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【別海アイスマラソン】~9周目の攻防:そこに可能性がある限り~

凍った海の上を42km走る「別海アイスマラソン」。
https://icemarathon.jp/#race-info
去る2023年2月12日、日本で初めて、陸地ではないところを走るマラソンとして北海道の野付湾で開催された。2か月後に控えたエベレスト登山遠征の出発に向け、本来であれば雪山に登っていなければいけない時期にも関わらず、興味の赴くままにレースへの出場を決めた。雪と氷の上という点では同じだが、海の上ということは海抜ゼロ。高所登山のためのトレーニングは標高を上げることが重要なので、このタイミングで酸素の濃い平地を走ることが果たしてプラスになるのか分からなかった。
 
動機は、ただ面白そう、だったから。それでも、アイゼンを付けて走ることに慣れておけば、雪崩に遭遇した時に走って逃げられるかな、とか、バラクラバ(目出し帽)を付けて走れば呼吸がしにくいので低酸素のトレーニングになるかな、とか無理やり理由をこじつけて臨んだ。予想される気温は-20~-15℃くらい。風が吹けばさらに体感温度は下がる。海上なので遮るものがなく、強風になれば相当過酷なレースになることが予想された。過酷な環境に適応する良い機会だ、ということにした。
 
レースは、1周4.2kmのコースを10周する周回コース。スタートは8時。15時までに9周目を終えていないと10周目に入れない。つまり9周の制限時間が7時間。1周あたり約46分で回らなければならないことになる。1kmあたりのペースにすると11分程度である。前日のブリーフィング時に、走りにくいのでけっこう時間がかかると聞いていたが、初めは時間的には余裕だと思っていた。
 
レースの結果を左右するものとしては次のようなものがある。①走力、スタミナ ②不整地での走り方、姿勢 ③装備 ④水分とエネルギーの補給 ⑤戦略 などなど。完走をするためにはこれらを総動員する必要がある。
 

スタート地点、のつもりで撮ったらゴール地点だった。


レース当日の天気は曇り。曇っていると大気がこもるため、数日前(-20℃)より気温がかなり上昇していた。氷の上には雪が積もっているので、氷上レースではなく雪上レースだった。ゴアテックスのトレランシューズにスパイクを埋め込んできたが、雪ではあまり効果が無さそうだったので、チェーンアイゼンを装着することにする。これで足の重量が増すが、走りやすさの方が優先だ。ちなみに僕はストックを使用しない。
 
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参加選手43名(男性40名、女性3名)がスタートラインに並ぶ。選手のうち約4分の1は知人(仲間)であり、主催者の何名かも知人ということもあって、緊張感はあまりない。和気あいあいとしていて、どちらかというと皆お祭り気分。マラソンやトレランの大会のように、ギラギラとした雰囲気はあまり感じられなかった(ギラギラしていた人もいたかもしれないが)。レースディレクターの白戸太郎氏のカウントダウンから、ホーンの合図でレーススタート。全選手一斉に雪原へと飛び出す。

わりと和やかな雰囲気のスタートだった。


手首に装着したガーミン(GPS付腕時計)と連携したスマホから1kmごとのラップタイムが音声で伝えられる。レースのスタート時に時計のスタートボタンを押し忘れ、しばらく走ってからスイッチを入れる。トータルの走行距離が正確に測れなくなってしまったが、周回コースなのでだいたいは分かる。ペース配分のためには1kmごとのラップタイムが分かればいい。1周目はだいたい1km8分半~9分くらいかかった。思ったより時間かかるな、という印象。それでも、少しずつは貯金ができている計算になる。
 
思いのほか暑い。安全管理のためにコース脇にいる自衛隊員に聞いたところ-4℃とのことだった。1周走り終えた時点で風よけとして着ていたソフトシェルとダウンミトンのグローブを脱ぐことにする。スタート/ゴール(中継・計測)地点にはエイドが設置されており、飲み物や食べ物が用意されている。荷物(装備や補給食など)を置いておけるテントもあり、着替えもできる。エイドでの時間も加算されるので、テントでの装備脱着や、エイドでのエネルギー補給はスピーディーに行わなければならない。このタイミングではエナジードリンク(屋外なので冷え切っている)を飲み、内臓を冷やさないように白湯も同時に飲んだ。エイドには着替えも含めて3分くらいいただろうか。
 

