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私にとってスナイデルは、

はじめまして。こんにちは。今回はただの自分語りですので、それでも良ければ…。

皆さんの中では、背番号10のサッカー選手といえば誰ですか?

バッジョ、デル・ピエロ、ロナウジーニョ、エジル、メッシ…。ファン・ロマン・リケルメの名前を挙げる方もいるかも知れません。

私にとっての背番号10は、ヴェスレイ・スナイデルです。


先日、そのスナイデルが現役を引退するとのニュースがありました。所属していたアル・ガラファとの契約を7月に終えてからは無所属でした。私の中でいつまでも20代後半から30代前半のイメージだった彼も、35歳になっていました。

突然ですが、私は彼のファンです。
3年前にTwitterでサッカー用のアカウントを作った際、ハンドルネームはスナイデルでした。日本のファッションブランド名ではありません。これでは芸がなさすぎるというので、スナイデルとインテルを混ぜた現在の名前になりました(この名前にしてから長い割に、当人はイマイチ気に入っていません)。だから何って、それくらい彼のファンだということです。

私が初めてスナイデルのことを知ったのはいつだったか、正確には覚えていません。名前だけならそれ以前から知っていたのでしょうが、関心を持ったのは2008年か2009年ごろ、学校で友達が置きっ放しにしていたワールドサッカーダイジェスト(WSD)か何かのインタビュー記事をたまたま読んだのが最初だと思います。ただ、そこですぐ虜になった訳ではありません。「なんかかっこいい選手やな」くらいの印象でした。当然プレーは見たことがなかったので、ほとんど見た目だけでしょう。

次に出会ったのは翌2010年、インテルが三冠を達成した年です。スナイデルが在籍しているチームだということは既に把握していたので、学校から帰って親がいない間や寝ている隙に(あまりパソコンで遊んでいると怒られる家だったのです)、家のパソコンでニュースを漁ったりプレー動画を見たりしていたのを覚えています。この頃はスマホなど(少なくとも自分の周りには)なく、DAZNなんてダの字もなかったし、ガラケーすら持っていなかったので、単なる中学生の分際が情報を得られるものといえば、週に何回か家のパソコンで見るネットニュースと、WSDの類の雑誌くらいしかなかったのです。だからというわけでもないですが、前年にRマドリーを少し残念な形で去ったことや、インテル加入年に即フィットし、キャリアハイの輝きを放ったことなどは、その少し後から知りました。

同年夏のW杯で、私は彼に再び出会いました。といっても当時私はバスケット部で忙しく、日本代表の試合と、プラスアルファで適当につまみ食いする、といった程度のものでした(それでも06年W杯よりは少し熱心に観ていたと思います)。生で観た中で印象に残ったのは、本田と遠藤のフリーキックと岡崎のゴール、オランダ対ウルグアイでのフォルランのロングシュート、決勝でのイニエスタのゴール、そして準々決勝でブラジル相手にスナイデルが決めたヘディングシュート。あと、絶えず聞こえるブブゼラ。マラドーナ。そんなもんです。

「グループリーグで日本とオランダが試合した時、スナイデルが点を決めてたぞ」と思う方もいると思いますが、あの試合は(記憶が正しければ)「日本は負けはしたけど大健闘だった」というものだったと思います。当時の私の意識もそちらに向かっており、スナイデルの得点より日本代表への期待感が優ったため、私の中でそこまでの印象にならなかったのだと思われます。


そして今でも毎年その季節になると話題に上る、2010年のバロンドール。彼はイニエスタ、シャビ、メッシとともに候補になりました。クラブでは3冠、代表ではW杯での準優勝&得点王(タイ)という成績を引っさげて。

しかし彼はその年のバロンドールに選ばれませんでした。最終候補3人にすら残りませんでした。数年後、リベリが同じような状況になっていました(最終候補には残っていました)が、私からすれば彼はあの時のリベリの数段上の結果を持っていったと思っています。でも届きませんでした。ただ、ここでは深入りはしません。

その次はゲームの中で出会いました。iPod touchやPSPを持つ友達が続々と現れだした頃です。彼らに貸してもらって「ウイニングイレブン」を遊ぶ時、決まって選ぶのはインテルでした。左サイドバックのスタメンをキヴ(当時は読めなかった)から長友に替えて遊ぶのもお決まりのパターンでした。

長友がインテルに加入したことの効果で、日本でもインテルの知名度は上がりました。スナイデルのことも、あの時のW杯で日本を破ったオランダ人、というのに加えて「長友の親友」ということで地上波で紹介されることが多くなりました。「ミーティング中の携帯鳴らし事件」なんかはご存知の方も多いのではないでしょうか。

その後迎えたEURO2012。私の応援チームはイタリアとオランダでした。余談ですが今まで見てきた中で一番印象に残っている試合はと聞かれたら、私はこの大会のグループCの初戦、イタリア対スペインを挙げます。残念ながらオランダは監督と選手の間に一体感がなく散々な出来でグループリーグ敗退だったため、彼自身の見せ場もあまりありませんでした。というより個人レベルでは孤軍奮闘していたもののチームの崩壊状態の方がフォーカスされ、あまり取り上げられなかったというのが実情です。

