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定本「想像の共同体」にまつわるQ&A

某読書会の課題図書「想像の共同体」をざっと読みました。

個人的には読むのにかなり難易度が高く、暗闇の中をそろそろと歩くような読書体験でした。

中でも「これは!?」と思った箇所(くらがりの中で見つけたかすかな光)をQ&A形式でまとめました。

用語に関するQ&A

Q1. そもそも想像の共同体ってなに?

A1. (本の中で定義された)国民のこと

本の冒頭で次のように定義されています。

国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの〔最高の意思決定主体〕として想像されると。

ベネディクト・アンダーソン 著, 白石隆・白石さや 訳, 定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行, 書籍工房早山, p.24 

ここでの国民は「かぎられたもの」であり(つまり人類全体ではなく国境の向こうに他の国民がいるようなもの)、「主権的なもの」として、さらには「一つの共同体(たとえ国民の中に不平等と搾取があるとしても)」として「想像されるもの」と考えています。

Q2. 「ナショナリズム」と「人種主義」の違いは?

A2. 歴史の内外で説明するかどうかで区別する

本の後半で次のように比較されています。

ナショナリズムのほとんど病理的ともいえる性格、すなわち、ナショナリズムが他者への恐怖と憎悪に根ざしており、人種主義とあい通ずるものである、と主張するのが進歩的、コスモポリタン的知識人のあいだで(それともこれはヨーロッパ知識人に限ってのことなのだろうか)、かくも一般的となっている今日のような時代にあっては、我々はまず、国民は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛をよび起こすということを思い起こしておく必要がある。ナショナリズムの文化的産物ー詩、小説、音楽、造形美術ーーは、この愛を、さまざまの無数の形式とスタイルによって非常にはっきりと表現している。その一方、これに相当するような恐怖と嫌悪を表現するナショナリズムの文化的産物を見出すことのいかにまれなことか。(中略)ことの真相は、ナショナリズムが歴史的運命の言語で考えるのに対し、人種主義は、歴史の外にあって、ときの初めから限りなく続いてきた、忌まわしい交接によって伝染する永遠の汚染を夢みることにある。

同上, pp.232-244

ここではナショナリズムは国民を想像の共同体とみなす一方で、人種主義は「生物学的特徴で国民性を消去する」などの観点で違いを指摘しています。


理論に関するQ&A

Q3. 何が想像の共同体を生み出すの?

A3. 出版・旅・新聞・人口調査・地図・博物館・etc…

本の中では想像の共同体を生み出す色々な要因が書かれています。

人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。

同上, p.86

出版時代以前には、想像の宗教共同体の現実性は、なににもまして、無数の、やむことのない旅に深く依存していた。

同上, p.99

初期の新聞は、本国についてのニュースの他に、商業ニュースーー船の到着出帆予定、港での商品価格の動向ーーそしてさらに植民地における政治的任命、金持ちの家族の結婚などが掲載されていた。別の言い方をすれば、同一紙面に、この結婚とあの船、この価格とあの司教をまとめたのは、まさに植民地行政と市場システムの構造それ自体であった。こうして、カラカスの新聞は、まったく自然に、また非政治的に、その特定の読者同胞の集団に、これらの船、花嫁、司教、価格の属する想像の共同体を創造した。そしてもちろん、やがてはここに政治的要素が入り込むことになった。

同上, p.108

人口調査、地図、博物館は、こうして、相互に連関することにより、後期植民地国家がその領域について考える、その考え方を照らし出す。この考え方の縦糸をなしているのは、すべてをトータルに捉え分類する格子であり、これは果てしない融通さをもって、国家が現に支配しているか、支配することを考えているものすべて、つまり、住民、地域、宗教、言語、産物、遺跡、等々に適用できる。そしてこの格子の効果はいつでも、いかなるものについても、これはこれであって、あれではない、これはここに属するものであって、あそこに属するものではない、と言えることにある。それは境界が截然と区切られ、限定され、したがって、原則として数えることができる。(人口調査の分類、下位分類には、あのこっけいな「その他」と命名された箱があり、これが現実生活のあらゆる不規則性をすばらしき官僚的立体画でおおいかくす。)またこの考え方の「横糸」はシリーズ化というべきもの、つまり、世界は複製可能な複数からなるという前提である。特定のものはつねにあるシリーズを暫定的に表現しているにすぎず、またそうしたものとして扱われる。植民地国家がいかなる中国人よりもまえに「中国人」のシリーズを想像し、いかなる国民主義者も登場するまえに国民主義者のシリーズを想像したのはこのためであった。

同上, pp.299-300

いろいろな要因が想像の共同体(国民)を生み出していると知った後だと、普段何気なく見ていた新聞(ニュース)や地図が「自分に国民という概念を想像させているのだろうか…」と感慨深い印象を受けるようになりました。


日本に関するQ&A

Q4. 日本の歴史で想像の共同体はいつ見られるの?

A4. 幕藩体制から明治政府に移る前後で顕著だった

日本の歴史と想像の共同体の関係も本の中で触れられています。

幕府廃止と天皇(「皇帝」)復辟はすみやかに行われたが、夷狄を追い払うのはそう簡単にはいかなかった。地政学的に、日本の安全は、一八六八年以前と同様、脆弱なままであった。こうして藩閥政府がその国内的地位強化のために採用した基本政策のひとつがホーエンツォレルン家のプロシア・ドイツを意図的にモデルとした世紀半ばの「公定ナショナリズム」の一変形であった。一八六八年から一八七一年にかけて地方に残存していた「封建的」藩兵はすべて解体され、東京が暴力手段を中央集権的に独占することになった。一八七ニ年には、天皇の詔勅により、成年男子の一般教育促進が命じられた。一八七三年には、日本は、連合王国よりはるか以前に、徴兵制を導入した。これとならんで、明治政府は法定特権階級としての武士階級を精算したが、それは有能なる人材すべてに(徐々に)将校団の門戸を開くためばかりでなく、いまや「利用可能」となった市民の構成する国民モデルにみずからを適合させる不可欠の措置でもあった。日本の農民は封建的な藩制への隷従から解放され、以降、国家と、市場向け農業経営を行う地主によって直接搾取されることとなった。一八八九年にはプロシア式憲法が制定され、そしてやがて男子普選が続いた。

同上, p.158

こうして公定国民モデルを採用した日本は、当時までの長期的な孤立状態と相互作用することで、帝国主義的性格に至った過程の解説が続いています。


感想に関するQ&A

Q5. 読んでみた感想はどうだった?

A5. 難しかったが所々は面白かった

正直、視線がページの上を泳ぐだけで内容が全然頭に入ってこないくらいの難しさで、比較的本を読んでいても手に負えない感じはありました。なので「この本はnot for me」だなと感じた面もあります。ただ、たまには自分に合わない本を手に取らないと思考が凝り固まってしまう気がしたのであえて読んでみた感想として、今まで当たり前にあると思っていた「国民」という単語が意外にも奥が深く、オンラインのコミュニティで交流が広がっている現代も「ニュース」や「地図(地理的関係)」、「旅」などの影響で集団が生まれることを説明できるヒントが見つかったので良かったと思いました。

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