Director's Column #1

『HaKUのこと』

HaKUを初めて観たのはどこだっただろう、、、

初体験のシーンを忘れてしまうほど自分は歳をとったんだな。

2009年だったか?、春なのか夏なのかも思い出せないが、

自分が彼らと制作した彼らの自主制作(という名目のプレメジャー作)「WHITE LIGHT」がリリースされたのが

09年1月ということは、08年の冬から春に変わる頃だったかな。

当時一緒にサウンドを作っていたLOVELOVELOVEという滋賀のバンドとの関係はこの頃既に、ディレクターとしての、

自らの理想と彼らの才能を利用しての代理戦争と化していた。僕とバンドの軋轢は最高潮を通り越し、実質上分解、分裂していた。

そんななかでアミューズという事務所からHaKUを紹介され、一緒にサウンドを作っていくことになった。

そして彼らも大阪在住であったことから、ディレクターとしては異例の、ライブ制作にも携わることになった。

だから2008年は彼らと一緒に過ごした、と言っても過言ではないくらいよく会っていた。


ボーカルのユウキは一言で言うとナルシスト、決して悪い意味ではない。若いのにあまりひけらかすことはなかったが熱く静かに自分の価値観をはっきり持っていた。そしてまだ10代なのにギターはグループ内でも飛び抜けてうまかった。複雑なリフレインもあきらかに才能のあるリズム感で、難なくこなしていた。いい曲もいくつか既に持っていた。


ギターの寛茂とドラムの真也、この二人は簡単に言うと「イイ奴」だった。

もちろんテクニックも若いわりには持っていて、グルーヴ感がまだまだ途上ではあったが確実に期待できる要素を多数持っていた。

そしてこの二人はある意味似ていて、バンドの舵をとるのに必要不可欠な存在だった。


問題はベースの紅一点春奈、とにかく一番「不良」だった。不良というか、厄介な人物で、ルックスは可愛い女の子なのだが芯の通し方がおそろしく半端じゃないという、と同時に頑張り屋でもあった(というふうに当時の僕には見えていた)。


彼らとの作業のスタートは、初めにあったときにもらった彼らの初自主CD「hacking your mind」に収録されていたユウキの浮遊するような声と、全体的にR&Bをオルタネイティブな味付けのバンドスタイルで演奏する当時の彼らの中では白眉の楽曲「夢見枕」をファーストアルバムにチョイスすることから始めた。

この曲の持つ宇多田ヒカル的?、とでもいうような独創的なメランコリックなメロディに、R&Bマナーのバンドアレンジには、僕の当時得意としていた独特のコーラスラインは再録ヴァージョンで聴けるが、とてもよくマッチしたとおもう。


ただこの時点でHaKUの楽曲は全体的にミディアム、スローの曲が多く、初めての音源に収録するには少し「地味」だと感じた。そんな中で白眉のアップテンポ、当時のライブではよく演奏していたキラーチューン「クローンマン」という楽曲が原石としてひときわ光っており、「夢見枕」との二本立てで、アルバムの核を構築することにした。この曲は当時自分の働いていたレコード会社で飛ぶ鳥を落とす勢いをみせ始めていた「サカナクション」のライブを、仕事上よく見ていたことから、ほんの少しだけ他のバンドより早くエッセンスを取り込むことができた。


楽曲は揃いはじめ、レコーディングがスタートしたのが夏の終わりだったかと思う。いくら大手事務所アミューズ預かりとはいえ、まだ予算もつかない彼らとの初めてのレコーディングは大正区にあるフリーピープルで、爪に火を灯すようなスタイルで細々と、行われた。

個別のブースもない、がらんとしたスタジオでレコーディングされたんだけど、本当に僕の中の当時の彼らへの感想は「とにかく吸収が早い」、その一言に言葉に尽きた。

その「吸収」によって、彼らはリハーサル、レコーディング中に急速に日々変化していった。僕はそれを、その才能の飽和を同じスタジオで体感し、目の当たりにして、レコーディングが終わる頃には僕自身はエレクトリックギュインズというバンドのボーカリスト、ギタリストとしての自分から、ディレクターという、裏方の立場へ変わることを自然と受け入れていった。


いろんなアプローチや、リズム、人を惹きつける作曲法、彼らは明らかに他の一緒に関わったどのバンドよりもずば抜けてすごかった。流石専門学校「CAT」の生え抜きの集まりだっただけある。少しきつめの僕のディレクションをすぐに理解し、形にしてく団結力のようなものだけは今もうろ覚えの記憶の中で鮮明に覚えている。

「夢見枕」「クローンマン」の二本立てで攻めていくと決めたというのは前述したが、正直自分の中では、もうひとつ決め手に欠けるというか、初めて世にHaKUを紹介するにはもっとインパクトのある、要するに「夢見枕」のメロディアスな部分と「クローンマン」のハードで(当時としては)斬新なギターアプローチのある曲ができないか?と彼らにアドバイスした。


そんな中で既存の未発表スロー曲(曲名忘れた)のメロディをアップテンポのサビにリアレンジ、新しく作ったギターリフと他のパートを持ち寄せて、再構築した結果、彼らの最初の代表曲のである「光」が生まれた。


もともとあった前述のスロー曲の一節、それも曲の最後に一瞬でてくる「光、ああもっと、ああもっと」という一節に光を当てたのが、僕が彼らにもっとも貢献したディレクションだろう。スタジオ内でラテン、ハードロックなどにアレンジを変化させながら、レコーディングされたアレンジに落ち着いたころにはレコーディングも終了していた。そして誰もがこの曲がリード曲になるだろうと確信した。


「WHITE LIGHT」 というタイトルが誰発案だったかはあまりよく覚えていないのだがリード曲「光」とHaKUの「白」というイメージから生まれたのは明らかで、ジャケット写真は当時マネージャーだった斎藤氏のアイデアだった。もう2つのセンテンスである「拍」「吐く」はセカンドミニ「BREATH IN THE BEAT」のタイトルに流用されていった。


そうやって彼らの第一歩ははじまった。最後になるが大阪ミューズの最後のステージを目撃したが、もはや僕の知ってる4人は既にそこにはいなかった。と言いたいくらい圧倒的なエネルギーと複雑なオーケストレーションされたギターサウンドが圧巻のラストステージだったが、打ち上げで6年ぶりにあった彼らは全く変わっていないナイスな奴らだった。9年間お疲れ様!また新しいサウンドを各々で聴かせてくれることを期待しています!

前田 栄達



PS.僕が6年前に引っ越しをしたのだが、その時に手伝ってくれたのがシンヤとヒロシゲ、それに当時ディレクションしていたアシガルユースのフロント二人、そして印象派のMIUだった。ライターも兼業していた僕の膨大な書籍、CD類を3日間に渡って文句言わずに運び続けてくれた二人に今更ながらお礼を言いたい。そしてこの日僕とMIUは引越しの最中仲良く右と左のリアバンパーをぶつけて両方凹ました。ヒロシゲとシンヤは笑っていた。

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