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ゲーム解説:Roesch vs Willi Schlage, Hamburg , 1910: Morphy Defense, Wormald Alapin Attack

(図1:13. ... Bh3まで)

 こんばんは、イオリです。
 唐突ですが、本日が何の日であるか、皆さんはご存知でしょうか。
 日本史クラスタに聞けば『薩長同盟』、世界史クラスタからは『血の日曜日』との声が聞こえてきそうですが、敢えて言いますと、読書と並ぶ私の少ない趣味のひとつは映画鑑賞です。

 以前、Twitterで少し言及したことがあったかもしれませんが、私のチェスの入口はウラジミール・ナボコフの『ロリータ』でした。ロリータ・コンプレックスなどの語源となったこの名著、チェスボードをあしらった表紙で目にした方も多いのでは、と思います。端正で耽美で官能的なチェスの描写力は特筆に値しますが、ナボコフは世界的小説家にして蝶の研究者、またの顔をチェス・プロブレム作家でありました。同じくナボコフの手になるものでチェスを題材とした『ディフェンス』の名も挙げておきましょう。

 さてこの『ロリータ』、ナボコフ本人の手で脚本化されたものが1962年に映画化されています。メガホンを取ったのは『シャイニング』や『時計じかけのオレンジ』でお馴染み、スタンリー・キューブリックでした。本日、3月7日はキューブリックの命日です。
 キューブリックは決断に必要なあらゆるものをチェスから学んだ、と語っていたように、彼自身もチェス・プレイヤーでした。話がつながって参りましたね。

 表掲したチェスの局面は、キューブリック作品のひとつ、『2001年宇宙の旅』で、ゲイリー・ロックウッド演じる宇宙飛行士フランク・プールと、ディスカバリー号の制御コンピュータにして高度な人工知能であるHAL 9000の作中での対局シーンで登場したものですね。映画の中では白がプール、黒がHALでした。

『2001年宇宙の旅』が封切られたのは1968年です。これはアポロ11号が月面着陸を果たした1969年の一年前のことでした。今見返しても、キューブリックの未来視とも言える緻密な描写は舌を巻くものがあります。当然、この映画が撮られ、そして公開された時点で、人をチェスで負かしてしまうコンピュータの登場など夢物語に過ぎなかったことでしょう。IBMの肝煎りのコンピュータ『ディープ・ブルー』が世界チャンピオンだったガルリ・カスパロフに1セットを取ったのは、1996年と遥か先のことでした。

 すなわち、そのような当時の視点で見てみると、キューブリックはこのシーンに非常に示唆的な意味を持たせようとしていたように思えます。そしてこのSF映画を彩るチェス・ゲームは全くの創作ではなく、実際の名局から持ってこられたものでした。それが今回のnoteのタイトルです。

 それでは、せっかくなので表掲した局面まで、少しの言及を加えつつ見ていきましょう。

(図2:3. Bb5まで)

 図2までの手順:1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bb5

 1. e4 e5とキングズ・ポーンを突き合い、2. Nf3は1. ... e5に当てつつキングサイドのマイナーピースを中央に持ってくる効率的な手です。これに紐をつけた2. ... Nc6をさらに責めつつ、3手目にして0-0の権利を収めるのが3. Bb5ですね。これを持ってルイ・ロペス(Ruy lopez)と呼ばれるオープニングです。ローマ教皇ルイ・ロペス・デ・セグラの名を冠するこのオープニングはここまでの白の動きが最も効率的、とすら言われており、今でも人気の手順です。
 余談ですが、以前私は日本語のチェスに関するWikipediaを「草も生えない不毛地帯」と申し上げましたけれど、ふと思い立って日本語のWikiでルイ・ロペスを引いたところ当該記事の最終更新が4年前と書いてありました。in Englishでは12 days agoですよ(2020.3.7閲覧)。日進月歩のチェス界隈にあってメジャーもメジャーなオープニングの知見が4年間も更新されないなどというのは……嘆かわしいを通り越えてタブレットを投げましたね。まあ、それゆえに私のような者も頑張っていかないと、と身勝手にも決意一新するところもあるわけですが、嘆けとて、嘆きのマートルといった所感でございます。

 ここで白マスビショップの使途としては3. Bb5の他に3. Bc4と黒のアキレス腱であるf7に当てて進出するラインもあり、これはイタリアン・ゲーム(Italian game)と呼ばれています。
 この局面は白として先述の通り非常に効率的なピース展開を行なった代わりに、3. ... Nf6/f5/Nge7/Bc5など黒から任意のラインへと誘導が可能な局面となっています。

(図3:3. ... a6まで)

