶ歌声と掻き鳴らすギターとうるさいノイズは、何も聞きたくない私の耳を塞いでくれた。

CRYAMYを知ったとき、本当にこの怖い人たちがこんなに優しい音楽を作ってるの…?と思った。
実際、それから4年経ってライブハウスの最前列で彼らを見たとき、目つきは悪いし口数は少ないし、ものすごい形相で叫ぶし、怖すぎて目も合わせられずに固まってしまうことになるんですが。

でも、知れば知るほどカワノは優しい。
彼はきっと世界から受け取るものが人よりも多くて、だから傷つきやすくて、苦しみながら生きている人なのだと、音楽を聴けばわかる。

叫びも、ノイズも、尖ったあれもこれも、自分を守るための武器だったのかもしれない。
そう思うと、急に彼らが身近に感じられた。

最後までカワノは優しかった。

私達に向かって、
生きろ生きろ長生きしろ愛してるよありがとうって、しつこいくらい言ってくれた。
カワノはそういう人です。
自分が苦しくても、私達にはいつも優しくいてくれる。どうしようもなく優しくて弱い人間だと思う。
でもあの場所にいた3000人は、私達だけは、カワノにあの日あの場所で全力で返そうとしていたと思う。
俺らに生きろって言うならカワノも死ぬなよ、長生きしろよ、愛してるよありがとう、CRYAMYの音楽に救われてるよ、が3000人分確かにそこにあった。

去年の冬に世界をリリースしたとき。
これはやばい、と思った。よすぎる。
よすぎると思うのと同時に、込められた熱量がすごすぎて、このまま燃え尽きてしまうような気がした。
同じように感じた人はたくさんいた。
解散しそうなアルバムだと話題になっていた。

私はそれまでCRYAMYのライブに足を運んだことがなかった。
でもこのアルバムを聴いて、行かなければ、見れるうちに、会えるうちに、行かなければ、と思った。
ライブハウスで、すぐ目の前にいる彼らを見て、声も出ないくらい圧倒されていた。

野音にはもともと行く予定ではなかった。
情報解禁されたとき、絶対に行きたいと思った。絶対に見届けたいと。
でもあまりにも田舎に住んでいるものだから、交通費諸々のことを考えて、諦めるつもりだった。

けど、どうしても引っかかったまま諦められなくて、野音で彼らを見られないことはきっと今後ずっと後悔することになるだろうと思った。
4月の最終先行ギリギリまで悩んで、結局申し込んだ。
4月の私、よくやった。


6月16日。
物販列に並びながらリハを聴いていて、カワノ死ぬんちゃうか…?と思った。
あまりにも本気のリハだった。本番を数時間後に控えるバンドの熱量とは思えなかった。
それでもなかなか実感が湧かず、ふわふわした気分で物販列がじわじわ動くのを待っていた。

気づいたら4時で、4時半で、5時だった。

ここからのことは、断片的な記憶しかない。

ステージに出てきて最初と、後半にもう1回、「なんかかっこいいこと言おうと思ってたけど、これ見たらどうでもよくなった」って言ってた。

個人的に、勝手に、都合よく考えている。
カワノは、最後に相応しいかっこいい言葉を考えて日比谷に来たんじゃないだろうか。
私達みんなそれが怖くて、構えて向かった野音で、結局はっきりと言及されなかった解散宣言は、3000席埋まった客席を見て胸の内に留められたものだったのだとしたら。
そうであったなら本当に嬉しい。


GLHの前の
「暴力はよくないことだと思うけど、人を殺すつもりで殴ったことがあるし、差別なんてなくなればいいと思うけど、こんな奴は死んでしまえばいいと思う人もいる。自分はいい人間ではない。だけどせめて曲の中では綺麗なことを歌いたい。」
っていうMCに、なんとも言えない、心臓を掴まれたような気持ちだった。

自分はいい人間ではないと言うけれど、
こんなことを真っ直ぐに正直に3000人に向かって言える人間が、いい人間じゃないわけないだろうよと。
良い人間か悪い人間かなんてそんなことはわからないけど、そのとき私はカワノを純粋で綺麗な人だと思った。これだからこの人のことが好きなんだと思った。

それと同時に、
あぁ、この人は綺麗事を歌いながら綺麗じゃない自分にギャップを感じて苦しいんだ、と思った。だから終わろうとしているんだと。

カワノは今回のアルバムを『遺言』で『遺書』だと言った。
どこを切り取って「これがCRYAMYだ」と言われてもいいものができたと。

じゃあ死んじゃえってな、って笑ったカワノが、本当に死んじゃいそうで怖かった。終わらないで、死なないで、って思った。

アルバムも、ツアーも、野音での3時間半も、最後に相応しいものだった。これ以上のものは作れないと言われれば頷くしかないクオリティだった。

あの日のCRYAMYからは終わりの雰囲気が漂っていた。
MCは「好きだった」とか「幸せだった」とか過去形ばっかりで。
メンバーに「5年間よく我慢してくれました。ありがとう」とか言い出したり。

でも、1回だけ「これからも…」の後に言い淀んで「君たちは永遠に生き続けると思うよ」って言ってて、やっぱり私は都合よく解釈してしまうから、「これからも」の後に期待してしまった。
うっかり未来のこと話しちゃいそうになったんだろうかとか。考えてしまう。

未来に期待してしまうほど、CRYAMYが好きだし、なんとなく、終わらないような気がしている。
確かに、終わりに相応しい日だったとは思う。ここで終わっても綺麗だと。
でも私はあの日野音で、何かが始まる可能性を見た。ここで終わる熱量ではなかった。

終演後、ジャガーを振り上げたカワノを見て鳥肌が立った。
やっぱり終わってしまうんだ、私が見た可能性は否定された、と。
でもやっぱりギターを地面に叩きつけられずに笑って出ていったカワノを見て、私が見た未来は正しかったと思った。

もちろん終わってほしくない。
でも無理に続けてほしくもないし苦しんでほしくもない。
ただ生きて、健康で、長生きしてほしい。
生きてるうちに、また音楽やりてえなって思ってくれれば。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?