透明海岸から鳥の島まで/書評

透明海岸から鳥の島まで  秋亜綺羅

細長の白い表紙をめくると、一編一編の詩の物語たちが凄まじい熱量と共に私の頭の中になだれ込んで来た。最後まで読み終わるってもよくわからず、しかし表紙を手繰っていた。私はいつの間にか真っ白な紙の上に立って、沢山の物語を眺めていた。そこに難しい言葉はひとつもなく、言葉と言葉とを優しく(時には力強く)結び付けていく作者の暖かな手と、それによって生み出される物語があるだけで、いつのまにかどっぷりとはまり込んでいた。

この詩集の魅力はいくつもあるが、ひとつあげるとするなら、『ない』ものを『ある』という感覚がぎゅうぎゅうに詰まっているところだろうか。

例えば、『津波』という詩の一部分ではこういう。「光のない都会で/お互いの影を合わせよう」

また、『百年生きたらわかるだろう』ではこんなことを言ったりする。「地球は必ず存在すると思うのだ」「目をつむって目をつむろう/風の中に風を呼ぼう/ここが完全な暗闇ならば/ことばではなく、ことばではなく/しぐれる夢に、夢をつないで」

そして『九十九行の嘘と一行の真実』ではこうだ。「目を閉じると暗闇が出来るでしょ/その暗闇のなかで/目のなかの目を閉じるんです」こういった言葉達が、詩集の中で沢山現れる。

まず『津波』の一節だが、光のない場所に影はできないのに、影をあわせようという。光がないならそこはもう真っ暗闇かもしれない。また、『百年生きたらわかるだろう』の一節、地球は必ず存在し私達はそこで生活をしているのに、あると思う、という言葉の前提には地球がないことになっているし、目をつむってさらに目をつむると言ったりする。最後の『九十九行の嘘と一行の真実』でも、目をつむるという同じ事を繰り返し私達に告げている。特に「目をつむって目をつむる」は、この詩篇の中で繰り返し述べられる。〈身体〉としての目をつむり、その暗闇のなかで〈心〉の目をつむるということ。

生身の人間では到底理解の出来ぬこと、しかし生身の身体ではわからないから心では解るかもしれないその感覚をしきりに作者は述べる。その感覚は詩人として、過去や未来を見つめたときに漂白されていく現代人としての感覚、ともいえるのかもしれない。だから『ない』ものに『ある』といい、『ある』ものに『ない』という。

難しい言葉はひとつもないが、言葉と言葉を繫ぐ作者からは、切実になにかを希求する手のひらと、切りひらいて追及していく眼差しが見える。だからこそこの詩集は、作者の言葉は、私達を強く惹き付ける。

最後に、あとがきに寄せられていたこの言葉をひいて終わりたい。

 結論はたぶんこういうことだ

 存在しなくなったという事実こそが

 あなたとわたしにとって実存なのだ

もうちょっと頑張れよ、とか しょうがねえ応援してやる、とか どれもこれも励みになります、がんばるぞー。