感じ

私は何か伝えたり話したり表現したりするときにニュアンスという得体の知れないものがすごく好きで、なんかええ感じとか、なんかおもろいとか、あやふやだけどはっきりとした他との違いがある瞬間が堪らなくて、堪らない。自分だけがそれに気付いたり見つけたりしたときにすごく高揚して、小さい箱に入れて引き出しの奥にしまっておきたくなる。私が舞台上で人様に向かって声を発する瞬間は、そんななんだかおもしろい、なんだか変だ、なんかこれいいね、の発見の報告で、引き出しの奥の小さい箱に入れた訳の分からないキラキラをお裾分けしているつもりである。其れを見て聞いて、いいね。とあなたも自分の箱に入れてくれると幸いである。このnoteは好きなことだけを書いていきたいと思っているのでよろしく永ちゃんである。

だからニュアンスだけを発信できれば一番良いのだがそういう訳にはいかん。結局お笑いをお仕事にしたいと思ってる時点で人様に伝わらないと意味がなくてそのジレンマはどの芸人やいろんなジャンルの表現者も悩まされてるのではなかろうか?

そしてこれから書くことは超偏見的文章になるので、行間やそれこそニュアンスを汲み取れない方は退出していただきたい。はい、退出です、退出、後ろの、そうそのドアをがちゃっと開けて、ほれ、ん?、外寒い?、知らんがな、ほれ、出た?、ドアに耳当てて聞こうとしてない?、おらんね?、オッケー。

私がはっきりとニュアンスというものを意識しだしたのは東京に来てすぐの色んな結果を出すために焦っていた頃だった。それまではもう何も気にせずそのまま思ったことを他の人も感じているであろうことのようにさも当然かのように排出していき、それはある種の今思えば良く言ってカルト的に評価されたりもし、意味わからん人からすれば産業廃棄物であり公害であったかもしらん。それがニュアンスであるのかな?とそれこそニュアンスで捉えており趣味と仕事の境目のような芸人生活をしてきた。それから地元大阪を飛び出し東京に一念発起してこの仕事で生活する為に来たのである。それはまるで水溜まりに落ちた蟻のように兎にも角にももがいてもがいて闇雲に陸地を探していた。しかしそんな精神で舞台に出て何度試してもなんとなく私の発言は空を切るような感触で、東京の人たちは漠然とした面白味というものを掴みとる能力が低いと感じた。それを相方に伝えると一平さんの表現方法が良くないからです。と一括され私はあからさまに後輩年下女性に反骨が見え隠れした目付きで見るとなく見つつもどうしたら伝わるのかを意見交換して的確な表現やはっきりとした言葉にするように模索してきた(こんな書き方をすると語弊があって何であんな書き方するんですか?なんて詰められるのでここで記すが、彼女はニュアンス嫌いのリアリストではなくむしろニュアンスは好き)。もちろんこの論議のどちらが正しいかどうかは今は追求する気はない。そんな観測地点をどこに置くかで変わるような相対的なものはこの世に多分とあるしこの場合においてはどちらが正解だなんて決めることほど無益なことはない。なので未だに私は間違ってはいないと思っている。まだ反骨精神胸に携えとんかいと思われているだろうが、それには超偏見的根拠があるので後程書きたい。とにかくその辺りの自分の中にニュアンスとはこういうものであるという定義じみたものが生まれてきた様である。

現代のお笑いはなんだか陰にニュアンス排除思想が強くて、というかニュアンスという概念を知らないのか経験してこないのか嫌いなのか、伝える側発信する側がニュアンスをあまり入れたがらない、そしてニュアンスをあまり評価しない風潮があると思う。私はそんな窮屈な現状にたまに叫んで町中を走り回りたくなる時がある。
確かにニュアンスってなに?と言われても説明できないところがあって。というか説明できる時点でニュアンスではないわけで。ある種のニュータイプ的な、聞くじゃなく聴く、見るじゃなく視る、みたいなというのが近いのか。感じとるという能力が受け取り側に長けている状態が必要なわけで。つまりは、これがなんかおもろいんやけど、どう思う?いや、わかんないっす。え?おもろない?あのー、どこがおもろいんですか?なんか、こう、おもろいやん。んーあーはー、そうなんすね。ちょっとわかんないっす。という様なこんな人には何とも説明しづらい。こればかりは価値観の違いの為、強制も矯正も出来ないのだ。
もちろんそれが悪いとは言っていない。が、私がニュアンス肯定側に立って意見しているということでそういう風に聞こえるかもしれないね。

そしてここからがより偏見的意見なのだが、日本の排他的非ニュアンス社会を構築したのはGHQが持ち込んだとされる(真偽は不明)娯楽を与える3S政策だと思っている。3S政策とはスポーツ、スクリーン、セックスの頭文字をとったもので、まあいわゆる娯楽である。当時の気骨ある日本人の心を懐柔して、またもう一度自分達に逆らわないようにするために行ったとされる政策と噂されている。この辺のことはそこまで詳しくないので割愛するが、とにかくGHQが、今から君ら日本をわてらアメリカの言いなりにさせるんやけど国民に暴動でも起こされたら困るから一旦おもろいもん見しとくわ。な?おもろいやろ?(今や!はよわてらにええように憲法とかいじくらんかい!)というための裏政策。マジックの目線誘導みたいなもんで、例えば身近なアプリとかで言えば無料のモノなんて普通にざらにあるし便利だが、実は自分達の位置情報や関心や動向を吸い出しそのデータを企業に売ることで成り立っていたりとか、政治家も裏で取引して自分達の政党のヤバイニュースつまり叩かれ支持率を下げて世論を敵に回しそうになったりなんかした時に芸能人の覚醒剤所持逮捕とかで国民の目線をうやむやにしたりしてる。らしい。まあこれらは風の噂ピューピューピューで本当かどうかは知らないし、私自体が政治的なことや民衆先導的な発言もあまり言いたいわけではないので、自重する。いや結構な偏見。

話を戻そう。とにかく3S政策は手の届きやすいところに娯楽を置くから見て欲しくない事柄から目を背けることができるわけで、それはつまりむしろ娯楽側を率先して見てもらわないといけないと言うわけだ。となると布教的普及という手段が至極真っ当で何もしなくても娯楽を与えられるという異常な状態を正常にするわけで。そんな異常な正常の始まり方をした娯楽が三四半世紀近く続いて今の与える側が与えられる側のためにせこせことあれやこれやと手を替え品を替えせざるを得ないエンターテイメントにめでたく昇華されたわけだが、その与える側のためにせこせこというのが良くない。与える側にいかに疑問を持たさないでおくべきか?いかに気持ちよく心地よくいてもらえるようにするべきか?それが昨今のエンターテイメントの裏定義ではなかろうか?それは例えるなら巣にいる雛鳥が親鳥に餌をもらうような状態であると言える。そんな何もしなくて餌が運ばれてくる状態で何も考えないのは当たり前のことである。動物は欲望の奴隷であるのだ。エンターテイメントを与えられる側が何も考えないということは、そのほんの少し先に面白いこと、興味深いこと、不思議なことがあってもそれに気づかないというわけで。というかそもそも気付かなくても良いんだよ。どんどんいろんな刺激のエンターテイメントは湯水の様に溢れ嵐の日の河川の様に押し寄せてくるんだから。そうなるともう自分で考えるなんてことは無くなり、その結果視る聴く感じるというニュアンスを育てる土壌が減り、ニュアンスというものも発達発展しなかったのではなかろうか?

現代の非ニュアンス人種たちが「I love you」を「月が綺麗ですね」なんて訳したら、何というのだろうか?



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