2021/3/7(→2021/3/11へ向けて)
回想録:思い出すために/忘れないために/これからのために
2011/3/11に起こったこと、それについて社会がどう動いたかについてはあまり当時のことを覚えていない。青森県の田舎の高校生で、小さな社会しか知らなかったので、周りに見えるものが世界のすべてだった。それ以外知らなかった。あれから10年、何が起こったのか、何と向き合うべきなのか、後追いで少しずつ知れたものの、まだ考えなければならないことはたくさんあると思う。当然、調べれば調べるほどその量は増えて簡単にはまとめられない。せめて、この節目にこれまでの自分史として整理しておきたいと思った。私は当事者ではない。でも、少しでも深く当事者でありたい。
2011年3月 高校1年生
2011年3月11日14時46分、教室が揺れた。なんの授業かも覚えていないが、机の下に隠れて揺れが収まるのを待った。これだけの揺れを感じたことがないな、と思いながら深刻な気持ちもなく机が近いクラスメイトと少しおしゃべりをした気がする(クラス替えが控えていて、新しいクラスメイトと教室にいたので、元のクラスメイトのいる教室に戻って安心したような気がするが、前後関係は分からない。今度覚えてる同級生がいたらその時の話を教えてほしい)。学校から早めに帰っただろうか、家の近い友人とまだ雪の残る道路を歩きながら、信号が消えているのを見てようやく非日常を感じた。家につき、母が帰ってきて安心する。電気は止まっていたが、ガスがついているうちに、と母は大量に湯をわかして保温ポットに入れ、乾麺をたくさんゆでた。晩御飯はろうそくの火を前に味気ないうどんだった気がする。夜は母がなるべく一緒にいた方がいいと言ったのでリビングで寝た。寒いしソファは固いしよく眠れなかったが、夜中にまた揺れて目覚め怖くなった。
次の日の朝は母と買い出しに行った。父は県職員だったので仕事に出ていたと思う。信号は相変わらずついていないがホームセンターまで問題なく来るまで行けた。ぽつぽつ人がいて、売り場がからっぽということもなかったような気がする。家に戻って昼過ぎに急に電気が戻り、ああもう大丈夫だと安心した。それ以降は覚えていないので、割と生活は問題なく進み、高校にも普段通り通学したのではないかと思う。
自宅でテレビを見ていた人たちの共通の記憶としては、テレビで一日中福島第一原発のニュース、ACのポポポポ~ンのCMが一日中流れていたということがあるんではなかろうか。私は当時モバゲーくらいしか社会に開けたツールを知らなかったが、デマやチェーンメール、「不謹慎」「偽善者」という言葉が大量に流れ、なんてくだらないんだと怒りを覚えながらも向き合い方がわからなかったことをよく覚えている。あとチェーンメールも実際に回ってきた気がする。
震災6年「あの時検索された言葉」 天罰・ACのCM…
他にその頃のことで覚えているのは、八戸に住み、岩手が故郷の祖母から電話があり、兄弟がみんな流されてしまったという言葉を聞いて、どういう反応をしていいかわからず、そうなの、とだけ言ったこと。
2011年7月 高校2年生
大学受験に向けた自分の人生のことばかり考えていたと思う。青森の高校だったのでそこそこ優秀な生徒が目指すのは北海道大学か東北大学で、それ以外の進学をするにしても東北内の人が多かったので、高校が主催するキャンパスツアーで東北大学に行ったと思う。ガラケーの写真を引っ張り出してそれらしい写真が残っていたのだが、2011年7月とのこと。東北大学のキャンパス内は目立って何があった記憶もないが、節電のためにエアコンが全くついておらず、エレベーターも乗らずに汗だくで大きな敷地をうろついたことだけはっきり覚えている。もっとちゃんと見ればよかった。
本当に記憶がない、恥ずかしい…
たぶんこの12月に修学旅行で関西と沖縄に行ったはずなのだけど、そこでも特に3.11にまつわる記憶はない。
2012年10月 高校3年生
