備忘:集団的ナルシシズム

いま思うところ、知った言葉の覚書。

もうどうしようもないという気持ちになる。でもあまり考えないようにしている。どうしようもないということと、どうにもしないということは分けて考えなければならない。

言いつくすこともできないほどたくさんの問題を抱えているのに、それを解決するつもりもない人たちが楽しそうに(あえて大きい声で)笑っている。苦しみながらなんとか声をあげた人の叫びが笑い声のノイズだと邪険にされ、かき消される。それをなにもできずに見ている。虚しい。

女性差別の話題が出ると、自分が非難されている気持ちになるという男性がいる。私も男性なら居心地悪さを感じるだろう。個のメンタルケアと集団の暴力性の問題は切り離せないけれど切り分けるべきなので、生まれ持ってしまった属性については向き合っていくしかないだろうとも思う。

いまオリンピックをやっていることについて批判が出ると、自分を責められていると思う人が開催したからには楽しもうと擁護しているらしい。批判と支持は同時に行うことができることを知らない人が多いのかもしれない。ARMYがWar of Hormoneの女性蔑視的な歌詞を批判したことで、BTSは女性差別を認め謝罪し専門家のチェックを受けるようになった。こうした信頼関係をこの国ではもうずっと見ていないなと思う。

上記について、最近、心理学に「集団的ナルシシズム」という言葉で表現できるらしい(ネットで調べてもあまりヒットしなかったので断章取義になる)ことを知った。

検索して出てきたものでは、以下の記事が面白かった。

日本人のこころの課題を乗り越えるために重要なのは、①の水準の「全体との一体感」の中から、いかにして責任主体たりえる自我の力をこころに持った「個人」を立ち上げるのか、ということである。この水準を果たしていないこころは、自らの問題を指摘された時にそれを受け止めること(象徴的に去勢されること)を拒否し、自分のことを否定しないで心地よい感情で満たしてくれる仲間を周囲に集めることで、その問題を否定し忘却することで対応する。ここで維持される万能感とそれによる現実の否認は、「日本的ナルシシズム」と呼ぶのがふさわしい。このような防衛機制ばかりに頼る傾向があったのだとしたら、かつて日本が勝ち目のない戦争にのめり込んでいったことも容易に理解できる。

各国の教育制度を比較する際に、日本は欧米に比べて自分の意見を発表する教育を受けない(ゆとりとは…)というのを目にするが、そういう部分とも繋がる話なんだろうかと想像する。最近よくムカついていたことに対しての言葉が見つかって腑に落ちた気がした。

この記事を書いた方は原発問題とメンタルヘルスについて精神科医として現場で向き合い続けている方らしく、あの日から10年ということで書かれた以下の記事も良かった。

希望の持てない時代を生きてきた若者のひとりとして、私たちが何もかも「しかたない」ということでしか自分を守れないのはよくわかる。でももう、しかたないなんて言ってほしくない。自分の意見を持って表明する権利をだれでも持っている。何も変えられなかったとしても、いまあなたが話した言葉のおかげできっと救われる人もいる。どうかあなたの言葉を話してほしい。思えばずっと、「それぞれが自分の意見を表明する」ことは私にとって理想的なあり方の一つだったのかもしれない。そういえば、どうしようもない苦しい気持ちになったときはいつも呪文のように、祈りのようにつぶやいていた。

悲しみや怒りを心の奥底に秘めたまま、誰にも打ち明けることも受け止めてもらうこともなく、必死に働いてきたという人が少なくないと感じています。私も、精神科医としての自分の仕事を続けていこうと考えています。

先ほどの記事からの引用、一つの言葉で何かが大きく変わる奇跡を待つには現実への無力感があまりに大きい。でも言葉が集まり、時間と共に蓄積し、少しずつ変わる未来を夢見ることができる程度には、頑張っている人の姿も見ている。

このnoteを書き始めた時ほどに、今は苦しみを感じない。今日も言葉に救われている。



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