序盤はまだ「走ってる」感じがしたが・・・


2周目はだいたい1km9分台。3周目あたりから10分台のラップもでてくる。少しずつラップタイムが遅くなっていっている。周回ごとに雪面は踏み荒らされて走りにくくなってくる。気温が高いため、雪が柔らかく踏み跡がさざ波だっているような状態。地元ランナーも走りにくいと言っていた。走りやすい固い部分を探して少し大回りをするようになってくる。たまに走りやすい部分を見つけられることもあるが、大半は足が雪に沈み込んで思うようには走れないので、再び荒れたコースに戻ることになる。そんな足跡がたくさんあるので、皆も試行錯誤しながら走っているんだなと共感を覚える。
 
エイドでの補給は、徐々にカロリー数を増やしていった。寒冷地では水分補給が疎かになりがちだが、呼吸などによっても確実に水分は体外に出ていく。喉の渇きを感じたときには手遅れになる。エネルギーも同じ。ハンガーノックになってからでは遅い。なので、停滞する時間は惜しいが、補給も戦略の1つである。スポンサーのウィダーインゼリーを白湯で流し込む。お汁粉を飲む、プロテインバーを白湯で流し込む、など。胃を冷やさないように気を付ける。あまり時間はかけない。長居すると身体も冷える。
 

周回を重ねる度に走りにくくなってくる。


雪の上を走ることは、ロードのような固い路面を走るのとはだいぶ違う。ロードの場合はスピードに乗れば、身体が前に進んでいる慣性にキックを加えることで、自動的に推進力を維持できるメカニズムだ。動きも一定なので、フォームを維持することに対してはそれほど強く意識しなくてもいい。一方でこのような雪面を走る場合、足を置く位置をいちいち考えながら踏み出す。足を置く場所は、くぼみの大きさ、凹凸の角度、雪の固さなどが都度違うため、意識的・無意識的に足の力の入れ具合や動かし方を調節する。上体のバランスを保つために、股関節周りや体幹、姿勢も常に意識する。一歩一歩推進力を生み出さないとならないので、足を持ち上げる筋力を使う。推進力を補ったり上体のバランスを保ったりするためにいつもより腕の振りにも気を払う。書いているだけで疲れてくる。
 
5周目を終わった時点でドクターチェックがあった。体調は問題ないが、余裕だと思っていたタイムリミットが気になり始める。今時点での体力を考えると少しペースを上げることはできるかもしれない。ただ、まだ半分残っているので、後半への影響を考えて現状のペースを維持する。といっても体感的負荷レベルを維持していても、ラップタイムは徐々に落ちている。このあたりから、区間によってはキロ12~13分かかりはじめる。前半に蓄えた僅かな貯金を使い始めている。貯金はエイドでも使ってしまうので、実はこの時点で既にギリギリなのではないかと思い始める。
 
見晴らしのいい周回コースなので、ランナー全体の様子や位置が分かりやすい。僕より周回遅れの選手はカットオフが確実になってきた。追い抜く選手はだいたいがストックを使いながら歩いている。一方で、トップ選手には2回抜かされる。トップ選手の足取りは軽やかだ。どうしてあんなペースで走れるんだろうと不思議に思う。僕は部分的に走る、そして部分的に歩くというのが精いっぱいになってきた。走力もさることながら、雪上を走るコツやテクニック、あるいは走りやすい部分を見つけるポイントなどがあるのだろう。
 

風は無いが、雪がちらついてきた。


雪が降り始めたので、再びソフトシェルを羽織り、サングラスからゴーグルに替える。歩く時間が多くなり、キロ14分を超える区間も出始める。足元はますます走りにくさを増し、疲労も相まって気持ちもやや萎え始める。景色も変わらないので、あまり周囲を見ようという気にもならない。ひたすら足元の走りやすい場所を探しながら歩を進める。手に持ってスタートしたGoProは、とっくにテントに置いてきた。
 
