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はじめまして

幼少期のわたしは母の後ろに隠れるほどのシャイガールだった。学年が上がるにつれ、人に笑ってもらえるのが嬉しくて、気づけば「ちはるちゃん面白い!」と言われるキャラになっていた。中学もこのまま楽しく行けると思ったが、友達を作ることができず全くもって楽しくない学生生活を過ごした。高校でもなんやかんやあって結局良い思い出がない。

高校3年生の時、学校から推薦をもらって地元企業へ面接に行った。しかし、当時雑誌の編集者になりたかったわたしは、このまま地元企業に就職するのが怖くなった。この会社の面接が珍しく、面接のあと作文の提出があった。面接はしっかりと練習通りに受け答えをし、作文には「どうしてもやりたいことがあるのでこちらに勤めることはできない。大変申し訳ない。もし可能であれば後輩たちが就職できるよう来年もよろしくお願いいたします。」的なことを書いた。数日後、担任に呼び出しを食らいめっちゃ静かに怒られた。それがまためちゃくちゃ怖かった。

雑誌の編集者になりたい夢はどこにいったのか無事フリーターとなったわたしはカフェのアルバイトを始めた。バイト先には大学生や主婦の方が多く、社会人最高!!と毎日楽しく生きていた。

アルバイト先にいた大学生2名がそれぞれカナダとニュージーランドへの留学経験者で、ともにとても最高だったと話していた。中高6年間授業で英語を話すことに抵抗しかなかったが、父親の影響で洋楽と洋画が大好きだった。今まで考えたことのなかった”留学”。これはありかもしれない。よし、行こう。

行き先をオーストラリアに決め、アルバイトを掛け持ちし、語学学校に申し込み、ビザ申請。そしてすべての準備が整った時点で両親に告げた。『え?』と驚いてはいたがわかったーと、あっさりしたもんだった。

20歳の春わたしはワーキングホリデービザでオーストラリアへと旅立った。シンガポール経由でほぼ1日かけてオーストラリアのサンシャインコーストに降り立った。トランジットが6時間ほどあり、シンガポール空港の端から端を行ったり来たりしたなぁ。語学学校の寮からのお迎えバスが見つからず、電子辞書片手に空港内をウロウロして初日から泣きそうになったり。その後無事寮に着き部屋に入った途端、急に不安に襲われホームシックになった。

しかし次の日語学学校に通う道中、芝生に寝転ぶカンガルーを見て「わたし今オーストラリアにいる!」と嬉しくなりその後ホームシックになることは一瞬もなかった。帰国する際も、オーストラリアが大好きになりすぎて帰りたくないーと泣いたほど。当時は事件が起きるたび絶望を感じていたが、今となっては全てのことが最高の思い出。

後に知ったが、家族が空港でお見送りしてくれたあと、本当に旅立つと思っていなかった両親。「やっぱりやめる!」とわたしが戻ってくると本気で思いしばらく空港で待ったいたらしい。しかし娘は全然戻ってこず、ほんまに旅立ってしまったのか…!と、その日から数日母が寝込み、父親もショックでちょっと泣いたらしい。あの父が泣いただと!とだいぶビビった。

ちなみに7年後、どうしてもオーストラリアに戻りたかったわたしは現地で日本語教師の資格が取れる学校を見つけた。その際エージェントに依頼し、すべての事務作業を代行してもらったが余計なお金がめっちゃかかり、できることは自分でやるのが一番やな、と後悔と反省をした。

その学校は現在はないのだが、生きてきた中で一番過酷な3ヶ月だった。課題がエグイほどあり、朝から晩まで勉強と課題に追われた。ゆっくり観光できたのは最初の1週間と卒業後だけ。でもまだ若かったので、学校が終わった後クラブ行ったりバー行ったりした。休みの日は買い物も行った。しんどすぎて毎日やつれていくかと思ったが、しんどいねって言いながら毎日クラスメイトとティムタム(オーストラリアのお菓子)とポテトチップスを食べていたので余裕で太った。もちろん、全員。

帰国後は日本語教師の免許を活かすこともなく、派遣社員としてさまざまな会社で働き、リゾートバイトで知り合った今の夫との間に子どもができて結婚、出産をした。念願だったお母さんに37歳でなることができた。

想像していた以上に子どもはかわいくて、生まれるまで夫ラブだったわたしは出産後ホルモンのバランスが崩れ夫への興味関心がゼロになった。産後5年経つが、まだホルモンが戻っていないのかいまだに興味関心がゼロなのは……なぜだ。

現在は最愛の息子と一緒にわたしもお母さんとして歩んでいる。「働いてほしい」と夫に言われ、嫌々仕事を探し泣く泣く保育園に預けたが、今では保育園に行ってほしいと本気で思えるほど保育園の存在に感謝している。

近い将来、目標は2年後。子ども達が笑顔で暮らせる社会、問題を抱えている小学生をゼロにすべくサービスを展開したいと考えている。これから息子が小学生になり何か問題にぶつかったり悩んだ時に話を聞ける人でありたい。誰かに相談できる子どもであってほしい。

小さいうちに人に頼ってもいい、ということを伝えたい。小学生が問題にぶつかった時に「こんなにも話を聞いてくれる大人はおるよ、選択肢もたくさんあるよ、自分で決めてええんやよ」ってことを伝えたい。

昨年、教育委員会やオルタナティブスクール、地域の学校へ訪問して活動のことを伝えたり、教育現場の今を聞いて回った。自分も子ども達と関わる仕事をしようと、現在は学童に勤めている。来年は学校現場でも働けるよう準備中。

毎日子ども達と接する中で、今の子ども達を知ることができる。ドッジボールのコートチェンジを「コーチェン」鬼ごっこを「おにご」と略すのが令和の小学生です。最初「おにご」と言われたときはさっぱりわからず立ち尽くした。略す意味ある?

少しずつ自分のことを話してくれる子どもも増え、信頼関係ができているなと実感して嬉しくなる。嬉しい反面、ウソはつけない、裏切れないと強く思うことも。子ども達は素直なので、すぐにこちらの矛盾を指摘してきます。それはそれは感心するほどに。

体力的にも毎日が闘いだが、この経験を活かし必ず子ども達の笑顔を増やす仕事を作る、と決めたので、これからもたくさんの経験を積んでいく予定。夏休みを無事に乗り越えたら冬は楽勝な気がする。

今まで自分がこれやりたい、やる。と決断したことは全部やってきた。まだまだやりたいことがある。残された時間でどこまでできるのか。どこまで行けるのか。止まってなんかいられない。スモールステップでも進み続けたら面白いことが起きてそれが後にネタとなる。これからもそんなネタ多き人生を送っていくのが楽しみだ。


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