織田哲郎「いつまでも変わらぬ愛を」レビュー ~音楽に救われたあの日の兄と自分、そして今のあなたへ~

 私が毎年、夏になると最もよく聴く曲。
 織田哲郎の「いつまでも変わらぬ愛を」。

 この曲は、1992年に、ポカリスエットのCM曲として大ヒットを記録した。
 ポップなラブソングが流行したこの時代。「いつまでも変わらぬ愛を」も、若い男性が夏に女性と出会い、一緒に海で戯れ、深い恋に落ちて、遠距離になっても、永遠の愛を心に誓うラブソングに聴こえる。
 おそらく、世間は、そう受け止め、カラオケブームに乗って、多くの男性が女性に向けて歌ったはずだ。

 その受け止め方は、間違ってはいない。
 織田哲郎も、若い男女のラブソングにも聴こえるように仕上げたことは認めている。

 しかし、単なる若い男女のラブソングなら織田哲郎自身が歌う必要があったか。
 数多くの若い歌手がいたビーイングなら、誰かに提供してもよかったはずだ。
 なのに、織田哲郎は、この曲を誰にも提供せず、自分自身で歌った。
 その理由は、織田哲郎が自らの声で届けなければならない強い想いがあったからだ。

 1990年、織田哲郎は、「おどるポンポコリン」を作曲したとき、画家に転向しようと考えていたらしい。
 数々の音楽作品を生み出し、必死に働いた20代を終えて、織田哲郎は、もう音楽をやる必要がなくなったと感じ、放浪の旅を始めたそうだ。
 しかし、音楽活動最後の記念に、と自分の娘を喜ばせるために引き受けた作品「おどるポンポコリン」で一気に風向きが変わる。
 ミリオンセラーにレコード大賞受賞。なんでこんなものが売れるんだ、と驚いた織田哲郎であったが、ここから作曲家としての評価がうなぎ上りになっていく。

 もう音楽業界でやっていくしかない。
 そんな想いと覚悟が「いつまでも変わらぬ愛を」を生み出したのだ。

 そして、織田哲郎は、この楽曲に若くして亡くなった兄への想いを込めた。
 歌い出しの「小さな週末の冒険」は、幼少の頃、週末に海へ兄と2人で出かけた思い出だ。
 小さな子供2人にとって、海へ遊びに行くのは冒険だったのだ。

 2人が遊んだあの夏の出来事は、形として何も残らない。季節も、変わり続ける。しかし、あの頃の純真さは、永遠に記憶として残り続けている。あの頃に感じた愛情をいつまでも届けたい。

 子供の頃に持った憧れは、誰しも大人になるにつれて記憶の片隅に追いやられてしまう。それでも、あの純真な笑顔だけは永遠であってほしい。
 主人公は、とめどなく夢想するのだ。

 しかし、愛を届けたい兄はもうこの世にはいない。
 織田哲郎の兄は、とても優秀で憧れの兄だったが、受験戦争のストレスで病気になり、治療薬の副作用で若くして亡くなってしまった。そんな兄がひとときの救いとしていたのが音楽だった。

 遠くに行ってしまい、もう今となっては届かないけど、想いを届けたい。 ならば誰に届けるのか。
 それは、音楽に救われたあの日の兄に。
 そして、音楽に生きる力をもらったあの日の自分に。
 さらには、自分たちと同じように人生に苦しんでいる人々に。
 心を込めた愛情とともに音楽を届けたい。

 そんな強く温かい想いが詰まっているだけに、多くの人々の心に届き、心に沁みる歌になったのだろう。

 この楽曲を作ったときの気持ちを、織田哲郎は、のちにインタビューでこう語っている。
「『届けてあげたい』というからにはその相手、対象はそばにいないんです。ある時期の俺のような、あるいはある時期の兄貴のような人間にとって俺の音楽が届く事で少しでも楽になってくれるなら音楽を作り続けたい、と思った。だからこそ『届けてあげたい』ということだったんです」(※)

 この楽曲は、追憶や郷愁を感じるイントロとAメロから、徐々に想いが高ぶるBメロ、そして、想いを遥か遠くへ届けるかのような勢いを持つサビに至る構成が、完璧なまでに主人公の心の動きを表現する。
 織田哲郎の兄への想い、そして、音楽活動に人生を捧げる覚悟が生み出した「いつまでも変わらぬ愛を」は、織田哲郎が数多く生み出したヒット曲の中でも格別な存在である。

参照:(※)織田哲郎ロングインタビュー(織田哲郎Project2007)
http://www.aspect.co.jp/oda2007/interview/13.html

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