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ゲーム解説:Alekhine vs Nimzowitsch, San Remo, 1930: French defence, Winawer, Advanced, Bogolyubov variation

 どうも、イオリです。
 三月も終わりが見えて参りました今日この頃、学生は春休みでしょうか。4月から進学であったり就職であったり、新環境に胸を膨らませる人も多いのかもしれませんね。

 今日は、前回のnoteで少しだけ言及したアレヒンズ・ガン(Alekhine’s gun)、その1号局として有名なゲームの棋譜を持って参りました。思えばこのゲーム、フレンチのワイナウアーですし、ここまでフレンチ・ディフェンスを解説してきたのもあって実戦譜紹介としてもうってつけなのですよね。フレンチの中でもとても美しい棋譜であり、また私の愛するゲームの一つでもあります。

(図1:French defence, Winawer varation: 3. ... Bb4まで)

 図1までの手順:1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4

 舞台は1930年、イタリアのサンレーモにあるカジノです。1月16日から2月4日に亘って、ヨーロッパとアメリカから呼び集められた16人の最高峰のチェス・マスターがall-play-allで鎬を削ったこの大会こそ、最初の国際トーナメントであると言われています。1930年初頭というと、ちょうどこのトーナメント期間中に、英国のラムゼー・マクドナルドの呼びかけの下、第一次世界大戦の戦勝国が集ってロンドン海軍軍縮会議を持った、そんな時期ですね。

 本局は有名なゲームですので多くの言及がなされていますが、San remoという表記を取っているものが多いですね。これは1924年に導入された表記で、ファシスト政権下での公的表記であったということですが、現在の同市の公式標記はSanremoとなっています。

 イタリアの誇る港湾都市・サンレーモはフランスとの国境にほど近い、リグーリア沿岸の風光明媚な街です。モナコに似た雰囲気の、ヨーロッパ有数の高級保養地ですね。ここのランドマークとして現在も、カジノ・サンレーモは存在します。1905年に造られてから今に至るまで、左右対称のアールヌーヴォー様式の、白亜の社交場として機能している同カジノは、イタリア国内ではミラノに次ぐ歴史のあるカジノです。外観に似合わぬスロットマシンの立ち並ぶフロアはノン・フォーマルでも入場できた覚えがありますが、今はどうなのでしょうね。そもそもこの未曾有の感染症の蔓延状態では、カジノがどうなっているのか、というのも気になるところですが。

 白を持ったのがアレヒン、対する黒がデンマークのニムゾヴィッチですね。ニムゾヴィッチの1手目でフレンチ・ディフェンスになり、3手目に彼が3. ... Bb4とポールセン・バリエーションの3. Nc3を即座にピンする順を選んだためにワイナウアーのラインに入りました。ちなみにワイナウアー・バリエーションの別名をニムゾヴィッチ・バリエーションと呼ぶことがあります。

(図2:4. ... c5まで)

 図2までの手順:図1より4. e5 c5

 白をもつアレヒンは当時の(第4代)世界チャンピオンですね。彼は1892年に帝政ロシアに生まれ、のちにフランスに帰化しています。それがAlekhineというローマ字綴りがさまざまな発音で、或いは音写で呼ばれる所以でしょう。尤も、日本語でそれなりに市民権を得ている「アリョーヒン」という表記、これは言語学的に明確な過ちなので頂けないものである、と私は個人的に思っております。アリェーヒンならともかく、アリョーヒンですからね。「1. e4 Nf6をアリョーヒン・ディフェンスというじゃないか」と仰る人はきっとボリス・エリツィンのことも「イョーツィン」、エフゲニー・プルシェンコのことも「プルショーンコ」と呼ぶのでしょう。そこが一貫してなければアレヒンの著書の角でギャンビットを仕掛けても許されるのではないでしょうか。アレヒンにはそれに足るだけの功績と、名著があります。