 図3までの手順:図2より3. ... a6

 本譜では黒は3. ... a6と3. Bb5に働きかける手を採用しました。このムーブは現在も最多の候補手であり、ここで4. Bxc6/Ba4の態度をはっきりさせてから応じ方を選ぶ黒の人気の手です。
 4. Bxc6はルイ・ロペスのエクスチェンジ・バリエーションと呼ばれるもので、以下4. ... dc 5. 0-0として、最近は5. ... Qf6を割と見るように思います。

(図4:4. ... Nf6まで)

 図4までの手順:図3より4. Ba4 Nf6

 4. Ba4はビショップを逃すならここ一つ、と言った場所ですね。狙いがNc6に当てながら間接的にキングを射線に収め、黒がdポーンを突きにくい状態を作り出すことですので。a4-e8ダイアゴナルに拘るためにはここしかない、という手です。
 この局面はやはり黒の手が広く、4. ... b5とa4-e8から追払いつつフィアンケットも可能にしつつ、白からテンポを奪ってdポーンのプレッシャーを軽減しようという手(カロ・バリエーション)や4. ... d6と意地でもdポーンを突き、5. ... Bd7とピンへの手筋で対峙しようという手(モダン・シュタイニッツ・バリエーション)もあります。
 本譜では4. ... Nf6と逆にe4を攻めつつ黒もキングサイドのピースをセンターに持っていく手を採用しました。これはモーフィー・ディフェンス(Morphy defence)と呼ばれる形です。ここではe4に馬をけしかけられている白としてはそれに利きを足す5. d3/Nc3/Qe2などはすぐに思いつく自然な手です。

(図5:5. ... b5まで)

 図5までの手順:図4より5. Qe2 b5

 現在では5手目で敢えてeポーンに紐をつけずに5. 0-0とキャスリングを済ませてしまうのもポピュラーなラインです。なぜかというと、5. 0-0に5. ... Nxe4とナイトでe4を取ってくるのは、6. Re1や6. de ed 7. Re1という風に、ナイトとキングを田楽刺しにするルークの動きが良いため、恐れるに足らない、というわけですね。
 1910年のこのゲームでは、クイーンの働きを良くしつつセンターポーンを補強する5. Qe2が選ばれています。この手も、現在でも通じる概念だと思います。ウォーモルド・アラピン・アタック(Wormald Alapin Attack)やウォーモルド・アタックと呼ばれます。耳鼻咽喉科の内視鏡手術で有名なWormald PJと同じ綴りですね。
 Alapinの応手も結構あって、モダン・チェスでは黒マスビショップを動かすBc5/Bd6/Be7あたり、特にBc5本線に考えたいところではありますが、ここでHALは、もといSchlageは5. ... b5とカロ・バリエーションの思想を見せます。現状生きているQe2のダイアゴナルにポーン・チェーンを作るという意味でも悪くない手で、110年経った今でも好きなら指していい動きだと思いますね。尤も、好きならどんな手でも指していいのですが。

(図6:7. ... 0-0まで)

 図6までの手順:図5より6. Bb3 Be7 7. c3 0-0

 白6手目はこれ一手でしょう。ここで追い落とされる分岐があるのが嫌なら、3. ... a6の時点で4. Bxc5とエクスチェンジ・バリエーションを選ぶ動きが生まれるわけです。
 6. ... Be7はキャスリングの用意をする同じ黒マスビショップの移動にしてはBc5やBd6に比べてアグレッシブさに欠けるように思えますが、センターを巡る戦いがd4から起こされそうな現状では下から受ける意義がある他、ダイアゴナルが重なることで、d8-h4ダイアゴナルへのアクセスのしやすさから動かさずしてQd8の働きが良くなったり、という使いどころ活かしどころ次第の手ではあります。
 白7手目c3は次にd4とぶつける準備であり、また白マスビショップの活用の幅を広げる手です。ここでは代えて0-0/a4/d4などもブックにあるところですね。
 黒7手目0-0は自然な着手です。まあ、白が0-0を手待ちにしてきた現局面なので先に7. ... d6としてもいいのでは、というのは現代チェスに毒されきった私の穿った目かもしれません。

(図7:8. ... d5まで)

 図7までの手順:図6より8. 0-0 d5

 8. d5のぶつけは9. ed Nxd5へ繋げる狙いでしょう。ここで9. d3ならBb7とフィアンケットを組んだり、Na5と端からナイトを使うのもありそうですか。9. ... Bg4は10. Nbd2と手伝うようになるのでやや微妙なところがあります。

(図8:10. ... Nf4まで)

