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この夏の終わりに相応しい時間

フランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』は大学一年の時に買って読んだはずなのに、ほとんど内容を忘れていました。全く、自分の記憶力ほど信頼できないものはないです。すぐに忘れてしまう。今日だって、あることを思い付いて「忘れないようにメモらなきゃ!」と思ったのに、ペンを手に取ってメモに書こうとした瞬間には何を思い付いたのか忘れていたのです。こういうことが毎日何度もあります。メモを取りさえすれば、見返して書いた時の感情を思い出せるのに、それさえ許さないくらい私の忘却は強いものなのです。かと思えば、忘れたいことの方がふとした時に思い出されます。全く、嫌になります。思い出したいことほど思い出せず、思い出したくないことの方が記憶に残りやすいだなんて酷です。もっとも、記憶なんて役に立たないものだと知っていました。ある日私は怒られていたようですが、その時に怒られていたとは気付かなかったために、後に怒った人間と私の中で事実が矛盾して思い出されたわけです。彼は「あの時あなたを注意した」と言ったけれど、私は注意されたなんて記憶に無かったので納得がいきませんでした。その時初めて「記憶に御座いません」と言う政治家に親近感を抱きました。記憶はその人の都合の良いように解釈されて、誤解を含んだまま保存されていきます。歴史だって、紙の上で起きている事と実際に起こったことは異なります。それは、その時の権力者が紙に書かせたことだから事実に忠実であるわけがありません。勝者側の視点しか残らないという訳です。


私は今日を生きながら、私は明日死んでしまうんだという気がしていました。沈みゆく夕焼けが部屋に射し込んでいました。ああ、なんて美しい夕焼けだろう。私はその光の中に憔悴を見ました。哀愁の滲んだ色でした。私が見たのは物憂げな世界でした。最後の1日に相応しい風景でした。最後の1日に読む本にフランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』を選びました。

「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しいりっぱな名前をつけようか、私は迷う」
この冒頭を私は気に入っていました。それは、かつてこれを読んだ時に暗唱出来るほど繰り返して口に出したものでした。エリュアールの"À peine défigurée"も暗唱したものでした。私がサガンのこの素晴らしい処女作を買う理由となった映画サガンによって、これらの魅惑に興味を持ったのでした。サガンは18歳でこれを書いたようです。私もその時18歳だったと思います。
大学一年生だったその頃、生活が退屈だったゆえに感化され、享楽主義者のように生活するようになりました。その頃の私にとって快楽を与えてくれるかどうかが物事の価値でした。忙しくなるまではそのようにして過ごしていました。人前に立つ生活をするようになり、物事を考える暇が無くなるくらい忙しくなると、私は人前では礼儀正しく振る舞い、真面目に生きなければなりませんでした。あたかも人々が望む私を演じていました。しかしそうしている間であっても、我が儘で高飛車な自分が頭の片隅に生きていて、私は自己に内在する善と悪の二面性に悩み、罪悪を重ね、良心の呵責に苛まれ、逃げ出したいと何度も思いました。そのように苦悩しながらも辛うじて健康に過ごし、サガンと出会ったあの頃から三年が過ぎて今年の夏になりました。
今年の夏は今までの人生で最も堕落していました。倦怠を紛らわしたくてあの頃の享楽に満ちた生活を再び送り始めたのでした。人との関わりを極限まで減らしたお陰で心は健康的でしたが、そのために私は自分の唯一の良心である真面目さを失い、時間に縛られないで、狂ったようにお金を使い込み、反道徳的な生活をして私の出来る限りの最大の快楽を追求しました。でも侘しさだけが残りました。どんよりした気分を吹き飛ばすために起きている時間の殆どを読書と思索に費やしました。それは罪を洗い清めたい衝動による行為でした。私は、読書を通じて自分の生命、苦悩、愛、諦めといった物のちっぽけさを感じました。何があっても「なんだ、そんなことか」と冷笑できるくらいでした。しかし、この世には現代の技術を以てしても唯一避けられないものがあります。それは死です。私はまだ21歳で、死ぬことなんて非現実的な空想に過ぎないと思っていました。この夏、二人目の祖父が死にました。しかし私は、人間が死という残酷な定めを背負って生きていることが、どれほど耐え難いことかを知りませんでした。「人間は皆死んでいく」そんなことは知っていますが、分かりたくなかったのです。全員がいつか死ぬということは理解していますが、実際に「明日殺される」と考えると私は震えました。神に祈らずにはいられませんでした。「どうか、私の命が明日は絶たれることがありませんように」と。私は沈みゆく夕日を浴びる部屋の中で、机の上に散らばった紙束やペンといった、夕焼けの哀愁に染まったそれらを見ながら願いました。「明日もどうか、生きることを続けていたい」と。
こんなに劇的な1日は、少なくともここ数ヵ月のうち一度もありませんでした。明日が来ることがとても怖くて震えているのです。説明すると、どこかの犯罪者が私の近所へ26日を指定して爆破予告をしたのです。ネットで調べたらよくあることらしいですね。しかし、本当に爆破されたら、私の自宅は近いので巻き込まれるかもしれないです。そんなわずかな可能性でさえ私を死への恐怖に導くのには十分でした。なぜこの夏休みに?何が彼をそうさせるのか?絶望して自棄になった人間は、良心も忘れてなんでも出来るそうです。しかし、巻き添えを喰らうのは勘弁。爆発が私の想像する規模だったならば、私の家まで吹き飛ばされはしないでしょう。しかし、最近レバノンの爆発の映像を見たせいで爆発という単語に過敏になっています。あんな風に私も吹き飛ばされるのかしら。死にたくないと思いました。私を殺したいだなんて思いもしない人から殺されるのです。耐えられませんでした。明日が無事に終わることだけが私の願いです。
きっと死ぬことは無いでしょう。楽観的に生きるべきです。きっと爆発されない。みんな大切なことは隠蔽しているのです。爆破予告なんて、するものじゃありません。急に爆破したらいいのに、なぜ前もって告知して人々を怖がらせるのでしょうか。

考えても仕方がないことを考える暇があることは悦ばしいです。
ところで、『悲しみよ こんにちは』は見事な小説でした。倦怠、愛と嫉妬、独占欲、享楽に満ちた生活、欲望、正しきものへの反発、ワイルドに由来するデカダン、シニックな態度。文章は緻密で美しくて、軽快で、瑞々しい。
私は語彙力が無いので数回辞書を引かなければなりませんでした。それくらい豊富な語彙を使いこなす当時18歳の彼女が凄いと思いました。
私はサガンのようにはなれないと思いました。彼女のような逆説的な物言いをしてみたいものです。
翻訳者の後書きも素晴らしかったです。
ジッド、プルースト、ランボー、そしてサルトル、ボーヴォワール。彼女が好んだ作家たちだそうです。みんなフランス人。ジッドは『ソヴィエト旅行記』を、プルーストは『失われた時を求めて』の少しを読んだことあるけど。これらも含めて、ちゃんと読みたいなと思いました。そもそもフランスの文学はあまり知らないということに気付きました。もっと本を読まなきゃ!と心から思います。私は少しでも自分自身に教養を与えて少しでも気品ある振る舞いが出来るようになりたいのです。

明日は、予告された爆発が怖いので引き込もって「気付いたら1日が終わってた」ってくらい何かに没頭したいです。『若きウェルテルの悩み』を少し読み始めました。それを読み終わらせるか、折角興味を持ったフランス文学を読もうと思います。

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