 アレヒンは裕福な家に生まれ、母や姉、兄にチェスの手解きを受けました。少年が白と黒の迷宮に囚われたのは9歳の頃、と言いますから、1900年代の頭ですね。この時期はPillsburyやChigorinの晩年に当たっています。特にChigorinが、マスターの棋譜を研究することに没頭したというアレヒン少年に与えた影響というのはとても根深いものがあったのでは、と私は推察します。「盤上の詩人」という二つ名でもって今もなお、世界中のチェス・プレイヤーの尊敬を恣にするアレクサンドル・アレヒンは、彼の芸術性の高いゲームがフォーカスされることの多い特異なマスターですが、チゴリンもまた、芸術性という点で引けを取らない名手ですね。

 本譜はアレヒンが4. e5とアドバンスドを採用しました。オープニングの理念は簡単に触れますが、e5は当てられているeポーンを伸ばしてスペースを作りつつ、Bb4を勇み足にしてしまおうという手です。ちなみにここで4. Ne2と低くキングサイドのナイトを使ってくるのはアレヒン・ギャンビットの名がついています。4. ... c5は3. ... Bb4を孤立させず、手を繋げて行くムーブです。5. dcと取ってくれれば5. ... Ne7とかで序盤早々から少し黒がやりやすいかな、というところがありますね。cポーンにはビショップの紐がついていますが、ビショップからするとc5のせいで瞬間的にa3-f8ダイアゴナルに引けなくなっています。なので5. a3と咎めるのが主流でしょう。

(図3:Bogolyubov variation: 5. Bd2まで)

 アレヒンが本譜で選択したのは5. Bd2とピンを解消しながら黒マスビショップを使う手で、このラインはボゴリューボフ・バリエーションと呼ばれています。ちなみにドイツのEfim Bogolyubovもこのサンレーモのトーナメントに出場している選手の一人です。アレヒンはフレンチを相手どった名局もさることながら、自身が黒番でたびたびフレンチを採用していたプレイヤーですが、アレヒン・ギャンビットにボゴリューボフ・バリエーションというのを鑑みるに、この時代のトップ層としてはフレンチ攻略が一つの課題であったことが察せられるようです。さらに余談ですが、3. ... Bb4に替えて3. ... deと取るとルビンシュタイン・バリエーションでしたね。この名の由来であるポーランドのAkiba Rubinsteinもまた、このトーナメントの取組表にその名を見ることができます。フレンチ・オープニングの体系的な整備が大きく進んだ時期ですね。

 16名が参加した総当たりのトーナメントなので、自身を除く15人と1回ずつ、全選手15局の対戦をもつ訳ですが、このトーナメントで優勝したアレヒンの成績は14点でした。勝てば1点、引き分けで0.5点、負ければ0点が加算されるということですから、実に13勝2引き分けという内訳です。2位が本譜のアレヒンの対戦相手であるニムゾヴィッチですが、彼の得点は10.5点でしたので、準優勝にスコアで3.5点差を付けるというのは控えめに言って偉業ですね。しかもメンバーは当代きってのマスターたちですから、カパブランカの不在を抜きにしてもとんでもない数字です。なお、この大会でアレヒンが引き分けたのは6ラウンドのspielman相手のフレンチ・エクスチェンジと11ラウンドのボゴリューボフ相手のQGDの2ゲームであり、いずれも彼が黒番であったことは触れておくべきでしょう。
 詩人アレヒンは鑑賞に耐えうる作品としての棋譜をよく賞賛されるわけですが、この数字を見ても一端が伺えるように、試合をするからには勝つことに拘った闘士でもありました。これは紛れもなくアレヒンのスタイルであったと思います。

(図4:5. ... Ne7まで)

 図4までの手順:図3より5. ... Ne7

 ニムゾヴィッチはキングサイドのナイトをNe7と使ってきました。Ng8を動かそうとするとe5と伸ばされている現状はh6かe7しかありませんが、Ne7はd5だけでなくc6の地点にも利きを足していていいですね。手損になるのでボゴリューボフを選んだ白がBg5と出てくる選択肢は難しいでしょうが、こちらのピンも消してあるのでポジション的な価値は高いです。また逆サイドのBe5+のような進出に対してもc6をケアしているので、守備力の高い、効率の良いムーブです。

