見出し画像

連合艦隊はなぜバルチック艦隊をウラジオ沖で待ち伏せしなかったのか?

日本海海戦(対馬沖海戦)1905では、日本連合艦隊が来航するロシアバルチック艦隊をどこで迎撃すべきだったかということが常に議論される。

ウラジオストック軍港を目指すバルチック艦隊の日本海侵入ルートは、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3ルートが考えられた。

バルチック艦隊の航路を対馬海峡だと正しく予想して、敵艦隊の捕捉撃滅に成功した東郷平八郎と秋山真之の叡慮を称えるのが常識だ。

しかし、疑問がある。

敵艦隊の目的地がウラジオストックだとわかってるなら、ウラジオ沖で待ち構えていればよくない?

ぼくのかんがえたバルチック艦隊迎撃作戦。連合艦隊は、ウラジオ沖で、敵艦隊の来航を待っていればいいのである。

ウラジオ沖に連合艦隊主力を待機させておいて、3海峡に哨戒艇を配置する。3海峡のどれかを突破する敵艦隊を見つけたら、無線で連絡を受けた連合艦隊主力が、そこに急行して、捕捉すればいい。

特定の海峡に主力を配置すると、予想が外れたら、急行しても、間に合わない。

と思っていたのだが、以下の小説は、疑問を少し解いてくれた。

日本海軍が、日露開戦直前になって、ようやく、無線電信を開発する物語だ。

当時、1905年は、無線電信が開発されて間もなかった。無線電信は、まだまだ不安定だった。動揺し、振動する船の上で、無線電信が動作するかどうか、わからなかった。

結果的には、日本海軍の無線電信機は地上でも海上でも正常動作したのだが、事前には信頼できなかった。哨戒艇(史実では信濃丸)が敵艦隊を見つけても、主力に通報できないかもしれない。無線電信なしでも敵艦隊を捕捉可能な狭い海峡で待ち構えて、迎撃するしかなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?