10/27、自己推薦入試の一次試験と二次試験のちょうど間くらいだったと思う。青森県立美術館に行った。
母が奈良美智を好きで馴染みはあったし、母の影響で絵を見るのも好んでいたので芸術に触れることは日常的だったのだけど、この日は初めてアートによって自分自身の価値観を揺るがされた日だった。作品の前で涙が出てしまったのもこの日が初めてだった。はっきり言語化できる理由は覚えていないけど、今生きている誰かの悲しみの存在を目の前に感じたような記憶がある。
大学3年に横浜美術館に行ったときこのポスターにも使われている<春少女>と再会した。今調べて知ったけれどもともとは横浜美術館からの巡回展で、春少女は横浜美術館所蔵らしい。
きらきらと光る目は、泣いているようにも見えるけれど、あらゆることに耐えているようでもあり、優しく、強い。しばらく作品を作れなかったという奈良美智が震災後に作った作品群のこうした静かな訴えが、アートとは確かに何か強いものを持っていると確信するきっかけだったと思う。
以下は改めて調べる中で知った奈良美智のインタビューで、とても今の気持ちにフィットするなと思ったので一部引用。
悲しみを共有することについては、東日本大震災のときも、同じことを思いました。被災地の人は優しい人が多くて、自分の身内が亡くなっていても「もっとひどい状況の人がいるから...」という言葉が出てくる。
それは「自分はマシな状況だ」という気持ちじゃないと思うんです。誰かに寄り添う気持ちがあるから、出てくる言葉。難民キャンプや被災地に行ったら「自分にはこの人たちに寄り添う資格があるんだろうか」と思ってしまう。でも、寄り添う資格は、あるとしたら、誰にでもあるんです。
東日本大震災を通じて神戸の人たちが東北を思ったり、東北の人たちが熊本の地震被災者を思ったり。経験を通じて、相手の身になれる。地震でなくても、何か少しでも自分の中にある経験を通じて、人に寄り添うことができる。
BuzzFeedNews 災害と死と分断の時代に、絶望する以外に私たちにできること
奈良美智関連記事:
・奈良美智インタビュー「君や 僕に ちょっと似ている」
・奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている 横浜美術館 | 神奈川県
・現代美術作家の奈良美智氏、AFPインタビュー
少し話はそれるが、青森県立美術館にはあおもり犬というマスコットキャラクターの大きなオブジェがある。この年には展覧会の関連PJとしてあおもり犬は帽子をかぶった。とっても愛されている。私もこの犬が大好きだ。冬には頭の上に積もった雪でも帽子をかぶっているようになるので、富士山の冠雪以上に毎年青森県民に季節を感じさせる。もしこの犬がいなくなったらほかのどの作品がなくなるよりきっと個人的に悲しいなと思った。
2013年6月 大学1年生
忘れていたのだけど、これを書きながら思い出した。私はあまりドラマを見ないのだけど、ひとり暮らしを始めた寂しさがあったのか、単にガッキーを好きだったからか、「空飛ぶ広報室」を見ていた。報道者である稲葉と航空自衛隊の広報官空井のラブコメとして楽しんでいたけれど、最終回間際、急に地面が揺れ、時が進み、震災を経た場面が描かれた。ドラマ中で宮城県東松島市の「小野駅前応急仮設住宅」で作られたソックモンキー「おのくん」を知り注文したのは、今思うと人生で初めて被災地への支援を行動にあらわした瞬間だったかもしれない。
そして、人生で初めて本格的にはまったドラマの脚本家である野木亜紀子先生にはその後、逃げ恥やアンナチュラル、MIUでもお世話になった。名前を覚えていてかつ信頼している脚本家はこの人だけだ。
2015年3月 大学2年生
