四谷第四小学校時代

保育園を卒園すると有無を言わさず次は小学校へ登校しなければならない。
所謂三大義務というものだ。
良く勘違いしがちだが、教育の義務とは子供に教育をさせるというもの。
つまりは親だったり養育者に対しての義務なんだ。
話は逸れたが、俺は実家から最短の富久小学校じゃ無く、四谷四小学校に通うことになる。
父親の印刷工場(こうじょうじゃ無くてこうば)の近くのヨツヨン(みんなこう言ってた)へ行くことに、保育園時代の友達と離れることになるから抵抗感は合ったが当時の俺には何も出来ない。
詳細は知らないし、今更両親に問い詰める気も無い。
なんせ、隣町の小学校へ入学した。
ヨツヨンは新宿区のど真ん中の小学校にしてはグラウンドも広かった様に思う。
坂道の途中に建っていることから、校舎からグラウンドへ降りる時はスロープを降りていく造りになっていた。
前回も書いたが、当時の内気な俺は中々友達が出来なかったが、夏休み前には何人かの友人ができ、その友人の家へ遊びに行ける様になっていた。
初めてのファミコンも友人宅だった。
「髙橋名人の冒険島」なんかはSK8乗ったらすぐに死んでたw
当時は画期的だった
「ファミリートレーナー アスレチックワールド」
今だと当たり前にあるけどファミコン時代で身体を使うゲームもあったんだ!
そんな感じで友人もでき楽しく過ごしていたが、この時期に人生初ののざせつを味わう。
そう、宿題だ…
今思い返すと、俺は次男である程度甘やかされて育っていたので、元来、誰かに何かを強制されるのが嫌いだったw
それに勉強も未だに嫌いだw
自分が興味ある事や調べ物は幾らでも出来るが、強制的な宿題が出来なかった…
当時はまだ昭和時代。
今の小学生には信じられない程ハラスメントが溢れていた時代だ。
宿題をしてこない俺は朝モッ凄い勢いで怒られた後に当然の様に放課後の居残り。
そして、給食。
俺は元々食が細く今も食べるのが遅いんだが、6歳7歳の子供なんて好き嫌いが当たり前だったでしょ?
でも…
担任は許してくれないんだよね。
食べ切る迄は遊べない、なんなら給食後の授業中でも俺の机には給食が乗ってたし、
泣きながら食べてた記憶がある。
まぁ、良くも悪くも昭和だったんだな。
いい思い出は、ヨツヨンは、運動会を春と秋にやってたんだ。
春は小運動会、秋に大運動会だったはず。
ヨツヨン地域の少年野球チーム、
四谷スワローズに兄貴が入って練習に遊びに行ったり。
俺のスワローズ好きはもしかここからなのか?
ちょっと離れた場所だけど、「君の名は」
のモデル?の須賀神社も遊びに行ってたな。
あと、衝撃的だったのは小2になってすぐ
当時のトップアイドル
岡田有希子の自殺。
ヨツヨンから目と鼻の先にあったサンミュージックが入っていた大木戸ビルからの飛び降りという事もあり小学生には格好のネタになったんだ。
曰く、彼女の歌を聞くと呪われる。等
今思い返すと1人の命を軽視していたかの様な言動が多々合ったが、そもそも小2には人の命の重さもわかっていなかったから気分を害された方がいたら許して欲しい。
そんな衝撃の小2が始まったと思ったら、まさかの転校する事になる。
小1でこの文字数になったから小2以降は次回で!


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