 アレヒンは9歳頃にチェスと出会った、と先述しましたが、そのあと彼は兄とともにチェス・クラブに通うようになり、1908年に国際戦デビューを果たし、1909年にはサンクトペテルブルクで開かれた全ロシアアマチュアトーナメントで優勝しています。16歳の頃にはもう、ロシアのチェスの未来を双肩に担って立っていたわけですね。そして1914年、ついにGMになりましたが、アレヒンはロシア革命後、結婚を契機としてフランスやドイツへと移住していくことになりました。彼がロシア人のチェス・プレイヤーとして歴史に名を残すことがなかったことは、チェスというゲームの発祥を紐解けば更に、戦争の齎した業の皮肉と思います。

(図5:7. ... 0-0まで)

 図5までの手順:図4より6. Nb5 Bxd2+ 7. Qxd2 0-0

 アレヒンの6手目Nb5は味が良い手です。Bd2でピンを解消した白がQサイドのナイトを盤上にキープするための回避であり、d4にナイトを利かせる防御であり、白マスビショップが利くb5の地点に跳ぶことで連結をよくする互助であり、そしてディスカバード・アタックでBd2をぶつけることで黒に身の振り方を迫る挑発でもあるわけです。黒からcdと取った手がc3にいては当たってしまうので、当たりを弱めながら良い位置を取れる動きはアイディアルですね。図5の局面で白からの手としてはやはりNb5が多く、次いでa3やf4などもあるでしょうか。

 6. ... Bxd2+ 7. Qxd2とビショップ・エクスチェンジを済ませて黒が先にキャスリングをしましたね。対する白陣の利は、クイーンの可動域およびクイーンサイドのルークの稼働性にあります。見ての通り、白はキングサイドの、黒はクイーンサイドのピースが取り残されているので、これを立ち遅れることなく、いいタイミングでいいポジションに使っていきたいな、というところは共通しているでしょう。

 アレヒンは1927年ブエノスアイレスで、キューバはハバナ生まれの第3代世界チャンピオンであるホセ・ラウル・カパブランカより18.5対15.5のスコア差でチャンピオンシップを奪取しました。第2代チャンピオンのラスカーより予定されていた24局を戦わずして4勝10引き分けで王座を奪ったカパブランカに対し、アレヒンが6勝3敗25引き分けという苛烈な点差で勝ったことは、世界にとっても大きな衝撃だったことでしょう。2年後の29年にはボゴリュボフを相手取ってタイトルを防衛しています。本局の1930年というのはそういう、アレヒンにとっても最も脂の乗った時期でありました。

 余談ですが、カパブランカとアレヒンの第1局は、黒のアレヒンが採用したフレンチ・ディフェンスであり、これをアレヒンが取って勢いに乗ったこともチェス史上は無視できないでしょうね。

(図6:8. ... b6まで)

 図6までの手順:図5より8. c3 b6

 白の8手目c3は cd cdのポーン交換を用意した手です。対する8. ... b6が効果の乏しい手で、これはcポーンを支えつつ、動きの悪い白マスビショップの活用を図ったムーブなわけですが、現局面ではd4にプレッシャーをかけつつピースを展開する、Nbc5やNf5、或いは9. Nd6からcd cd交換を誘い込む8. ... a6などの方が良いのかもしれません。

 世界最強のチェス・プレイヤーは誰か、という問い掛けをしてみれば、必ずカパブランカの名が上がることでしょう。卓越した成績や緻密な戦略を余すところなく駆使して紡ぎ上げられた棋譜もそれを後づける資料ですが、カパブランカは非常に不運なプレイヤーでもあったと思います。上述したように彼はラスカーからチャンピオンを奪うわけですが、1914年にラスカーに挑戦状を送って、それが果たされたのは第一次世界大戦を挟んで7年後のことでした。当時の世界選手権は現代のものとは違って、パトロンをつけた挑戦者が挑戦状をチャンプに送り、チャンプがそれを受諾するかを決めることができる、いわばチャンピオンが挑戦者を指名できる制度でした。このため、カパブランカは、彼を玉座から追放したアレヒンとの再戦を望みましたが、アレヒンはこれを退け続けることができました。