いきなり日付がとぶ。なぜとぶかというと、今でははっきりわかるが、無意識のうちに私が震災に向き合うことを恐れたからである。青森県は東北のひとつで、日常的にほかの被災した東北の地に関してはニュースで情報が入ってきたけど、「がんばれ東北」と言われている時に私は被災者ではなかったし、なんの悲しみも負っておらず、被災者のために何もできていないことに後ろめたさがあった。大学入学後には、2個上の先輩の入学式は震災で行われず、入学時期も遅かったという話を聞いて、普通に学校に通っていた私より東京にいた人たちの方が影響があったんだということも知らなかったのがショックだった。
とはいえ大学生になって上京し、徐々に青森県以外の世界を知り、色々なことについて考え、発言できるようになっていった。そして、震災にも向き合おう/向き合うべきだと思えるようになっていた。きっかけとして今でもよく思い返すのが大学2年の春に読んだ大橋洋一『新文学入門』の以下の一文。
もし他者からのメッセージが心地よいものであるならば、それは、わたしが自己の他我にすぎないような、見せかけの他者に語りかけたこと、あるいはわたしが自分の欲望を他者に押しつけたことの結果であり、結局それは、わたしが真の他者に語りかけるのを恐れた結果ということになります。したがって、わたしたちにとって、いかにも不愉快で、私たちの心をなごませてくれないような話題こそ、わたしたちが、自分の分身あるいは他我ではない真の他者に語りかけることができた証拠といえるのです。わたしたちにとって不愉快な忌まわしい話題こそ、わしたちが真の他者に触れている証拠なのです。文学研究において、不愉快な話題とは何か。それを考えることで、文学研究の望ましい未来が見えてきます―
私は障害者についてや、性的な話、女性差別や政治の話などを自分が関わるべきでない、不愉快な話題と感じていたのだけど(今思うとおかしい)、これを読んで、ああ、私が触れるべきは、むしろその不愉快さだったんだな、と目から鱗が落ちた。それ以降、先に挙げた問題については積極的に情報を得て言語化するようになっていった。(最終的にはフェミニズムを実践したくて卒論で『古事記』の女性器表現について書くくらいには影響を受けた。)
そうした経緯があり、同じく向き合えていなかった震災についてももっと知りたいと思ったのが2015年、震災から4年となる3月だった。向き合う方法としては、NHKをよく見ていたので、NHKの特集をまず見てみようと思ったのだが、今でも覚えている番組があったので検索して何とか探し出した。以下。
NHKスペシャル “あの日の映像”と生きる
写真や映像を通していまも葛藤を続ける人たちの特集だった。この番組を見て、私の中の記録というものの見方がずいぶん変わったと記憶している。かなりショッキングな映像があったが、中でも、歩くのが困難な高齢の母が、津波に飲み込まれようとする直前の映像が残っていることを知った方が、何度もその映像を見返しているというものが印象的で、未熟な私は、悲しみは忘れるしかないと思っていたのだけど、忘れられない、そして忘れたくない悲しみがこの世の中には存在し、その悲しみを胸に抱いたまま生きていく人がいるのだと分かった。(もちろん頭では知っていたが、感情の深いところでは知らなかった)
だから、震災は終わらないし、悲しみから逃げるだけでは駄目で、向き合いながら一生を過ごすしかないのだという途方もなさを実感した。
特集ドラマ「LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと」
あまり中身は覚えていないので今見ると眉をひそめる内容だった可能性もあるが、このドラマで気づいたのは、震災に傷ついているのは東北の人だけではない、すなわち、1995年の阪神淡路大震災の傷跡も近畿の人に根深く残っているのだということだった。
福島から避難してきた主人公が神戸復興を願って作られた「しあわせ運べるように」を歌うことに違和感を覚えるところから歌を歌い生きていくことが主題となるのだけれど、この歌を歌う神戸の人も明るい気持ちだけではないということが触れらた。これをきっかけに、神戸は他地方の震災時も素早く災害支援を行っているということも知り、胸を打たれた。