 図8までの手順:図7より9. ed Nxd5 10. Nxe5 Nf4

 10. ... Nf4はアラピンのQe2に当ててナイトを捌く狙いがひとつです。ここで確かに黒はNe5とQe2を同時に攻めることができたのですが、この局面と単に10. ... Nxe5 11. Qxe5 Bb7として次にBd6を見せるところ、どちらがいいかはなかなか難しい問題です。そちらは12. d4でc3-d4が活きる白に対し黒はd,eファイルをオープンにしてフィアンケットを組んでいる、という戦況になりますね。
 黒10手目にはもうひとつ狙いが潜んでいそうです。でなくては敢えてこれを採用する意味が薄いです。

(図9:11. Qe4まで)

 図9までの手順:図8より11. Qe4

 現状でナイトに狙われているクイーンの逃げ場所として最も効率が良いのはe4である、と断言できます。なぜならa8-h1ダイアゴナルに乗ることでまずNc6、ひいてはRa1を射程に収めていることに加え、白のNe5がNc6に効いているので、例えばNxc6〜Nxe7が叶うなら、Nxc6がまずQd8に当たってきますし、次のNxe7はRa1、Bc8、Kg8を同時に攻める強力なムーブになりますね。当然黒はそんなものを許すわけがありません。

(図10:11. ... Nxe5まで)

 図10までの手順:図9より11. ... Nxe5

「Qe4はNc6をピンしているね」という話をした直後のこの手、ちょっとギョッとするかもしれません。12. Qxa8とルーク・ダウンを許す緩手に見えるからです。

(図11:12. ... Qd3まで)

 図11までの手順:図10より12. Qxa8 Qd3

 しかしながら、12. Qxa8に12. ... Qd3と返す手が白の息の根を止める一手で、図11の局面が黒番だったとしたら、mate in 5すなわち5手詰めが発生しています。つまり将棋でいう『詰めろ』の状態です。
 手順ですが、ここから1. ... Ne2+ 2. Kh1 Ng3+と進み、3. Kg1は3. ... Qxf1#なので3. hgとするしか白には手がありませんが、3. ... Qxf1+ 4. Kh2 Ng4+ 5. Kh3 Qh1#でやはり詰みです。Ng4にはBc8の紐がついているのでこれを除くことはできません。
 つまり12. Qxa8が致命的なミス、ということになります。これがこのゲームで最も面白いところのひとつでしょうね。取れるルークを取ったら喉元に刃が届いていた、ということです。

(図12:13. ... Bh3まで)

 図12までの手順:図11より13. Bd1 Bh3

 というわけで、最初に掲示した局面となりました。13. Bd1は13. ... Ne2+を消した手ですが、色々攻め手はありそうな局面でHALがBh3と出てきたのが現局面です。Schlageの意図がどうだったかは棋譜から想像するしかありませんが、HALはここでセリフを述べているので、そちらの気持ちはどうやら分かりそうですね。ここで映画では、次のような応酬がありました。

Dr. Poole: “Umm…anyway, Queen takes pawn. OK?”
HAL: “Bishop takes Knight’s pawn.”
Poole: “Hmm, that’s a good move. Er…Rook to King One.”
HAL: “I’m sorry Frank. I think you missed it. Queen to Bishop Three. Bishop takes Queen. Knight takes Bishop. Mate.”
Poole: “Ah…Yeah, looks like you’re right. I resign.”

「うーん……しかしいずれにせよ、クイーンでポーンを取る。いいね?」
 ということですので、宇宙飛行士のプール博士はこの手を、Rf8でQa8を攻めるディスカバード・アタックだと取ったことがわかります。HALの真意には気付いていなさそうですね。

(図13:14. Qxa6まで)

 図13までの手順:図12より14. Qxa6

 プールのクイーンに取れるポーンは理論的にa6だけなので、この手は確実です。
 対する人工知能ですが、「ビショップでナイツ・ポーンを取ります」と言うわけです。

(図14:14. ... Bxg2まで)

 HALのビショップに取れるポーンもg2しかありませんが、言い回しが妙だな、と思いましたか?「Knight’s pawn」とは何のことだろう、と。確かにg2には黒のNf4が利いていますが、そのことかしら、と。
 結論を言いますと、ここでの遣り取りは記述式と呼ばれる棋譜の記録方法で行われています。私たちは第2ランクのgファイルにあるから今HALに取られたポーンを「g2」と呼ぶわけですが、記述式では各ファイルを、そのファイルに初めにいた、ポーンではない方のピースの名前を取って呼びます。例えば、eファイルは「Kファイル」、cファイルは「QBファイル」すなわち、「クイーンサイドのビショップのファイル」と呼ぶわけです。

 そして、ある意味でこれは映画の本筋に関わってくる、キューブリック一流の深淵な仕掛けなのですが、この短文で遣り取りが記述式記譜法で行われていることを印象付けることが、後の手(セリフ)へと繋がってきます。

