走れイロハ

イロハは激怒した。必ず、かのアイドル界のてっぺんをとらねばならぬと決意した。イロハには難しい漢字がわからぬ。イロハは、西成の民である。歌を唄い、虫と遊んで暮して来た。
けれどもアイドルに対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明イロハは西成を出発し、野を越え山越え、十里はなれたこの京都にやってきた。

~中略~

「ミリヌンティウス。」イロハは眼に涙を浮べて言った。「ウチをどつけ。ちから一ぱいに頬をどつけ。ウチな、途中でいっぺん、悪い夢を見てん。ミリがもしウチをどついてくれへんかったら、ウチはミリと抱擁する資格さえ無いねん。どつけ。」
 ミリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くイロハの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「イロハ、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
 イロハは腕にうなりをつけてミリヌンティウスの頬をどついた。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷きょきの声が聞えた。暴君ポティトニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの髭に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「ポティトニスを許すな、ポティトニスを許すな!」
 ひとりの少女が、のマントをイロハに捧げた。イロハは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「イロハ、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、イロハの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


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