知らなかったのだけど、そのあと映画化もしていたらしい、機会があれば見てみよう。→石井杏奈、渡辺大知らが被災地から得た思い伝える「LIVE!LOVE!SING!」舞台挨拶
この時期以降は、日常の中で被災地のことを考える機会が増えた。また、考えられる機会を自分でも作るようになった。
2015年8月 大学3年生
帰省のついでに、仙台にいる親友のところに寄り、仙台観光することになった。その中で、被災地バスツアーに参加した。震災から4年以上経っているので、今更とは思いつつ、せめて今できることをと思ってのことだった。ツアー当時のことを何も記録しておらず、スマホなども変わってしまったのでツアーの行先など細かいことは残念ながらいくら調べても出てこなかった。(いたましいと思うときには当然写真も撮れなかった)私め…。確か仙台市からバスで石巻と女川へ行ったと思う。
遅いと思ったけれど、当然ながら被害の跡はあちこちに感じられて、復興はまだまだ進んでいないことが分かった。
大川小学校の近くを通り、本当に何もないなと思った記憶がある。
当時周りの住人が登って避難したという神社の階段は、ある高さのところから色が違った。高いところが苦手な私はその階段をかなり恐怖を抱いて登ったのだけど、当時もっと怖い思いをしながらこの急な階段をなんとか目指した人たちがいたんだなと思った。
中でも印象深かったのが女川町の再建した水産加工施設だ。
津波の力を受け流す水産施設、女川町に完成
被災した地域の防災対策をどのように進めるかというのは、政府の予算配分や方針への批判とともに何となく知っている程度だったが、この施設はなんと、津波が来て壊される前提で作っている。壁が簡単にはがれるように設計することで、津波から加わる力を最小限に抑えるという。その時にガイドさんが話していた、この場所でまた生きていくと決めている、という言葉を覚えている。避難して別の場所に住んだり、強い建物を作ったりするだけでなく、また壊れてしまう覚悟を持って同じ場所に住み続けるというのが衝撃だった。
なお、女川町は海を見えなくするほどの巨大な防潮堤の建設も拒否した。それぞれの町の復興のあり方を考える必要があると気づかされる。
東日本大震災から6年 巨大防潮堤を「選んだ町」と「拒んだ町」、それぞれの今
noteの記事でも女川町を追ったものを偶然見つけたので、記載しておく。
「防潮堤を選ばなかった町できいたお話」【1】
2018年3月 会社員1年目
今も3月が近づくとよく聴く。2016年の曲だけど、このちょっと前くらいに友達に教えてもらって聴き始めたと思う。
3.11で飼い猫を助けるために亡くなられた「海・猫・日記」のブロガーから着想を得ているとのこと。(ご紹介していいものかわからないのでリンクは貼らないけれど検索すれば出てきます、読むと色々な気持ちになりました)
どういう偶然で出会って どういう風に安心したっけ
運命ではないにしろ 不思議だよ
どれほど愛し合って どれほどピースしたっけ
あの海の向こう あの空の向こう
どの写真も どの写真も どの写真も どの写真も
ピースをしている写真を見返すことで、形の残らない思い出が風化してきていることを感じる寂しい歌詞で、震災に限らず、大切な人とその思い出について何度でも泣けるとてもいい曲だと思う。私にとって震災を思い返すときには欠かせない曲。写真に撮って思い出を残すことの意味をよく考えるようになった。いつ見たのか、出典を探し出せなかったのだけど、被災地で写真屋さんが泥にまみれた家族アルバムを復元するボランティアを行い、何もかも失った人に泣いて感謝されていたというニュースを思い出す。災害の時は家族アルバムを持って避難するという話も聞いたことがあるが、思い出が人の人生ならば、写真は時に人生ほどに価値のあるものということなんだろう。
2018年11月 会社員2年目