 プールは「えーと、ルークをK1へ」と言います。ルークをKファイルの第1ランクへ、つまり我々の慣れ親しんだ記譜法ではRe1ですね。ちなみに、記述式ではランクは自分からみて手前から1,2,3...と数字を振ります。代数式では絶対的な1〜8ですが、こちらは相対的なものというわけです。

(図15:15. Re1まで)

 図15までの手順:図14より15. Re1

 ここでHALは15. Qf3としながら、最後のセリフを言うわけです。
「ごめんなさい、フランク。あなたは見逃しているのではないでしょうか。クイーンをB3へ動かし、ビショップでクイーンを取り、ナイトでビショップを取ります。これでメイトです」

(図16:15. ... Qf3まで)

 図16までの手順:図15より15. ... Qf3 0-1

 実際の棋譜も、ここで白が投了を告げました。HALがプールに解説した通り、以下16. Bxf3とすると16. ... Nxf3#があります。
 また他の手ですが、この局面は次に17. ... Nh3#があるので、それを防ぐべく17. Qe6としても17. ... fe 18. h3/4 N(x)h3+ 18. Kh2 Ng4#として逃れられません。

 しかしながら、ここで違和感を覚えませんか?

 覚えなかった方はぜひ映画を見てください。覚えた方も、その違和感が本当に正しいものか、彼の命日に託けてキューブリックを偲びながら、この名作をぜひ見返して見てほしいと思います。

 ところで、SF映画の巨匠が1960年代、まだ人類が月に降り立つ前に描いていた、人間を凌駕する人工知能の末路がどのようなものであったか、覚えていますか?(ここからは『2001年宇宙の旅』のネタバレが入ります)

 * * *

『デイジー・ベル』を歌いながら機能停止するHALの異常さ、それはスクリーン越しにも空恐ろしいものがありました。HALは相反する二つの指令のジレンマに陥り、やがて機能系統に異常を来して、モジュールを引き抜かれながら強制的に機能停止へと至らしめられるのでした。その意味では『2001年宇宙の旅』は、いわば流行りの『人工知能の反逆』、そのハシリのような映画とも言えるでしょう。

 そうです、キーワードは『人工知能HALが緩やかに異常を来す』ということです。

 ここで戻って、先程の対局のシーンのHALのセリフを見てみましょう。

HAL: “I’m sorry Frank. I think you missed it. Queen to Bishop Three. Bishop takes Queen. Knight takes Bishop. Mate.”

 記述的記譜法では、ランクは自分から見て手前から1、2、3……と振る、と説明申し上げましたね。

(再掲図16)

 再掲図16、ここでHALが指したのはQf3、記述式ではQ-KB6です。プールから見ると第3ランクですが、HALから見ると第6ランクですからね。

 私が思うに、この時点でもうHALの『異常』が始まっていたのではないか、と思います。そして初期症状の、本当に分かりにくい異常の進行に気づき得た可能性があるのは、チェスを通してそれを知ることができたプール博士だけだったのではないか、ということです。再三の話を俎上に上げるようで申し訳ないのですが、キューブリックは自身が優れたチェス・プレイヤーだったという事実がここに利いているのではないでしょうか。これが某アニメ『某ゲーム・某ライフ』で登場したチェスならざる『チェヌ』のようなものであれば、よしんば膨大な制作工程の中にミスが紛れ混んでしまったのかもしれない、とも思いますが、自分の作品に偏執的なまでのこだわりを見せ、『シャイニング』の撮影では俳優たちを発狂寸前まで追い込んだ、というキューブリックの手になるこのシーンですから、凡庸なミスであった、と片付けるのは少し納得が行かないのですよね。

 これを踏まえると、HALが敢行した乗組員の殺害、そしてその犠牲となったフランク・プール、という構図も少し違った意味を帯びてくるように思えますが、得てしてチェスの指し手というのも、そういうものですよね。

『2001年宇宙の旅』は、とてもプリミティブなArtificial Intelligenceへの細やかに包摂してはいるものの、こんにち見返しても最も優れたSF映画のひとつであることは疑う余地がありません。2020年の今、もはや人類は家庭用コンピュータにすらチェスで勝てませんし、その優れた力の悪用も様々なところで実際に取り沙汰されるような時代が訪れています。とても哲学的で、教条的で、また単純に至高のエンターテインメントであることを確信しました。彼の忌日に、これを誰かに伝えたい、そんな思いで筆を執りました。

 最後にHAL 9000のセリフをクオートしてこのnoteの締めくくりとします。。この言葉は、我々がチェスボードの側にあるときも、ないときも、常に最善の手を希求することを諦めない心を教えてくれるものだと思います。

I am putting myself to the fullest possible use. Which is all I think that any conscious entity can ever hope to do.

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