 
9周目。いよいよ事態は深刻になってきた。8周目を終えた時点で既に14時を回っていた。15時までにあと1周走り切らなければタイムアップである。10周目に入れない。つまりリタイア、失格である。残り時間は50分ほど。ここ数周は1kmのラップタイムが13~14分。このままのペース維持では間に合わない計算だ。
 
すでに序盤でリタイアした仲間もいる。完走は現実的ではないものの、タイムリミットの15時までは走り(歩き)続けるというスタンスの仲間もいる(周回コースなので、追い抜くときにコミュニケーションをとっている)。僕は、時間的には完走できるかできないかの瀬戸際にいる。このままのペースで、ダメだったらダメで仕方ないかな、という思いも頭をよぎる。厳しいコンディションのレースだから、言い訳はいくらでもできるだろう。
 
しかしまだ完走できる可能性がある限り、前に進んでみることにする。時間は1分でも惜しいため、エイドには寄らずに9周目に突入する。ここから、制限時間との闘い、自分自身との闘いが始まる。可能性がある限り諦めないという攻めの自分と、いろいろな言い訳を探して妥協しようとする守りの自分。そのせめぎ合いの始まりである。
 
ペースを上げて少しでも多く走らなければ間に合わない。走れば終わりまで足の筋力や体力が持つか分からない(10周目も残っている)。実際、数メートル走っても心拍数が上がりすぐに歩いてしまう。疲労に加え、思い通りに走れないもどかしさも気持ちを萎えさせる要因である。目の前の数メートルを走るのか、あるいは歩くのかという選択をひたすら繰り返す。数メートルでも走れば、数秒のゲインになる。逆に歩いてしまえば確実にタイムアウトに近づく。
 
完走するかしないか。ここには大きな差がある。何のために出場するのか。もちろん参加すること、チャレンジすること自体にも価値はある。色んなスタンスで出場する選手がいて良いと思う。しかしレースである以上、ゴールすることに意義があると僕は思っている(本来は順位を競いたいところなのだが・・・)。出場している以上、ゴールしたい。走り切りたい。アドベンチャーレースをやっていたころ(20年以上前)からの知人でもある主催者の白戸氏に、オッサンになってもまだまだやれるんだぜ!というところも見せたかった。
 
残された時間から見て、僕の前後がボーダーラインだろう。完走率は低そうだ。周回コースの中で抜きつ抜かれつしてきたから何となくわかる。一緒に来た12人の仲間の中でも、僕の前にいるのは1人だけだ。だからレースを終えて、「過酷なレースだったねー」とか、「このコンディションでは仕方がないね」とか、「完走した選手はさすが強いね」とか言ってお茶を濁すことはできる。リタイアした中では上位だろうから、「速かったね~」とか、「惜しかったね~」とか言われるかもしれない。ここにいない人たちからは、「参加しただけでもスゴイよ」と言われるかもしれない。でももし完走できなければ、僕はきっと自分自身に失望するだろう。可能性が残っているのに余力を絞り出せなかった弱い自分に。
 
そんなことをグルグルと考える。制限時間は刻々と迫る。越えなければならないラインまであと2kmくらいのあたりだろうか。女性2位の選手が追い付いてきた。周回は僕と同じ、つまり今まさに時間と戦っているさなか。序盤に走りながら数回言葉を交わしていたので、ここでも声をかけてみる。
「あー、おつかれさまー」「行けそう?」
彼女は力強くこう答えた。
「行きます!」
そして彼女の背中が徐々に遠のいていった。
 
僕は自分を恥じた。何が何でも完走する、という決意が足りていなかった。疲れているとか、走りにくいとかいうのは理由にならない。もはや彼女のようなペースでは走れない。でも走れる限り走らないといけないんだった。そこに可能性がある限り。
 
気持ちを切り替えてペースを上げる。すぐに息が上がり、歩いてしまう。それでも走る距離を少しずつ延ばす。酸欠から周辺視野が少しボンヤリしてくる。
 
スタート/ゴール地点のテントが見えてきた。MCのアナウンスが、しきりにタイムリミットを伝えているのが聞こえる。15時まであと数分。無事に計測ラインを通過して最終周回に入る選手を励ます声。そして、間に合いそうな選手はまだいるのか?という声。もう一人選手が見えてきました!間に合うのか?!というアナウンス。僕のことだろうか? ゴールから見える距離なのだろうか?
 
