毎日がとても美しい
最近、毎日ふと、人生はとても美しいものだと感じるようになった。特段私を取り巻く環境は変わってもいないし、誰かから羨まれるようなことも起きていない。本当に不思議だ。
おいしい野菜、清潔な食べもの、お店の人が淹れてくれる一杯のコーヒー。街に出れば、たくさん人が歩いていて、可愛い洋服やカッコよい靴、シュッとしたヘアスタイルや、ダボダボのズボン。肩を落として歩く人、手を繋いで歩く人、空のベビーカーを押すお母さんと抱っこして歩くお父さん。
誰かが作った道路に、定期的に流れてくるバスや車。大きな建物、きれいになった橋。水に映るネオンとずらりと並ぶ屋台は福岡らしい夜景だ。
わたしはひとりだが、ひとりで生きていない。誰かが働き、誰かが作り、それをお金で買って生活を作っている。自分も誰かからすれば、小さな砂つぶのような接点で人と触れ合っている。
社会は砂つぶの集合で、その砂つぶがどう集まって形作られていくかで、生きやすくなったり行き詰まったり閉塞感があったりと、とても不思議だ。誰も正解を知らないからこそ、複雑になっていって、そのぶん予想もしなかった動きになっていく。
その日は頭痛内科に行って、好きなものを食べて、映画を観た。映画は「ベイビーブローカー」である。是枝監督のやつ。
日本で言う「赤ちゃんポスト」に赤ちゃんを預けて…と言う話なのだけど、私たちは「こうやって生きるべき」という価値観からはみ出ざるを得ないとき、過程に注目をする。なぜこうしなかった、こうすればよかったのに、こうあるべきだった、などである。
望まれない子が生まれるはずがないと、まっとうな世の中の人たちは子を捨てた母を非難し、父は存在がいないことになる。世の中はメリットでも、世間体のためにあるわけでもなく、ただ形を変え、人を理解し、繋がっていく。
わたしたちはわかりやすいものが好きで、誰かに説明できること、ふつうや他と比べて良いこと、誰かに説明されること、見ただけでわかるようなことで安心したがっている。
それでも誰も、今なぜ私たちが生きて、死なずにすんでいて、くだらなくてたいくつで、とても美しい日々を享受できるのか、説明してはくれない。いいわけを作る間にも世の中は紡がれていって、少しだけ自分も紡いで、また明日がくる。きれいで暑い日差しが、今年もそそぐ。
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