彼の散歩とわたしの日常【前編】

文字数:約4200(読了まで11分ほどいただきます)


 彼が私を散歩に行こうと誘っている。
 庭から縁に膝で乗り上げ、えくぼの頬に笑みを浮かべ、私を誘っている。春の昼下がり。特にしなくてはならない用事もない。
「いいわよ」と応えた。
 私は開け放した続きの間で、ふすまに半分隠れ、淡いグリーンのカーディガンに袖を通した。その様子を眺めていた彼が、
「なんだかおいしそうな色だよね。桜餅というのだっけ? このあいだの、甘くてとってもおいしかった。また作っておくれよ」
 ああ、確かに。桜色のネルのシャツを着ていたら、そういう風にも見えるわね。学生の彼は、甘え上手で食いしん坊で、とてもかわいらしい。
 初めて彼を見かけたのは、自転車の鍵を無くしたと言ってうちの前をうろうろしていた時だった。薄暮の迫るなか、心細そうな風情が放っておけず、一緒に探してあげたところ、すごく感謝された。鍵は結局見つからず、仕方ないのでチェーンロックを荷物と一緒に前かごに放り込んだ自転車で、彼はうちの前を通って学校に通う。
 登下校の時間帯、庭や道端で声をかけられた。彼のふわふわくるんとしたクセっ毛とえくぼの笑顔が、寄る辺ない私のしおれた心を少しずつ潤した。
 盛大な夕立が降った日に初めて、彼を家に上げた。着替えにと差し出したのは、うちに一つきりの大切な形見の男物のシャツ。もちろんそうとは告げずに。 なのに自分で洗って、不器用ながらきちんとアイロンを当てて返すことのできた彼だった。だから私はいいと思った。この人ならと。それから私はたくさんのことを彼に許した。
 散歩が好きな彼には、お気に入りの散歩コースがある。それはうちから二十分ほど歩いたあたりにある、城址公園に行って戻るというコースだ。
 そこに登ればこの町を、一望することができる小高い丘。てっぺんに古いお城の石垣の名残がある。
 この丘のふもとには小さい子供向けの遊具や地下水がわき出ているちょっとした池もある。休日になれば小さい子供を連れた家族連れでにぎわう公園だ。もちろん花の季節には、池の周りに並木になった桜も咲き初める。
 陽射しは穏やか。物悲しいまでに澄んだ空は数日前より色を深めている。その色を、春の色だと私は見上げる。
「学校はどうなの」
 丘の上に続く坂を上りきり息を弾ませたまま、少し前を行く彼の広い背中に尋ねた。
「楽しいよ!」
 彼が私を振り返る。
「前から言っていたゼミに入れたんだ。あ、明日ね、その、ゼミのみんなと教授とで、お花見に行くんだよ」
 陽を浴びた頬の線の、年齢とも背丈とも不相応な幼さがいとおしい。
「いいわね。楽しんでいらっしゃい」
「うん。教授が値の張る花見弁当、奢ってくれるんだって。いい人だよねぇ」「あなたにとっては、おいしいものをくれる人は、みんないい人なのね」 「そうだよ!」当たり前じゃないかと、彼は真剣な顔で続ける。
 こちらのささやかな揶揄や嫉妬の感情なんて、彼には簡単に肩先で跳ね返されてしまう。全く、こういうところでは、わたしは彼にはどうにも勝てない。鈍いことは、知らないということは時には、強力な武器になるようだ。
「空気が甘いよね」
 彼は私のすぐ隣に並び、そう言うと空を仰いだ。目を閉じて深呼吸する。健やかなその様子に黒い感情をそがれてしまって、私もそれに倣う。
「木々の芽吹きの匂いがするよ。テントウムシが倒木の陰からはい出る音も聞こえる。あ、山のウグイスはまだ鳴きかたが下手だなぁ、声がひっくり返って。ねえ、春ってけっこう騒がしいよねぇ」
 騒がしい騒がしいと、うれしそうに目を細めて文句を言う。
 もちろん私には、そんな匂いも音もわからない。それにここは、山から離れた町の中。
 不思議なことを言う彼に戸惑い立ち止まる私の髪を揺らして、春風は優しく追い抜いていった。
「春だからかな」前を向いたまま、彼がつぶやく。陽にかざした、自分の手の甲を見ながら。
「なんだか、身体が新しく、生まれ変わっていくみたいな気がするんだ」
 
