彼の散歩とわたしの日常【後編】

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文字数:約5300(読了まで14分ほどいただきます)



「月がきれいだよ。見においでよ」
 出先から戻ると、待っていてくれたのか彼が庭に立って手招きしている。  鈍色の喪帯を解こうとした手を止め、縁に出た。夜空には高く、銀細工のような丸い月があった。
「ほんとね……きれい」
 この前に誰かと月を見上げたのなんて、いつだっただろう。 ちょうど二年前の今日。私のあの人がこの世からいなくなった。それから、新年のお祝いも節分も雛祭りもお月見だって。折々のお祝いや行事ごとを全部、私は忘れてしまっていた。
「ねぇ、散歩しよう、一緒に」
 翼をふわりとひと振りして、彼が誘う。
 彼の背中には、白い大きな翼が生えていた。その翼のために背の部分に細工を施したシャツを着ている。
 夏の終わりの頃、彼は具合が悪そうに寝床でうずくまっていることが多くなった。私はついに生肉で寄生虫にでも中ってしまったのかと気を揉んだ。
 ところが、そうして数日が経ったのち、彼はとつぜん起き上がった。驚いて縁に駆け寄った私の目の前で、少しふらついた足取りの彼は庭の中ほどに立ち止まり、大きく伸びをする。 肩の埃を払うような仕草をしたあと、着たきりだったランニングシャツを脱ぎ捨て、彼は背中の翼を大きく広げた。
「ごめん、驚かせて。ずっと体が重くてだるくておかしいな、おかしいなって思っていたんだ。でもこれで、すっかり気分がよくなったよ」
 さわさわと軽そうに、白い羽毛を風にそよがせながら、彼はこちらに近づいた。猛禽のようなくるりと丸い瞳に光を弾かせ、彼は首を少し傾げて笑った。 その夜から、彼は夜空の散歩を楽しむようになった。
「さあ、行こうよ」
 彼が手を差し伸べて、私を誘う。
 ちょっと待ってと断って、私は喪服を脱ぐために奥の間に戻った。喪服で散歩はさすがにできない。普段着に着替えなくては。それにもう、夜は寒いかもしれないから上着も羽織りたい。
「はやくっ! もたもたしていたら月が沈んじゃうよ」
 まるで小さな子どもが外出前、親を急かしているようで、声を出して笑ってしまった。
 襖の陰から顔を半分のぞかせ、盗み見る。 そこにいるのは、どう頑張っても愛らしい姿ではないけれど、とてもいとおしい彼。
「ねえ、もうっ! 服なんて何でもいいじゃないか」
 縁から彼が、奥の間まで上がりこんできた。 解いていた帯を慌てて掻き寄せ持ちなおす。
 その手を彼に掴まれて、鈍色の喪帯は乾いた音をたてて私の足元に落ちた。 「何するの!」
「ごめん! 何だか……気が焦るんだ。ねえ、早くいこうよ、このままの格好でもいいじゃない?」
「だめよ。たいせつな着物だか――」
「きれいなんだもん! そのままで行こう。きっと、満月の下で見たらもっときれいだよ。ね?」
 甘えるように言うと、彼は背中から抱きしめてきた。そういう態度に私が弱いのを、彼はちゃんと解かっていて、時々ずるく利用する。 不器用に襟を胸もとで合わせようとする彼の手に、私はついに根負けした。
「今夜だけよ。満月だから、特別なのよ」  喪の着物を、帯はせずに羽織ったままの姿で。わたしは身をよじり、彼の胸に額をつけた。
 うちの近所の神社には、見事なクスの大樹がある。彼は翼を得てからは、夜空の散歩の途中にいつも、そこに寄って町並みを見るのだと言っていた。 「家の明かりがきれいだよね。あのひとつひとつに、誰かがいて、笑ったり泣いたり、怒っていたりするんだよね」
 彼はクスノキのほどよい枝に腰かけている。 彼の馴染みの枝。彼の膝に私は身を預け、腕のなかで彼の声を聴く。
「そうね。ひと目で見渡せてしまう景色の中にも、たくさんの人がいてそれぞれがいろんな思いを持って暮している」
「いっぱい人がいる中で、出会えてうれしかった」
 彼は月を仰いで静かに言った。
「私もよ」 上を向く彼の頬に両手で触れ、こちらを向かせる。
「こんな気持ちがまだ私の中にあるなんて、思ってもみなかった」
 見つめ返してくる彼と、唇を重ねる。
 見ているのは月だけ。この、満月だけ。
「最近ね、何かが呼んでいるような気がするんだ」
 唇を離してすぐに、彼は私にこんなことを言った。
「何かが呼んでるんだ。帰っておいでって、呼んでいる声がする。行かなくちゃって思うんだけど、でも、どこに行ったらいいんだろう? そもそも、そこへ行ってもいいのかな?」
 家に戻り、床を延べてあげると彼はうれしそうに布団にもぐりこんだ。朝夕が冷えるようになってから、さすがに木の根元ではいられなくなり、彼はふたたび私の隣で眠るようになっていた。
 さっきの彼の言葉が、指先の小さなささくれのように気になって、私はなかなか眠れなかった。
 行かなくちゃって、一体どこへ行くというのか。どこへとも解からないのに、彼はどこに行きたいというのか。
 そして、不安を感じる。
 私はまた、愛しい者において行かれてしまうのだろうか。あの人の時は、命の刻限を告げられたあの人には、したくともできなかった。してはいけないのだと耐えた。 もしも泣いてすがりでもすれば、彼なら思いとどまってくれるのだろうか。
 見遣ると彼はこちらに背を向け寝息を立てていた。背中に翼を折りたたみ、抱き枕を使ってうつ伏せ気味の楽な姿勢を保っている。彼と私、二人で背中の翼が痛くないようにどういう姿勢で眠るのがいいのか、試行錯誤して見つけた眠りかた。
 ――どこにもいかないで。
 不意に言葉がこぼれた。そうしたらもう、止まらない。 私をひとりにしないで。 私を放って、どこか遠くへひとりで行かないで。
 聞こえていなくてもいい。いっそ、聞こえていないほうがいい。それでも私は言葉にしておきたくて、つぶやいた。
 部屋の明かりを落としても、月の光が掃出し窓も仕切りの障子をも突き抜けて、淡く布団の上を照らす。
 かすかな月明かりの下、私は自分が眠りに落ちるまで、彼を見守りつづけた。