2015年以降は日々震災について情報を得ていたので取り上げるほどの細かいことはもう覚えていないが、被災とアートという観点では森美術館の「カタストロフと美術のちから展」が自分の人生の中でもよく覚えている素晴らしい展覧会だったなと思う。
東日本大震災やアメリカ同時多発テロ、リーマンショックなど世界各地で絶えず発生するカタストロフ(大惨事)。多くのアーティストがこのような悲劇的な災禍を主題に、惨事を世に知らしめ、後世に語り継ごうと作品を制作しています。その私的な視点による記録は、マスメディアの客観性を重んじる記録とは異なり、多勢の世論の影に隠れて見えにくくなったもう1つの事実を私たちに提示します。そこにはまた、社会の矛盾や隠蔽された問題の可視化を意図するものや、個人的な喪失や悼みを表現するものもあります。
カタストロフは私たちを絶望に追い込みますが、そこから再起しようとする力は想像力を刺激し、創造の契機となることもまた、事実なのではないでしょうか。東日本大震災以降、国内外の数多くのアーティストが復興・再生への願いを込めて理想や希望を描き、より良い社会のために新しいヴィジョンを提示しようと試みています。
戦争やテロ、難民問題や環境破壊など、危機的な問題が山積する今日において、美術が社会を襲う大惨事や個人的な悲劇とどのように向き合い、私たちが再生を遂げるためにどのような役割を果たすことができるのか。本展は、負を正に転ずる力学としての「美術のちから」について注目し、その可能性を問いかけます。
六本木ヒルズ・森美術館15周年記念展 カタストロフと美術のちから展
このあたりからはTwitterを人生のアーカイブにしようという使い方をし始めていたようでえらい、ちゃんと言及が見つかって思い出せた。
(このツイートの一か月後に作家ご本人からリプライをいただいていたことに先ほど気づいて恐縮した。今さらいいねを一応しておいた、失敗…!)
震災関連の作品捕捉URL:
・「カタストロフと美術のちから展」作品紹介#3 平川恒太《ブラックカラータイマー》
・感光材で放射線を可視化。「痕 – 写真感光材による放射能汚染の記録」が面白い
・ARTS for HOPE Happy Doll Project
また、この年からふるさと納税をするようになったのだけど、必ず被災地を入れるように自分の中でルールを決めた。何もできないけど、これをきっかけに直近で被災した地のことを少しでも知れるようにという思いだ。
2021年2月13日 会社員4年目
「2・13地震」が思い出させた東日本大震災の悪夢、眠れぬ日々が続く住民の悲痛な声
この日の午後11時8分頃、大きな揺れで目覚めた。夜中に揺れることはよくあったので、これなら平気か、とまたすぐ眠ることが多かったけど、この日は珍しく早めに入眠してぐっすりだったにも関わらず、目覚めて一瞬でこれはやばい!と飛び起きて電気もつけず一番やばそうな本棚(つっかえはしてある)を手で押さえた。
揺れが収まって茫然としながらベッドに座り、そうだ、津波!東北!原発!と思ってテレビをつけ、とりあえず心配なさそうだというのを確認した。東日本の広範囲に及ぶ震度情報が画面を次々に流れ、青森まで揺れたことを知って両親にLINEすると無事が確認できた。この時点で10分ほど経っていた。一通り安全確認が済んだ途端になんだか涙がずっと出て止まらなくなった。寝起きでびっくりしたところに不安な気持ちになったのかもしれない、本当によくわからないがずっと泣いてしまった。防災用品の準備や災害時の避難先確認は日ごろしていたものの、心の準備はまったくできていなかったんだなと痛感した。Twitterを見ると私はそのあと30分泣いていたらしい。
この時に、この日のこと、そしてこの10年のことは、ちゃんと覚えていたいなと思って、noteを書こうと決めた。10年前の私と違って、今はTwitterで人のために働くたくさんの人をフォローしている、その人たちが直後から情報発信をし、他の人たちを安心させようと努力していることにとても救われた。一部だけでも紹介したい。