 これは棋譜を持って今もなお称賛され続けるアレヒンの汚点とみる人もいるでしょう。彼はカパブランカとの対戦を避け続けたプレイヤーである、という評価があることは確かです。

(図7:10. ... Qd7まで)

 図7までの手順:図6より9. f4 Ba6 10. Nf3 Qd7

 9. f4〜10. Nf3は細やかな手順の工夫で、図4から6. Nf3と跳ねるような手も白にはあったわけですが、f4〜e5の鎖を作るのはアドバンスド・バリエーションでeポーンを押し込んだ白の拠点を強固にするという点で価値のある手ですし、先にNf3と跳ねてしまうと、このナイトをどこかにやってからでなくてはfポーンが突けなくなるので、こういった手順が採用されたのでしょう。

 b6と突いた流れでニムゾヴィッチは9. ... Ba6と、こちら側からビショップを使ってくることにしましたが、Bf1が動いていない、ということが白にとっての主張になっているのが面白いですね。これを手順にピース・エクスチェンジの中で動かせるようなら、同時にキャスリングが可能になるためこれ以上なく効率的なムーブになります。実に90年前、アレヒンがすでにこうしたコンピュータ・モデル的な視点を有した指し回しをしていたことを覗かせる一端ですね。

 先のコンテクストにより、何かとカパブランカと対比されることの多いアレヒンですが、カパブランカが淀みないポジショナル・プレーを武器としたのに対し、アレヒンはどちらかというとその芸術的とまで言える鮮やかな攻撃性が取り上げられることが多いプレイヤーです。しかしながら、こうしてみるとその鮮烈な太刀筋はかなり緻密に練り上げられたものであることが改めてわかります。

(図8:11. ... Nbc6まで)

 図8までの手順:図7より11. a4 Nbc6

 黒が10手目にQd7と出たのは、Ba6と合わせてb5の地点を攻める意味合いがあり、黒からBxb5 Bxb5 Qxb5という交換が成立すれば、白がいくら手順に白マス・ビショップを動かすことができたといえど、黒としては白の狙い筋であったキャスリングをQb5のダイアゴナルで潰しておくことができます。これを受けてのb5を守る11. a4ですね。逆にabのような手が入るのであれば、白としてはルークのいるファイルがセミ・オープンになるので願ったり叶ったりです。

 ここでは11. ... c4と突いてcポーンをブロッキングしつつBf1の利きを切ったり、或いは11. ... Bxb5 12. Bxb5と呼び込んでおいて12. ... Qb7とクイーンを最長ダイアゴナルに乗せるようなムーブもあるのかな、と思いますが、ニムゾヴィッチはここで11. Nbc6という手を採用しました。

(図9:14. Nd6まで)

 図9までの手順:図8より12. b4 cb 13. cb Bb7 14. Nd6

 12. b4は凄い好きですね。跳んできたばかりのNc6の利きにポーンを動かす手ですけど、これはb4〜Nd6〜b5が決まれば黒にとっては致命的ですからね。e5とオフサイドラインを押し込んであることで、Nb5〜Nd6という移動が可能になっていることも触れておくべきポイントだと思います。

 b4〜b5でBとNを同時にポーンに攻められるのが黒にとって最悪のシナリオなので、これを未然に防ぐべくはBa5とNc5が同居しない状態にすればいい、というのはひとつありますね。ポーン清算から13. ... Bb7と下げたわけですが、白は狙い通りに14. Nd6と跳ねることができ、またこの局面では白にBb5のように出る手も生まれています。

(図10:14. ... f5まで)

 図10までの手順:図9より14. ... f5

 ニムゾヴィッチが大きく戦況を損ねたとしたらここでしょう。差し迫った危機はクイーンサイドに転がっているわけですから、そちらに手を入れないという選択肢が果たしてあったのだろうか、ということですね。替えて14. ... Nc8とし、白のNd6に当てることで、ここで白に15. Nxb7を指させることを強制し、15. ... Qxb7 16. Bd3 N8e7と手を戻す順は第一感です。またここでは14. ... a5という手があったかもしれない、と思います。14. ... a5 15. ba Nxa5は黒がだいぶやりやすくなります。15. Bb5 ab 16. Qd3も難しいですが、bポーンが消せるとだいたい黒は一息つけそうなので、白の応じ方としては14. ... a5 15. b5 Nb4 16. Be2とかになるのかな、という感じですね。