 そして冬のある朝――彼は私の前から姿を消した。


 彼が姿を消した日の、ひと月ほど前のこと。彼の体にまた、新しい変化があった。 真っ白のきれいな彼の翼が突然、背中の付け根から落ちてしまったのだ。少し羽が抜けやすくなっているなと思ってはいたけれど、まさかそんなことになるとは、思っていなかった。
「大丈夫なの! 痛くないの?」
 驚く私の見ている前で、しかし彼は冷静に、落ちた翼を拾いあげ、乾いた音を立てていくつかに折り、小さくまとめ、
「痛くはないよ。なんだか背中が引き攣れる感じがするけど、痛くはない」  そう言うと、台所から引っ張り出してきたごみの袋に入れてしまった。
 そのあと、彼は洗面所に入ってシャツを脱ぎ、鏡の前で身をよじって背中を映そうとした。何かしら違和感はあるらしく、腕を上から横から回したり、なんとか背中にさわろうとしている。あたふたしたその様子が可愛らしくて、あとについて行った私は、彼の背中をのぞいてみた。すると。
 そこには湿った質感の鱗があった。あっちこっちとかさぶたのように、皮膚が変質してできたような鱗が覆い始めていた。 恐るおそるさわってみると、ひんやりとしてなめらかで、さわり心地がいい。
「ねえ、鱗が生えているわ。背中に」
「わ、そうなんだ! 何色?」  彼は声を弾ませる。
「白っぽいけどちょっと光沢があって、銀色にも見える」
 正直に言うと、彼はどうしてもその目で見、指で触れてみたいようだった。私が手鏡でもって合わせ鏡を作り見せてやって、やっとのことさわれて、それで納得してくれた。
 彼の鱗は日を追うごとにその面積を増やした。背中一面、脚や腕、そして項から頬にかけて。皮膚が角質化したような銀の鱗が、彼を覆っていった。
 体表の半ば以上を鱗が占めるようになった頃、彼は頻繁に喉の渇きを訴えるようになった。喉が渇くと鱗が痛むのだと言って。 口から飲むだけでは足りず、直に鱗を湿らせるため、浴槽の残り湯を浴びることもするようになった。  そして。彼がいなくなるほんの数日前のこと。彼の鱗は一晩で、すべて生えかわった。
 今度の鱗は魚のそれのような、薄いのに硬く、尖った手ざわりがした。 こうなってからは、身体の渇きは深刻な問題で、相当につらいらしく、彼は一日の大半を浴室で過ごすようになった。 指に生えた鱗が邪魔をして指先を器用に動かせなくなっているので、食べやすいようにおにぎりを作って差し入れる。すると彼はうつ伏せに寝た状態から上体を反らせて浴槽から顔をだし、うれしそうにわたしの手からおにぎりを食べた。
 私はうれしかった。なんて安らかなのかと思った。 このまま、彼が水のないところに居られない体であればいい。これ以上変化しないでほしい。そうすれば、この安らいだ時間は永遠になる。彼はどこにも行かない。どこにも行けはしない。
 そう、思っていた。思っていたのに。
 彼はよく冷えた真冬の朝、突然に姿を消してしまった。 たった一枚、鱗を残して。
 あんな体で彼は、どこに行ったのだろう。どうして私の許からいなくなってしまったのだろう。 温度も低く湿度も低い。彼のあの体だと外の、水のない場所はどうしようもなくつらいはず。どうしてこの、身体を浸す水にも食料にも不自由のない私の家から、彼は出て行ってしまったのだろう。
 私は、荒れた。 あの人がこの世からいなくなった時でさえここまでは、というほどに荒れた。
 毎日、陽が高くなるまで寝床に転がりひたすらに、彼のことを思った。楽しかった日々や交わした言葉、私にふれた指や吐息。思い出に溺れそうで苦しくなれば、昼間からでも燗をつけた。 酔いが回り、それでも眠りに落ちることが叶わなければ、私は彼を探して外に出た。 近所の小学校のプールやため池、水嵩の少なくなった用水路。工場からの排水が流れ込み、濁った色の川でさえ、わたしは彼の名を呼びのぞき込んだ。 彼と幾度も歩いた城址公園の、湧水を湛えた池にも行った。透明でやわらかな水に指先を浸し、近くで、もっと近くでと池を覗きこむ。