残り200mくらいだろうか。計測ラインのあるテントだけを見て走った。気持ちの上ではほぼダッシュだ。足元を見る余裕はなく、雪に足を取られてフラフラだ。フォームもバラバラだったろう。呼吸も追いついていない状態。なりふり構わずとはこういう状態かもしれない。
 
計測ラインを越える。タイム計測のスタッフが出すOKのサインが見えた。間に合った。正確には分からないが、残り1~2秒というほどギリギリではないにしろ、20~30秒ほどの余裕はなかっただろう。おそらく10秒くらい。喜びよりは安堵感。MCの白戸氏と握手を交わし、エイドに向かう。
 
最後の数十メートルで絞り出したため、立っているのがやっとだった。10mほど先にあるエイドまでたどり着けず、近くにパイプ椅子を見つけて腰を掛けようとしたが、バランスを保てずに椅子もろとも倒れそうになる。座ってからもうなだれてしばらく動けなかった。肩で息を繰り返す。
 
ここから最終周(10周目)。一応、時間制限はないが、長いなぁ・・・というのが正直な気持ち。体力使い切っちゃったな。少しゆっくり行こうかな。あるいはここで敢えてやめてもいいかな、とも考えた。完走の権利は得られたわけだから、ここで終えても十分カッコいいんじゃいかな、と。何より、疲れてる。今の周回で、体力と気力を出し尽くしてしまった感じ。もぬけの殻みたいだ。目をつぶりながらそんなことをボンヤリ考えていた。とても長い時間に感じたが、実際には1分くらいだっただろう。僕は立ち上がり、再びコースに戻っていく。
 

スイーパーと共に。Photo by Taro Shirato


10周目は、ウィニングランではなくある意味でオマケだった。雲が晴れ、傾きかけた日に照らされて光る雪原を眺めながら、スイーパーと共にほぼ全て歩いた。僕が歩き過ぎる傍らでは、スノーモービルに乗ったスタッフがコース上のパイロンを撤収していく。ホントにビリなんだな、と思ったら可笑しくなった。ゴールで待たせている選手たちやスタッフに申し訳ないなというプレッシャーを感じつつも、走ろうという気持ちは少しも起きなかった。というか、走れなかった。僕のレースは、すでに9周目で終わっていたのだ。
 

Photo by Takaaki Nakano


最終ランナーだったので、フィニッシュラインではたくさんの人たちが拍手で迎えてくれた。歩いてゴールするのもサマにならないので、少し手前から完走者としての意地のラストラン。そこにいる全員が注目してくれている。たまにはこういうのも悪くない。結果は15位(40人中)。完走した中では最下位だが、完走率からするとそれほど悪い記録でもないか。ゴール後まもなく、会場は撤収作業に入った。そうか、ずいぶん待たせてしまったんだな。ゴール地点でゆっくり記念写真を撮ったり、氷平線を眺めながら余韻に浸ったりする間も無く、足早に会場を後にする。
 
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僕はエリートランナーではない。それどころか、今ではフルマラソンも4時間切れないのではないだろうか(もう7年もフルマラソンには出場していない)。速いランナーではないけれど、強いランナーではありたいと思っている。ここまで砂漠やジャングル、サバンナなど様々な環境を走ってきたけれど、それらの経験が不整地を走る今回のようなレースに対応する力になっているのではないかと思う。今持てるモノを総動員して何とか乗り切る力。それはスキルやテクニック、あるいは装備や戦略のみならず、メンタル面に関しても同じ。今回のアイスマラソンは、僕としてのレースは9周目に凝縮されている。自分自身の内なる攻防に打ち勝ったこと。これは大きな収穫であろう。次の遠征は今春のエベレスト。万が一生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた時、自分の力で乗り切る勇気と自信を得られたような気がする。窮地に陥っても、今回のように最後まで諦めずに一歩を踏み出すのだ。そこに可能性がある限り。


Official Photo

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