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母を透視リーディングしてみたら…

涙を流し、たった一人でご飯を食べてる少女がいた。

一人暮らしの母と週に数回は一緒に食事をする。そのたびに世間や社会の問題を「大人(あなた)がちゃんとしていないからだ」と責める。母は私を「言葉」で攻撃するので、「言葉」を使うセラピーを学び、母の思考パターンをかわしてきた。アサーティブ、共感的傾聴、NVC、対話的アプローチ・・・瞬間的に効果があった手法もあるが、結果的に母は変わらない。最終的な手段は縁を切ることだが、私はそれを選択したくはない。覚えてきた手法をジャグリングしながら使い、母が変わることを諦め、母の死で終わりがくるのを待つ自分がいた。幼いころのように巻き込まれることはなかったが、諦めている自分は母と一緒にご飯を食べても幸せではなかった。

そしてエナジーワークを学び始めたが、エナジーワークは言葉ではなくエナジーを読むので、母との関係性の変化は期待していなかった。自分を整えるために実践を続けていたが、ある日「ダメもとでやってみよう」と思い、私の目の前で相変わらず愚痴を言っている母に、エナジーワークのツールの一つである透視リーディングで語りかけてみた。

あなたはなにをしているの?

問いかけた瞬間、私はまっくらな部屋にとんだ。

戦争で片親になり、兄弟もいない幼い母が、一人で寂しく朝に用意されて冷めてしまった夕飯を食べている。この寂しさを誰かに聞いてもらいたいのに、そこには誰もいない。寂しいのは、私が悪い子だからじゃない!怒りを自分に向けないよう、泣くのを我慢して精一杯に空をにらむ少女が、真っ暗な部屋のなかにいた。

その透視リーディングのむこうで、82歳の母は愚痴を言いながら、ご飯を食べている。

その瞬間、わかった。母は「いま」を生きていない。今も戦争の時代を生きているのだ。心も体も戦争の時代にいる。だけれども思考では「戦争は終わって、いまは平和だ」と理解はしている。でも心身は少女のままだから、今でも空をにらみながら、自分は悪くないと叫んでいる。

思考と心身が統合できいない母の言葉は、私にむけたものではなかった。言葉の奥にある痛みは、今でも癒されず、言葉が痛みを覆い隠くし、5歳児のままで母は自分自身を必死に守っている。現実世界の母は、目の前で私を攻撃するが、彼女の魂が私に見せる光景はひたすらに悲しかった。

大切なことは目に見えない。真のリアリティは言葉を超えた向こうにある。

それから、しばらく私は母に会うたびにエナジーワークをしてみた。ご飯を食べている母の前で、母に分からないようにグラウンディング瞑想をするのだ。そしてやがて母の愚痴が少なくなっていった。私をみて話すよりも、目の前のご飯をみて、ただただ「美味しい」と頬張るだけの母がいる。母と私の「いまここ」が統合していく。

また私は透視リーディングで少女に聞いてみた。ごはん美味しい?
「うん美味しい!ひとりじゃないから!」
そうか、それならよかった。私はここにいて、ただ一緒にご飯を食べていたらいいのね?

少女は答えなかった。そのかわり、82歳の母がこたえる。
『筍が美味しい季節になるから割烹のお店にいきましょうよ』

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