 あぁ、いない、彼はいない。どこへ行ったの!
 いくらか正気を保っている日には、わたしは遠出して、海や大きな川まで彼を探しに行った。それでも、私は彼を見つけることはできなかった。
 桃の節句も過ぎたころ、浅い眠りの中、私は夢を見た。
 私のあの人、今はもういないあの人が、城址公園の池に釣り糸を垂れている。 この池では魚なんて釣れない。私はそう言ってあの人の後ろに近づいた。
『いいんだよ。ここにしかいない魚を待っているんだ。うまく釣り上げることが出来たら、きみにあげよう。それともきみが釣ってみるかい?』
 釣竿を、あの人が私に差し出す。私はそれをこわごわと受け取り、あの人がしていたように池に向かって釣り糸を垂らした。
 しばらくして、グイッと引き込まれるほどの手ごたえが伝わる。堪えきれず、私は池に落ちた――落ちた。
 目を覚ますと、額や首筋に汗がにじんでいた。跳ねる呼吸を整えるのももどかしく、私はとびきり熱くしたシャワーで汗を流した。
 そして。ふと思い立ち、私は濡れた髪から滴を落としたまま、台所に向かった。米をとぎ、炊飯器にセットして、炊き上がりを待つあいだに、支度を進める。髪を乾かしてから、桜色のネルのシャツに白いスカート、そして淡いグリーンのカーディガンを選ぶ。いつだったか、彼が桜餅にたとえた服を身に着けた。洗面所の鏡をのぞいて紅をさす。めちゃくちゃな生活で荒らしてしまった肌を少しでもごまかせればいいけれど。 炊けたご飯でおにぎりを拵え、バスケットに詰める。
 さいごに私は、彼が残していった銀の鱗を指につまみ、ハンカチで包むとポケットに仕舞った。
 彼が好きだった散歩道。 彼の体がまだ変化をはじめる前に、一緒に歩いた道。季節はめぐって、いま私は一人この道をたどる。
 池の周囲の桜の木々のつぼみは固く、咲き初めまで、まだ数日を待たなくてはならない。
 私は池に近づき、水際に立った。
「ねえ、おにぎり、持ってきたのよ」 
 湧水がささやかな波紋を作っているあたりに向かって呼びかける。
「お腹すいていないの? おにぎり、作りたてなのよ」 早く出ていらっしゃい。早く、姿を見せて。
「私も朝起きてから、何も口に入れていないから、一緒にたべようかしら」  すいっと波がひとつ、こちらに寄せてくる。 水面近くに、白っぽい魚が寄る。姿は完全に魚だけど、まっすぐ見上げてくる視線が、彼と一緒だ。
「あら……」
 その魚は、人間で言うところの額の部分の鱗に、不揃いな部分がある。   あぁ、彼は額の鱗をひとかけら、ちぎって置いて家を出たのか。
「欠けている鱗、持ってきたわ」
 私は彼の前にしゃがみ込み、ハンカチで包んできた鱗を見せた。 彼ははしゃいでいるように水中で二度三度とくるくる回り、そのあと水面に顔を出す。鯉や鮒がするように口をパクパクさせた。声にならずとも、何かを言おうとしていることが解る。
「おにぎり、食べるの?」
 水中でくるり。
 私はおにぎりをひとかけら面に放った。彼はすごい勢いで水に散った米粒を追って食べた。小さなおにぎりひとつ分は、すぐに彼のお腹に収まってしまった。 ああ、今までと同じ。食いしん坊で甘え上手なかわいい彼だ。
「お腹がすいていたのね。ねえ、つづきは家で食べましょう」
 私は少し悩んで、両手をそろえて差し出した。
 水面から勢いよく銀の鱗が飛び上がる。
「さあ、散歩は終わりよ。はやく帰りましょう」

                              お わ り