つぶやきログ「厭だな、と思う事」

 私が凄く厭だな、と思うのは、「スタンダードの書き換えが発生してしまう」こと。かつて、バレエの基礎レッスンに基づいた美しい所作の演技よりも、神経の行き届いていないクネクネバタバタが「美しい」と称された時、「フィギュアではあっちの方を美しいとするんだね」という「書き換え」が発生した。
あの時は、正確に言えば「発生し『かかった』」で終わり、最終的には本物の美しさが凌駕した訳だけど。今回、前回のケースを参考にでもしたのか、「あれこそが美」という書き換えをスムーズに行うべく、本物が出来うる限り隠されたり落とされたりしている感がある。
何度か経験があるのだけれど。
「彼って本当に美しいよねえ」とそれほど競技に興味のない人から言われて、「そう?今度機会があったらよく見てみて?怖い顔して手足バタバタさせてるだけじゃない?」と答えると、皆一瞬虚を突かれたような顔になる。「衣装とあのほっそい身体に誤魔化されてない?いわゆるアスリートとしての美はあるかな?」
全日本の時にそういう話をした人は、五輪を見て「あー、言ってる事判った。あのアメリカの絶対王者って子は圧倒的に美しかったね。あと、宇野くんともう一人の長いアメリカの子」(長い言うなや確かにジェイソンなんとなく長いけどな)とメッセージくれてほっとしたんだけど。
「あれ『こそ』が絶対的な美です!」って刷り込まれた人たちは、きっと「(バレエやその他のダンスとか、もっと根源的な自分の生理感覚とはズレがあったとしても)フィギュアスケートの世界ではあれ『こそ』が美として称揚される教科書なんだな」って勘違いしたままでいるんじゃないか」と思うと、すごく厭。美の方向性はいくつもあるとは思うけれど、「美しくない」ものを「この場ではこれを美しいとする」というのは、凄く良くないことだと思う。
今の小さい子たちの一部にはあのスケートを絶対視してる向きもあって、それが大きな懸念事項。ガリガリ氷を削り漕ぎまくるスケーティング、遅い上にトラベリングするスピン、リンクの端を一切使わず、ジャンプ跳ぶタイミングだけを計って組み立てるプログラム。基本的に、「とりあえずジャンプだけ跳べればいい」演技なのは明らかなのに、それを「美の境地」のようにすり替え、書き換えてしまおうとする流れが強くあるのが恐ろしい。作戦としては、「とりあえずジャンプ『だけ』で点を稼ぐ」というのも無いわけじゃないと思う。でも、 「それでいい」じゃなくて、「それ『が』いい」となってしまったら、本当に「本質の書き換え」が行われてしまうよ…私は、そこが一番怖い。

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