(図11:15. ... Nc8まで)

 図11までの手順:図10より15. a5 Nc8

 こういう局面をみると私はすぐ15. Qc3とか面白いな……という頭に入ってしまうのですが、15. a5はとても恐ろしい一手です。支えを持ったaポーンとeポーンが第5ランクまで進軍してきたことで、クイーンサイドはもはやアレヒンの軍門に降ったといえるでしょう。15. ... baは16. b5が宿願ですのでこれは指せません。17. Rxa5と出れれば揺るぎない白の勝勢です。また例えば15. ... Nb8のような手は16. a6とBb7に当て、16. ... Bc6 17. b5と白はこれを殺してしまうことができます。

 15. ... Nc8は苦しいながら理に適っていて、先ほど14手目にfポーンを突いたので、黒はNe7を退かせれば横利きを使ってQf7とクイーンを横に振るようなことができるようになりますね。

(図12:17. ... Qf7まで)

 図12までの手順:図11より16. Nxb7 Qxb7 17. a6 Qf7

 なので、15. ... Nc8とd6のナイトに当てられた以上、白からNxb7と仕掛けていくのは必然の進行といえます。15. a5と一歩進めておいたことにより、16. ... Qxb7の時に17. a6という手が生じているのは白のアドバンテージですね。さながらジークンドーにはスティール・ステップという、少しだけ足の幅を前進させリーチを飛躍的に伸ばすという歩法がありますが、相手の反撃を封殺する一歩というのは地味に見えて非常に優位を盤石にする共通意識なのですね。

 17. ... Qc7はRc1で、Qd7はBb5でそれぞれピンを喰らうのが嫌ですが、ここで17. ... Qe7も、やはり18. Bb5と出られて、これをケアすべくQd7/Qe8を強いられそうで、替えて18. ... Nd8と逃せば19. 0-0〜Rfc1で白が勝勢です。17. ... Qe7 18. Bb5 Nxb4と、Qe7の利きを活用してbポーンを抜こうという企みは、19. Rb1とナイトをトラップしておいて白が良いでしょう。

 ここでもうひとつ触れておきたいのは、ポーン構築がほぼ終わっているというところですね。そしてそれは黒にとっては絶望的なのです。

(図13:18. ... N8e7まで)

 図13までの手順:図12より18. Bb5 N8e7

 14手目のところでNc8から捌きに行く順に既に触れましたが、本譜の順では既にだいぶ白が良いですね。同じ手順でピースを精算し合う過程が一緒でも、それまでの流れが違うと戦況というのは大分変わってくるもので、これはアレヒンが最も得意としたところなのではないか、と推察します。このサンレーモの大会にはポーランドからルビンシュタインのみならずタルタコワも参加していますが、彼が分析したように、アレヒンには『変化を編集するのではなく、創意工夫に基づいて狙いの筋やテーマを再構成する』という類い稀な才能があったのでしょう。変化を編集、というのはまさしく我々がやるように、バリエーションを少しずつ枝分かれさせては枝切りをして、というあたかも盆栽を愛でるような遣り方で、アレヒンには彫刻的な、同じテーマやトラディショナルな工法に基づく作品であっても最初から掘り出す形を見ているようなところがあります。

(図14:21. ... Qe8まで)

 図14までの手順:図13より19. 0-0 h6 20. Rfc1 Rfc8 21. Rc2 Qe8

 19. 0-0がいいですね。ここまでキャスリングを保留してきた白が満を辞して、キングサイドのルークを戦線に投入しようというクライマックスシーンです。キャスリングは駒効率が良いので数多のオープニングのバリエーションで重視されるムーブですし、実際に早指しなどをやっていると、ひとまずキャスれるというだけで安心感があるものです。将棋に「居玉は避けよ」という格言がありますが、囲っておいて損はない、という感覚はある程度のコンセンサスを得られるものだと思います。