※ちなみに首相は首相官邸に住んでいないそうで、公式アカウントからの発信も結局翌日10時過ぎが最初でした。なんなの?やる気ないだろ。
そのほか、これに関連していいねをしていたツイート。
このあと日付が変わって落ち着いて寝られるまでは、粛々とデマツイートの通報をして、かまみくを聞いた。寝られたのは午前3時くらいだった。次の日色々する予定だったのに昼過ぎまで寝てしまった。
この日、もし本当に何か起こっていたなら、何かできただろうか。とにかく、何もできなかった可能性のことを考え、災害後の行動についてもっと調べなきゃならないと思った。
2021年3月7日 今日
あの大きな震災から10年が経つことについて、改めて、復興支援や、防災対策、原発問題、ボランティアや被災時の対応など気にしていかなければならないことはたくさんあると思う。少なくとも、いつかまたその時は来る、その時に自分がどのような状態になるかはわからないが、もし無事であれば、できることをやれるよう、もっとその時の先のことまで考えておきたいと思う。
例えば、Yahoo!のサイトでは、こういうものがあった。参考にしたい。
必要とされる支援とタイミング
被災者の支援には、マンパワーを提供する「人的支援」、物資を提供する「物的支援」、お金を支援する「金銭的支援」などがあるが、前提として「心の支援」がなくてはならない。被災地において、その時々でどんな支援が必要とされているのか。被災者の心情に寄り添い、ニーズとタイミングを把握することが、的確な支援活動につながる。
災害直後
救命・救助、避難支援、情報提供
災害1日後
水や食事の提供、トイレの確保、生活物資の提供
災害2日後
着替えの提供、健康のケア、温かな日常の食事
~1週間
自宅の片付け支援、当面の買い物支援、亡くなった遺族の手続き
~1か月
生活再建の手続き、応急復旧の支援、法的課題への相談
~2か月
話し相手、仮設住宅の見回り、職場や学校の相談
2か月以降~
コミュニティ再生の支援、イベントなど文化活動、地域活性化の支援
あと、どうしても日付や場所を思い出せなかったのだけど、この数年内に一般の方から集めた震災時の写真と声を集めた小さな展示を見たのだけど、その中にある「避難先で男性に付け狙われ、仮設住宅でも怖くて男友達の靴をもらって玄関先に置いていた」というのも忘れられない。避難時にはそうした女性への配慮も必要だ。ナプキンの支援がいきわたらないという話もある。スフィア基準についても日ごろ身近な自治体の避難対策を確認しておきたい。
避難所の女性トイレは男性の3倍必要~命を守る「スフィア基準」
15時ころからPCを立ち上げて色々調べながら書いていたら、あっという間に24時半になっていた。すごく時間がかかった。そもそもガラケーの写真で何か当時の心境を思い出せないか見ている段階で、亡くなった祖父の写真を見つけて家族LINEに送ったりもしていたので、一つの思い出す作業にはほかのさまざまな記憶がついてくるなと当たり前のことを思った。
ここに記載したことのほかに当たり前になりすぎて忘れてしまったターニングポイントもあると思うが、かなり自分の心を整理できた気はする。思い出すことがこれから自分が行動する上で同じ後悔をしなくていいようになればよい。少なくとも原発にはこれからも反対していくし、被災地の復興は気にかけていく。それに加えて、自分の自治体のことをもっと知らなければなと思う。忘れない、だけでなく、変えていくという気持ちで。
身の周りで顔を知っている人は被災せず、命を落とした人もいない。けれど、3/11には亡くなった方、まだ家族と再会できていない行方不明者の方、そして被災されたすべての人たちを思いながら過ごせればと思う。
長かった。終わり。読んでくれた方ありがとうございます。
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