女の腕と男と男 ガードレールと黒い海


"ねえ。爪やって"

あの女がそういうのは大抵深夜過ぎた頃で、寝ようと思ってたオレは仕方なくゴミを掻き分けて棚からヤスリを探し出す。
女は台所のテーブルの向かい側から、片方しかない腕を白くて長い頸の鳥みたいに突き出して、細い指先を翼のかたちに広げる。
オレはその手を取って、陶器みたいな冷たい指先を親指から順番に、薄い爪の白いところを丁寧に削り落として指先の曲線にぴったりと沿う楕円形に形を整えていく。
親指が終わったら人差し指。人差し指の次は中指。女は真っ黒な瞳で自分の手をずっと不思議そうに見つめている。
薬指の爪を削るとき、女は必ず同じことを口にする。
"指輪、右手の薬指に嵌めるのはヘン?"
ヘンじゃないと思う。オレはそう答える。
"でも、右手の指に嵌めたら結婚指輪だと他の人にはわからないじゃない?"
そうかもしれない。でもしたければすればいいと思う。オレはそう答える。
女は頷く。二百回は繰り返したやりとりだが、結局あの女が生きてるうちに右手の薬指に指輪を嵌めることは無かった。
一番小さな小指の爪を削り終わる頃には、死体みたいに冷たかった手は少しぬるくなっている。オレは白い粉の散った広告用紙を丸めてゴミ袋に投げ捨てる。
もう寝たほうがいいと思う。そう言い置いてオレはフスマを開けて先に布団に潜り込む。女はまだ台所の蛍光灯の下で自分の手を眺めている。
目蓋を閉じても、女の真っ黒な瞳が桜色の爪を見つめている光景をうまく消すことができない。青白い光に透けた前髪の間から覗く重たい睫毛。細い鼻筋。血が滲んだようなくちびるから流れる曲線が折れそうな頸に繋がる。
その横顔をやっと忘れられそうになった頃に、女が布団に潜り込んできて、後ろから首に絡み付く腕の冷たさに目が覚めてしまう。腕がぬるくなるまでオレはまた横顔を消さなければいけない。
女は時々、そうやって後ろから回した手でオレの首を絞めた。細い五本の指先が喉に食い込んでオレは咳き込むけどそれだけだ。短くした爪ではろくな掻き傷も遺せない。人を絞め殺すには腕の数も覚悟も足りない女だった。

「人生やり直したいと思うか?」
高校を中退して少し経った頃、友達にそう言われた。 質問ではなく、おまえの人生は間違いだらけで実に下手くそだなという意味の感想だった。夜の冷たく澄んだ空気の中で、二人の吐く息と煙だけが白く濁って湿ってぬるい。
やり直したところで別の間違いが増えるだけだろうし、そもそも生まれてきたことからが間違いだと思うが、それはオレの責任ではない。
「生まれ直したら、腕が二本あるうちにちゃんと絞め殺してもらう」
オレを生んだ責任はあの女がそうやって取るべきだった。
あいつはまずオレが返事をしたことに対して少しだけ意外そうな顔をしてから、ゆっくりと真顔になった。
「おまえ、気持ち悪いな」
全くその通りだと思いながら、オレは腕を大きく後ろに振って母親の遺灰を崖下に投げ捨てた。
白い陶器は暗い波の下に消えていったが、結局オレにはあの女の横顔をうまく消すことができなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?