嗔憎の心と外化という防衛機制 何に怒っているのか

これが外化で。

 「瞋憎」は「瞋恚」ともいわれます。怒り憎む心です。怒りや憎しみは、自分の思い通りにならない時に起こります。私どもは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。時には、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。

"親鸞の「いのちの歌」正信偈入門 (真宗文庫)"(古田和弘 著)から

これが嗔憎の心。

『理解の及ばないこととスプリッティングについて』という記事ですでにヒントが引用記事で出てたのを、自分が気付いていなかったのですが。人はこのように思い通りにならないときに怒ります。そのときに、思い通りにならない理由を、外化によって自分の外に求めだします。

これが、最近自分の言っていた、主権という言葉の正体だったんだなと思います。外化を起こしてしまうと、責任を外に求めてしまいます。ですがそれは選択の能力を無力化してしまうことに繋がるのです。この自身の無力化というのが、あらゆる観点から利益が少なくなる問題行動だと言われています。

自身の無力化がなぜ問題行動なのかというと、能力の放棄、能力の放棄による自身の有効力の減少、それに伴う社会性の減少、それによる孤独感孤立など。あらゆる問題が起きてしまいます。それは社会的にだけでなく、外化している当人にとっても悪影響のある問題なのです。

外化とは、自分の外のせいにすることです。ですが外のせいにしていると自身で気づいて、その防衛機制を解き(外のせいにするのをやめようと自分で決め)、そうなったときに初めて。自分がこういう理由で出来なかったんだ。こういう理由で怒ってたんだ。そういう、怒りを起こさなきゃ自分を通せなくなっていたほどの、自分の中の葛藤に気づくのです。葛藤を破壊するために、人は怒っていたのです。

ですが、葛藤の解消に、怒りというのは逆効果というか、問題の解消にはなっていません。怒りというのは防衛機制的には、抑圧に当たり。抑圧の抑えが爆発したために、怒っていたのです。

抑圧の場合は蓋が外れた時に抑えが爆発してしまう可能性があるので、慎重になるべきですが。葛藤の解消は、どちらも変わりません。心が穏やかなときに防衛機制に気づき、防衛機制を解いてみる。すると、葛藤と再度向き合う機会が立ち現れることになります。

「その葛藤との向き合いには、自我の強度が求められます。」

半端な自我では、最初に書いたときの自分のように、スプリッティング(これも防衛機制)など、防衛機制を起こしてしまいます。なので、このように智慧や穏やかさを身につけて、防衛機制を包み込めるような余裕を身につけることが求められます。そうすることで、初めて防衛機制と、葛藤と向き合えるのです。

自分はトンデモ外化野郎で、自分の心Bを作り出してはやる気のないのをそいつのせいにしてた。こういうのが外化の例で、それは実際の人だとしても同じです。

もう、ホントの自分と向き合わんとね。

今まで自分の代わりに責任を負っていた自分の心Bに、感謝を。もう取り入れ同一化やスプリッティング、投影や抑圧に知性化はせん。…多分。

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