【論考】「人間の対義語はシステムだ」と思っていたが、大人の働き方は創造的な人とシステムに組み込まれる人に二分されることを知った
2022年6月20日(月)。残念ながら雨は一滴も降らず、昨日の予言は外れた。外したのは天気予報だったと思うが。明日は本当に大雨になるらしく、カッパを着て自転車に乗って「自分はこんなに苦労をしている」と自分に自己暗示をかけることによって、自分が短時間のパートタイマーでしかないことへの罪悪感を拭うのだと思われる。
ただ、疲れた。帰るまでは「今日が一瞬で終わってしまった」という気分を電車の中で持ちながら、家に帰ってきた途端に疲労感がどっと押し寄せてきた。土日もnoteのサークルの注意事項を細々と作成し、審査中にもかかわらず審査が通ったかのような、意味のないことをやっていた。結局意味は無いのかもしれない。ただ、それが仕事のように細々とやっていたために、今日の本当の仕事のほうは、別室に連れて行かれ、ほぼ喋ることなくデータ入力をしていたが、気付いたら一日が終わっていた。
いつもいる上司が突然休みだったので、別室での永遠に終わらないデータ入力に明け暮れていたのだが。
しかし、永遠に終わらないデータ入力が「かなりきつい」と感じていた以前とは違って、「気付いたら終わっていた」に変わってきている。自分の中で何が変わったのか。諦めの気持ちと常識と、規則正しい生活と、あと我慢をしない図々しさか。やっと普通の社会人になれたのかもしれない。「心を殺して生きていく」というパートタイマーに求められる忍耐力がいつの間にか付いたような気がする。欲が無くなったし、会話する相手もいないので、無の状態に近かった。人が笑っていても笑わず、夕方の自分のタイミングでチョコレートを食べていいか訊いて、五分ぐらい休憩してまたデータをただ打ち込み続ける。私が定義した大人とは《《法や慣習などのシステムに則り、システムによって自動的に仕事を行動に移すことが大人である》》、と考えたことがある。昔は人間と機械との違いと思っていた定義だったが、今現代、21世紀初めの終わりの頃。無力なパートタイマーに課せられた仕事はシステムに対し自動的に動くことが、今でも、特に田舎のほうでは求められる。
「人間の対義語はシステムだ」
そう考えていた大学生時代は、いかに自由で、甘くて、現実を知らずに生きていたか、享楽や快楽に身を寄せて活動していたかがよく分かる。しかし、この二つの定義を組み合わせると、人間の対義語は大人なのかもしれない、という新たなテーゼが生み出される。おかしい。大人は人間であるが、己を捨ててシステムに同化していくのが大人だとしたら、人間が本来持っていた創造性や会話などの自由はどこへいってしまったのだろうか。「人間の対義語がシステム」という時代は私が生きている間に生まれるのだろうか。
それとも、「創造性を持った人間として生きる者」と「システムに組み込まれ淡々と生きていく者」の二つの構図が実は労働者の中でも分かれているのかもしれない。私は「創造性を持って人間として」働いたことがない。統合失調症になったからだ。「精神障害者に対して、就労の機会を与える」が最先端の時代が21世紀前半の日本の雇用の在り方である。精神障害者が創造性を持って仕事に就く、というのは2030年までに達成されるのだろうか。結局、単純作業を機械がやってくれるか否か、都会と田舎でも労働環境に差を出さずに、働く場を設けることができるのか。その2点がこれからの精神障害者の雇用形態を変える重要な二つのポイントだと思われる。
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