この頃には既に、私はとっくにインテルのファンになっていました。そのきっかけの一つは、間違いなくスナイデルです。
しかしEUROの前後から彼は怪我がちになり、過渡期に入って不安定になっていったチーム状況に比例するように不振に陥っていきました。そして約半年後の2013年1月、高給を巡ってクラブと対立し、半ば喧嘩別れのような形で彼はインテルを退団することが決まりました(後年インタビューで、「自分はミランのファンだった。次にイタリアでプレーすることがあればミランでプレーしたい」という趣旨のことを言っており、大変ショックだった記憶があります)。

振り返ってみれば、ここで私にとって「好きな選手が好きなクラブを去った時にどうするか問題」が大した問題にならなかったことは確かです。イタリア国内での移籍にならなかったことも大きかったでしょうが、「どっちも好きのままでええやん」という結論にあっさり落ち着いたようです。当時、お恥ずかしい話ですがトルコに大きなリーグがあることもガラタサライの存在も知らなかったので、移籍のニュースを知った翌朝、ミラニスタの友人との話のネタにするため、謎のカタカナ6文字を何度も反芻しながら学校に向かったのを覚えています。

2014年の南アフリカW杯でも、私の応援するチームは2年前のEUROの時と変わりませんでした。4年前から変わったことといえば、日本戦以外の試合もかなり熱を入れて観たことです。この頃には海外サッカー事情にだいぶ詳しくなってきており、またTwitterのごちゃごちゃした世界も知らない時だったので(笑)、割と純粋な心で一番楽しめた大会になったかもしれません。

ファン・ハール率いるオランイェは、低かった下馬評を覆して勝ち進みました。準決勝でアルゼンチンにPK戦の末敗れましたが、PK戦は引き分け扱いと考えると大会を通して5勝0敗2分、15得点4失点という成績で3位になりました。4年前とうって変わってここでは何よりチームの一体感がクローズアップされたのですが、その中心にいたのはファン・ペルシでありロッベンであり、スナイデルでした。他にも沢山あるのですが、とりわけ今でも鮮明に覚えているのは、ラウンド16の88分、敗退濃厚となっていたオランイェを救ったスナイデルのミドルシュートです。普段トルコでプレーしていてその姿をライブでなかなか観られなかったので、私は彼の一挙一動を見逃すまいと躍起になっていました。

結果的に、大きな大会で代表としてのスナイデルをまともに観たのはこれが最後になりました。あろうことかオランダ代表は、EURO2016も2018年ロシアW杯も予選敗退を喫し、出場権を獲得できなかったからです。

彼のトルコでの充実した生活は2017年に終わりました。8月にフランス・リーグ1のニース(OGC Nice)への移籍が決まりました。しかし期待された活躍ができないまま1月にカタールのアル・ガラファに移籍。今に至ります。

2017年6月、彼はオランダ代表での歴代最多キャップ数を更新します。この際、私にとって思いもよらないことが起きました。Twitterで歴代最多出場を祝うツイートを彼のアカウントIDを付けて呟いたところ、スナイデル本人からのいいねが付いたのです。彼はツイートの更新頻度も高くなく、いいねをした数に関してはわずか30ちょっとだったこともあり、たまたま押してくれただけだとわかっていても、自分の大好きな選手が自分のツイートを見てリアクションしてくれたのは、本当に嬉しい出来事でした。たかがTwitter、されどTwitterです。

2018年3月4日、彼は代表からの引退を発表しました。9月に行われた引退試合ではキャプテンマークを巻き、10番を背負ってプレーし、その後継者にメンフィス・デパイを指名してピッチを去りました。

トルコを去った後も私は意識的に彼のプレーを追いました。出場数はそんなに多くならなかったし、ほとんどハイライトでしか観られませんでしたが、スマートフォンやSNSの普及のお陰で数年前とは比べ物にならないくらい、彼のプレーは私の(比較的)近くにあったのです。全盛期の大半を後追いでしか知ることができなかった私にとって、試合翌日に彼のプレーやゴールを観ることは密かな喜びでした。


そして2019年8月、彼は現役引退を表明しました。故郷のクラブチーム「FCユトレヒト」のビジネス部門と契約したことも併せて発表されました。

アラビア語だらけのアカウントから彼のプレーを探すことはもうありません。W杯でも、EUROでも、どこかのリーグ戦でも、彼のプレーを観ることはもうありません。ユニフォームの色ごとに変わる手首のテーピングも、手の甲を口につけるゴールセレブレーションも、新しく見ることはありません。小さい身体をバネのようにして左右両足から放つ強烈なミドルシュートも、一本で決定機を創るスルーパスも、美しく力強いフリーキックも、これ以上生まれることはありません。

しかし2009-10シーズンの最強インテルを象徴する輝き、ガラタサライでのドログバやポドルスキとの共演、アル・ガラファでの主将としてのプレー等々をはじめ、オレンジ色の小柄な10番の姿が私を含め多くの人の記憶から消えることもまた、ありません。彼は私とインテルミラノを繋げ、私をオランダ代表好きにさせ、海外サッカーの沼に引きずり込んだけしからんサッカー選手であり、私が一番に好きになったサッカー選手であり、私が今も一番好きなサッカー選手です。

現地で実際のプレーを見られなかったことが心残りといえば心残りですが、今は彼への感謝の気持ちと、これからのセカンドキャリアの成功を願う気持ちしかありません。本当にお疲れ様でした。



私にとってスナイデルは、英雄でも憧れでもありません。そんな大層なものではない気がします。

私にとってスナイデルは、ただ単に、他の選手より少し特別な存在であり続けただけです。

私にとってスナイデルは、それだけのことですが、それだけのことではないのです。










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