 なので、たとえ囲わない手が数理的に最善だとしても、その裸一貫の状態を維持して差し回していくのは、戦勢の差以上に心理的なプレッシャーがプレイヤーに加わるものですよね。エストニアのプレイヤーであるパウリ・ケレスのものとして『チェスは意思の試験である』(Chess is a test of wills.)という言葉が伝わっていますが、勝ちを落とさないことに拘ったアレヒンが、自分で嵌めたその枷に縛められた手でキャスリングを延期し続けるという心理状態を察するに、その胆力に心より嘆息します。

 黒19手目h6は慎重ですね。それだけNf3の位置どりがいいということでもあります。クイーンに当てて跳べるNg5という手はいきなりキングを縛り上げてしまう可能性があるので、こうした強襲への備えはニムゾヴィッチも流石の名手であると再認識させます。

 目下の戦場はcファイルですね。白のコントロールが強過ぎるためいつ破られてもおかしくない状態であり、ゆえに黒としてはこれからルークとクイーンの連結を途切れないようにしながら邀撃体制を築くことを強いられています。

(図15:24. ... Qd7まで)

 図15までの手順:図14より22. Rac1 Rab8 23. Qe3 Rc7 24. Rc3 Qd7

 そのようなわけで、Qd7はRc7を輔弼しつつ縦に居並んだ白の2つの巨砲に備える手です。しかし、白は手遊びのようにルークとクイーンの位置を変えながら、cファイルに戦力を集中する支度をしているこの状況では、クイーン一人でRc7を支えるには無理がありますね。なのでここからニムゾヴィッチはキングすら持ってきて戦線を維持する必要がありますが、それら全てがアレヒンの掌中というわけです。

 ここでa、d、e、fファイルでそれぞれポーンが膠着している状態というのがどれだけ白に強力なアドバンテージを与えているか、ということですね。bファイルもBb5に食い止められており、これを外すのは白の権利です。ポーンの進軍を堰き止めてしまい、巧みなタクティクスでcファイルに戦力を集中させることを強いている、これは全てアレヒンの描いた絵図です。

(図16:26. Qc1まで)

 図16までの手順:図15より25. R1c2 Kf8 26. Qc1!

 26手目Qc1で、ついにR+R+Qという理論上最強の攻撃力を備える陣形が完成しました。このバッテリーこそアレヒンズ・ガンと呼ばれているものです。

 アレヒンズ・ガンの異彩な出立ちとその破壊力がフィーチャーされることが多いですが、本局の肝は、アレヒンがどのようにしてニムゾヴィッチの手を奪い、自分がしたいように相手に指させたか、というところにあると思います。まるで達人の合気道を見るようですね。ここまで来ると後はタイミングの問題で、黒は現状、d8を目指してキングを漸進させていますが、いずれRb8をcファイルによばねばなりませんし、そのタイミングでbポーンのブロックを外すのを白は楽しみにしています。

(図17:27. Ba4まで)

 図17までの手順:図16より26. ... Rbc8 27. Ba4

 前述の通り、ここでニムゾヴィッチがRbc8としたので、アレヒンはBa4と後ろにビショップを引いて、次に28. b5のスレットを見せます。Nc6がいなくなっては戦線が瞬時に瓦解します。また27. ... Ke8 28. b5 Nxd4 29. Nxd4 Rc4と、d5の利きでなんとか止めようという姑息的な切り返しには、このa4に引いたことにより30. Bb3とこれを苛める動きなんかも候補に生まれています。

(図18:29. ... Kd8まで)

 図18までの手順:図17より27. ... b5 28. Bxb5 Ke8 29. Ba4 Kd8

 b5と白から突かれることを嫌がりニムゾヴィッチは27. ... b5としましたが、これをBxb5と取ってから再度Ba4に引く手はとても感触がいいですね。ここで黒のbポーンだけが落ちたというのがまた厳しくて、白からはb5と押し込む狙いがあり、またNc6を責めているこの手が常に先手で入るため、例えばアレヒンズ・ガンを崩してQa3と、ダイアゴナルを縦に二つ重ね擬似的にビショップ・ペアのようなものを作って呼び込んだキングを攻撃するような構想も可能なのではないでしょうか。