 
 満開の桜が葉桜になり、つつじが咲き藤が棚からあふれ、あじさいが入梅を告げる。入道雲が雨雲を蹴散らす頃には、セミが短いわが世を歌いはじめる。  手に持っていたうちわが畳に落ちた音にハッとして、私は顔をあげた。いつの間にか、机に伏せて眠ってしまっていたようだった。
 軒先の風鈴がちりりと、風を奏でる。
 気配に見遣ると、彼が縁に腰かけ半身をひねってこちらを見ていた。目が合うと、黒目がちの大きな丸い目で、まっすぐに私を見つめ返してくる。
「ただいまっ。やっと目を覚ました」
 声を弾ませ目じりを下げて、顔じゅうで笑う。両方の大きな犬歯がのぞくほど。
「お帰りなさい。ごめん、わたし、ずっと寝ていた?」
「うん寝てた。でも退屈しなかったよ。ずっと見ていたから」
 少々の気恥ずかしさを覚えながら、頬に落ちた髪を耳に掛けると、私は彼のそばまで寄っていった。
「散歩していたらね、偶然見つけたんだ。頑張って仕留めて来たんだよ」
ほら見て! と、体をずらして、誇らしげに彼が足許を示す。
 そこには獣毛の塊が――サバトラ猫の死骸がひとつ、投げ出されていた。私はとっさに両の指先で口を塞いだ。
「あ、これ、飼い主とかいるヤツじゃないから、心配しないで。この先の空き家の軒下に潜んでいて、エサを漁りに出てきたやつだから。ね、今夜はこれを食べるよ。新鮮だからきっとおいしいと思うんだ。大丈夫だから、ね?」   悲鳴を殺して立ち尽くす私が、なんでそんな状態になっているのか。彼には解かっていない。それはとてもとても、この上なく新鮮だろう。違う! 違うのよ、私は……。
 春の日、散歩の途中。つぶやいた言葉の通り、彼の体は、それから少しずつ変化を見せた。
 どちらかというと薄かった体毛がだんだんと濃くなった。髪の伸びるのも早くなった気がする。腕や胸、脚の筋肉が発達し、しなやかで逞しい体つきになった。
 手足の爪が固く濁った色になり、長く伸ばすことを好むようになった。切ってあげようとすると嫌がってさわらせない。以前の彼なら、清潔を保つためはもちろん、私を傷つけてはいけないからと、いつも短くしてくれていたのに。  それに、音もそうだが、やたらと匂いに敏感になった。そのくせ、自分は入浴を欠かしがちにする。
 さらにこれが。私にとっていちばん理解しがたいことだった。彼はやたらと生肉を食べたがるようになった。生という点で、お刺身やたたきならまだ理解できたけれど、明らかに生食用でない未調理の、まだ血が滲んでいるような牛肉や鶏肉を食べたがる。
 数日前、ついに我慢できなくなり、手にしている皿を取り上げようとしたら、彼にふり払われた。彼が私に手を上げたのは初めてだった。痛くはなかったけれど、驚いた。手よりも心が痛んで、私はただただ悲しかった。
「わかった。それを食べればいいわ。でも、ごめんなさい。あ、あっちで」  顔を背けて庭の木を指さす。視線が合わせられない。
「うん。わかってるよ」
 弾んだ調子の彼の声。彼は夕飯予定の獲物をひょいと担ぎあげ、踵を返した。
 彼はいま、私の家の庭の木に住んでいる。木の根元に、体を丸めて眠れるほどの大きさのくぼみを掘って。
 自分の部屋の中で彼が「獲物」を食べた時、まだ仕留めきれていなかった獲物が抵抗したたらしい。血で凄惨な様子に汚してしまったため、下宿に居づらくなったのだと言った。ではうちにいらっしゃいと応えればうなずき、ここがいいのだと、庭のハナミズキを指さした。
 それでも食事は家に上がって一緒に摂っていたのだけれど。鼻にしわを寄せ、生肉に犬歯を立てて引き裂く彼の食事する姿を、私はどうしても見ていられなかった。



 あなた。
 ねぇ、あなた。
 元気にしていらっしゃいますか?
 お風邪など召していらっしゃいませんか?
 あなたは体調をどうかなさると、すぐに喉の調子を悪くしますもの。朝晩が少し冷えてきたので心配です。体を冷やさないようになさってくださいね。  まぁ! 私ったら、可笑しなことを言ってしまいました。
 そちらの世界ではもう誰も、風邪などひかないのですものね。衣替えだって必要ないのよね。
 ねぇ、あなた。
 あなた、言っていらっしゃいましたね。
 亡くなられる少し前に。病院のお庭に散歩に出た時でしたかしら。
「きみはまだ若いのだし、俺に遠慮しなくたっていいんだよ。いい人ができたなら迷うことはない。俺がいなくなった後、きみの笑顔を守ってくれる奴なら、俺はむしろ大歓迎だ」
 命の刻限を告げられたあとも、あなたはそれまでと変わらずいつも穏やかでしたね。病みやつれて肉の薄くなってしまった頬に淡く笑みをたたえて、そうおっしゃっていましたわ。
 私は冗談だと思っていましたし、そんなことが実際にあるとは考えもしませんでしたから、どこかなおざりに聞いていたのですけれど。 正直に話します。あなたには昔から隠しごとなんて通用しませんでしたもの。
 私、いま、心寄せる人がおります。
 そのような気持ちを抱くのは、あなた以外に初めてなんです。不思議な気持ちです。あなた以外のどんな男性にも、心惹かれることは決してないと思っていましたのに。
 彼が愛おしいんです。
 わたしよりもいくつか年下で、出会った頃はまだ学生さんでした。あなたとはくらべるのも気の毒なほどに頼りなく、若いというよりも、いとけなく見えます。でも、私は彼を愛おしく思っています。 こんなこと、あなたの三回忌に、あなたのお墓の前で話すことではありませんけれど。でも、あなたにはなんとしても、聞いていただきたいんです。
 お聞きになっていらっしゃいますか? 私、彼が愛おしいんです。
 自分で自分がそら恐ろしい気分です。どうしてこんな気持ちになったのかわからないんです。緩やかに坂道を転げるように、いつの間にか、彼に惹かれていました。
 雨に遭ってずぶぬれになり、困っていたところに貸してさしあげた、あなたの形見のシャツがよく似合っていたんです。私がこしらえた桜餅や牡丹餅をとてもおいしそうに食べるんです。
 でも、私は決してあなたの代わりを彼に求めたわけじゃない。彼は彼です。あなたの代わりになれる人なんて、この世のどこを探してもいない。
 なのに。私は彼を慕っています。
 あなた。
 浅ましい女だといっそ罵って下さったらいいのに。そうしてくだされば、私はどれほど救われることか…!
 私は。 この先、もしも彼が人の姿さえ手放した存在になったとしても。 彼がどんな姿になったとしても、愛おしいんです……!


  【後編】→ https://note.mu/iori_m/n/n6910dcf2e546 に続きます