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感覚のメタ認知の難しさ

疲れてる。
実は、この歳になるまで疲れていることに気づいていなかった。

疲れていることに気づかずに、手がだるいとか、人の目が異様に気になるとか、攻撃的になるとか、そんなことを繰り返していた。

疲れという概念が自分の中に定着していなかったのだ。

気を失うように何かをしている時に寝落ちする状況になるまでは疲れてないと思っていた。

異様な生活だったと思う。
そんなギリギリの体力でよく今までやってこれたなあと思う。

普通の人の生き方って実はもっと楽なのかもしれないと思い始めたのは最近。

辺りを見渡してみて思った。

生きるの死ぬのという感覚で生活している人はあまりいないのかもと、漠然と思ってはいたけど…。

まあまあ、どうでもいい話だな。

どうでもいい話なんだけど、自分の感覚が他者と違うということは分かりにくい。

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、体感温度、痛点、快楽。

それら、全て自分が感じるものが、他者のものと同じであるとは限らない。

新海誠監督の『君の名は』を観た時に、ひとは身体が入れ替わった時に、ああも自然に生活できるものだろうか?と考えた。

身体は、実は痛みに慣れるものだと聞いた。実際に痛みは残っているのだけど、意識しないようになるらしい。病院の診断でそう言われたという人がいた。

人は、気づいていない痛みや疲労、居心地の悪さなどを山ほど抱えて生きているのかもしれない。

誰かと意識が入れ替わって、その痛みにさらされた時に、果たして僕たちは常軌を逸することはないのだろうか?

同性ではなく異性と身体が入れ替わるのは尚更。

違和感と痛みと精神がバランスを保っているのは今の自分の身体だからなのかもしれない。

そう考えると…
今の自分は、自分の疲労にさえ気づくことがなかったのかと思ったが、逆なのかもしれない。
疲労に慣れただけかもしれないんだ。

疲れを無視するように自らが設定した。そんな身体に自分がしてしまったのかもしれない。

他者の痛みなどはわからない。
本人でさえわからないように生きているんだ。ましてや、他者の痛みなんかわからないはず。

もし、心と身体が入れ替わったとしたら、その瞬間に僕らはショックで命が終わってしまうだろう。そして、その瞬間に他者の痛みを知るのではないかと。

他者の思い出をたくさん感じて、自分の中に詰め込んで。
その思いに耐えきれなくなって年老いて、命は枯れていくのかもしれない。

いい人は早死にするという。
繊細で大量の想いを抱え込んでしまって、自分が自分でなくなってしまうように崩壊していくのだろうか…などと、らちもないことを考えている。

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