(図19:30. h4 1-0)

 図19までの手順:図18より30. h4

 ここでニムゾヴィッチが投了しました。ここからの展開でわかりやすいのは、30. ... h5 31. Kh2 g6 32. Ng5と進めて白が黒のポーンを全て止めてしまう順でしょうか。こうすると黒は最早ポーン以外のピースを動かすしかないですが、アレヒンの大砲に常に狙われている状態なので、迂闊にこの均衡を崩すと瞬時に自陣が瓦解してしまいます。以下32手目に、cファイル周りを触りたくない黒が例えばKe8と動かせば、これはc7を菲薄化させてしまう手なので、ここで白は堂々と33. b5と突くことができますね。

 チェスでは交互に一回ずつピースを動かさなくてはいけません。パスが許されないので、こういった、自分が動かすことによって現局面より悪くなる状態でも、必ず着手をしなくてはならないわけです。ドイツ語で『強制的な被動』という意味で、この状況をツークツワンク(Zugzwang)と呼びますが、この言葉はチェスより輸入され、今般ではゲーム理論において「自分の手番であるが故に状況が悪化する」という意味で用いられています。すなわち本譜はアレヒンズ・ガンの資料であると同時に、貴重なツークツワンクの実戦譜としても有名なわけです。

 アレヒンが勝ちにこだわった、という話をしたと思うのですが、本トーナメントでも、アレヒンは2位に大差をつけた首位であるにも拘らず最終ラウンドでドローに応じず、Roberto Grau相手に黒番でしっかりと勝ちを捥ぎ取っています。この辛い姿勢は尊敬に値するものです。

 カパブランカとの確執を巡って貶されることもあるアレヒンですが、タルタコワが述べたように、チェスが芸術であるなら間違いなくアレヒンが最高のプレイヤーでしょう。頂というのは険しいもので、それを極める道程は、マインドスポーツを含め、種々のスポーツにおいて、或いは自己研鑽を必要とする全てのものにおいて、登山に喩えられることがあります。思うに、並み居るチェス・プレイヤーたちが山頂を目指して峻険を踏破せんとする登山家であるならば、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒンは、登山家ではなく、山岳写真家であったのかもしれません。そして、それならば紛う方なく、最高の写真家でありました。一歩一歩と山を登る行為が、彼にとって決して己の鍛錬としての意味合いだけでなく、我々にその詩的で言語を絶した絶景を届けるための努力であったが故に、彼は誰よりも高位にしがみつくことを是としたのではないか、と私は思うのです。

 アレヒンのこのトーナメントの後ですが、1935年、挑戦者として迎えたMax Euweに14.5対15.5の僅差で敗れ失冠するも、嗜好品であった酒を断ち煙草を禁じ、牛乳を飲んで健康に気を使い、2年後に再戦で雪辱を果たし、再びチャンピオンに返り咲いています。

 彼の遺した作品に触れることで、その眺望に憧れた者たちがどれだけいることか、と思うと、アレヒンもまた、時代に翻弄された不遇な者としての性格を持っていたことを悔しく思います。彼は、在位中に亡くなった唯一のチャンピオンとしても語られますが、これは決して彼の思惑だけでなく、時代が彼を排斥するところがあったのも理由でしょう。2次大戦後、彼は対独協力者と見做されて、主だった競技会に呼ばれなくなっていたからです。アレヒンは1946年3月、ポルトガルのエストリルで死没しますが、彼には「107 Great Chess Battles, 1939-1945」という著書があるように、実に死の前年まで、同時代のトッププレイヤーたちの棋譜分析を含めたチェスの研究をしていたことがわかります。行き場を失ってなお、彼のチェスへの情熱が衰えを知らなかった証です。

 本日はアレヒンの名局を用いてフレンチ・ディフェンスの対局をご覧にいれましたが、いかがでしたか。過去のゲームの棋譜は、それだけでも美しい芸術であり、また、誰に、いつ、どのような背景で紡がれた四手連弾であるのかを知ると、それは卓越したヒューマン・ドラマとしての性格すら帯びて見えることでしょう。機を見てこうした過去の実戦解説もたびたびやろうかと思っています。


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