理想の他人

2020/09/17 木曜日 🌧

こんばんはアスカさん。

今年の凱旋門賞に日本の武豊騎手がアイルランドの4歳牡馬ジャパンにて参戦することが発表されました。
凱旋門賞は世界屈指の競馬重賞の一つですので、これに三年連続9度目の参戦というのは本当に凄いことです。今回はジャパンという名前の馬に日本の騎手が乗るというだけでも楽しみです。

でも凱旋門賞に参戦ということはこの時期の国内レースには出れないということになります。
個人的には武騎手が鞍上でキセキという馬が活躍するのを期待していたのもあって、それは少し残念なところもあります。

それでも日本馬と共に日本人騎手の凱旋門賞制覇は競馬ファンの大きな夢でもありますから、決して若い歳ではない武豊騎手ですが、現役である限りいつまでも挑戦し続けて欲しいです。

さてさて、
哲学は嫌いじゃないです。むしろ興味ある分野なので勉強になります。
理想の自分を追い求めると疲労し、自身を消費してしまうというのはとても良くわかります。

ただ、ぼくが言いたかったのは、掲げた理想像に固執して、その通りの姿にならなくてはいけないと思うことが必ずしも良いということではありません。

理想を追い求めて、それに近づこうと努力することで、結果的にその理想と全く同じ姿にならなくても、その方向に前進し成長した自分は少なくとも元の自分より好きになれるのではないかなということです。

なので、途中で夢を諦めたり、理想を複数の方向に持つことはむしろ素晴らしいと思います。

「理想の自分」を追い求めるというより「自分以外」に理想を見つけて、自分もそれになろうとしてみる。みたいな感じですかね。

他人と全く同じ人にはなれないのは当然ですし、仮にそうなれたらそれはもう他人です。しかしそれを理解したうえで考え方を近づけたり外見的に真似てみたりして、近づくことは可能です。
「理想の自分」には一生なれないというのはある意味ぼくもそう思いますが、「理想の他人」に本気でなろうと自らしてみることで、気づけば結果的に理想に近い姿になれるのではないかなと思います。

哲学は好きなのか嫌いなのか自分でもよくわかりませんが、こういう話は議論することに意味と価値がありますからどんどん話しましょう。

それ以上に自分の言いたいことの言葉を選んで並べるのは難しいなと改めて感じます。
その点、勘違いや意味の取り違いが起こること自体が楽しいというのもあります。

安楽