鉄塔の町 4

朝目が覚めて台所から朝食を作る良い匂いがするだとか、洗濯機をまわす音がするだとか、父親が朝刊を読む姿だとか、私の家では十年前から見ることが無くなってしまった日常風景。

朝は一人で目覚め、一人分の洗濯をして、一人分の朝食を作り、一人で食べ、家を出る。父はとっくにこの家から姿を消しているし、母はいるがひどく歪んでしまっているので家事炊事の一切をすることが出来ない。

夕方ごろ家に帰ると、大抵母がリビングでコーヒーをすすりながら窓からみえる鉄塔の姿をじっと見つめている。電気が点いているかいないかはそのときによってまちまちで、それ以外は朝のまま何も変わっていない。たまにテレビが点いていることがあるが、特に見ている風でもないし、意味も無いのだろうと思う。母はいつもニコニコ笑っていて、伸ばしっぱなしでぼうぼうの髪の毛を一つにくくり、お気に入りらしい同じワンピースを着て(たまに脱がせて洗濯をして)、意味の無い言葉を羅列する(今日は良い天気だとかコーヒーが美味しいとか相槌で済んでしまう様な返答を求めない言葉の羅列)。たまにふらふらと何処かへ出かける事もあるらしいが、おそらくは鉄塔のところだろう。足取りはしっかりしているので放っておく。何故ネリも母も、鉄塔のことが大好きで止まないのか、私には理解し兼ねる。

母はとびきり綺麗だった。派手な装飾品は身に着けていなかったが、シンプルで清潔感のある服は彼女にぴったりと似合っていたし、年の割に肌はつるつるでくすみなんて一つもなかった。通った鼻筋、ぱっちりと大きな瞳、赤くぽってりとした小さな唇、意志の強そうな眉、一度も染めたことがない真っ黒な長い髪の毛、細い体、とにかくそんな母が私の自慢であった。料理を作らせれば抜群に美味しく、炊事洗濯は完璧にこなし、父はそんな母が自慢だと言っていた。土日はよく家族でどこかへ行き、笑い声が絶えない家庭。絵にかいたような憧れの家族図。たまにそんな、綺麗な四角い箱でいられた時のことを思い出すのだ。ただ愛おしく懐かしい、あのころの記憶。

私は鉄塔に会ったことがない。町に根を張り母を食いつぶした鉄塔は、丘の上に建っている。空を突き上げるように頭を伸ばし、交流電燈を放つ為の電線が四方に伸びている。足元には父の偶像が埋まっていて、人の腰まで伸びた背の高い草が辺りを覆っている。会ってみようと丘を登ったことはあるが、何故か怖くなり、途中で引き返してしまった。ネリは私が嫌いだから、鉄塔に会ったことが分かった日には強烈な罵倒と共に殺されてもおかしくないだろう。

十年前、まだ私達家族が綺麗な四角い箱でいられた時も、母は鉄塔の下へ足しげく通っていた。そのことを父は知っていたようだし、ぼんやりと私も分かっていた。何故母が鉄塔のもとへ通うのか、理由はわからなかったが、私たち家族はうまくやっていたので何の問題もなかったのだ。

よく見る夢がある。まだ私たちが綺麗な四角い箱でいられた時の、穏やかな時間が流れている壊れる前の我が家だった。パウンドケーキが好きな私のために、母はよくお菓子を焼いてくれた。簡単だから、と大抵は焼き菓子で、パウンドケーキや次に好きなチョコブラウニー、クッキーなんかを。夢の中で母は干し葡萄の入ったパウンドケーキを焼いている最中で、父はリビングで温かい紅茶を飲んでいた。私はホットミルクの入ったマグカップを片手に持ってベランダに立っていた。大きな窓から二人の様子をじっと見つめていた私は、すぐに「これは夢だ」と確信した。こんな暖かい場所は十年前になくしたはずだし、そもそも父は生きていないのだ。

私が窓を開けてリビングに入ると、父が顔をくしゃくしゃにして笑いながら「隣においで」とソファの横を指差した。キッチンからは母が「もうすぐで焼けるわよ。あなたの好きな干し葡萄いりだからね」と言う声が聞こえる。家の中はまるで蜂蜜のたっぷり入ったミルクみたいに、甘くてねっとりと後をひいていて、私はその甘さにくらくらしてしまいそうだった。いうとおりに父の隣に座ると、父はちらりとこちらを見て笑ってから、また視線を新聞紙に戻して嬉しそうに紅茶をすすっている。リビングの窓からは丘の上に建つ鉄塔が私達家族を見下ろしている。

「お待ち同様」

母がお盆に切り分けたケーキを載せてやってきた。目の前にケーキが置かれると、父は新聞紙を丁寧に畳んでから食べ始めた。今日はいつにもましてうまくいったわ、と母は焼き加減にうっとりしながらケーキの甘い香りをかいでいる。このままこの甘さに体を沈めていきたいという気持ちと、何か裏で恐ろしいものが糸を引いているのだ、という二つの気持ちが私の心で渦を巻き、恐々とケーキの乗る皿を手に取った。母と父の視線が私に注がれる。体がこわばり、緊張でじっとりと汗をかき始めたのがわかった。これは夢のはずなのに、いったいどういうことだ。

ケーキは絵に描いたみたいに綺麗だった。その焼き色も、柔らかそうなスポンジも、そのスポンジの中でじんわりと蜜を出す干し葡萄も、この世のものとは思えない代物だった。私は慎重に、フォークで一口分を切り取ると、ゆっくりした動作で口まで運んだ。ケーキは見た目に反し無味無臭で、口の中の水分を吸い取るだけ吸い取って胃の中に消えていった。

「どう、美味しいかしら」

「母さんのケーキは美味しいだろう」

お面みたいな笑顔が父と母の顔に張り付いていた。なんの味も香りもしないケーキを、家族三人で食べている光景が恐ろしかった。私がやっとの思いで頷くと、母は嬉しそうに「まだあるから一杯食べなさい」と言う。そこでいつも目が覚めるのだった。

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