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後南朝と赤松家

YouTubeで、歴史学者、呉座勇一氏が、嘉吉の乱について、教えてくれたので、岩井三四二の歴史小説「悪党の戦旗」を読んでみた。

守護大名赤松家が、将軍足利義教を暗殺した事件、嘉吉の乱(1441)はかろうじて知っていたのだが、その後のことは全く知らなかった。

嘉吉の乱は、将軍義教が暗殺されておしまいではなくて、足利幕府による赤松家討伐、後南朝による神璽強奪、赤松残党によるその奪還という、足掛け18年にわたる長い後日談があったのだ。

嘉吉の乱 - Wikipedia

嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が御所に乱入し、三種の神器のうちの神璽が奪われる事件が発生した(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、長禄元年(1457年)12月に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。この功により、時勝の子・赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。応仁の乱では、赤松氏は旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還した。

Wikipedia

嘉吉の乱と後南朝とは、赤松家でつながっている。

赤松家による神璽奪還のあとは、後南朝は本当に歴史の闇に消えてしまった感じがしていたが、終戦の年には、こういう珍事があった。

熊沢天皇事件(1945) 熊沢寛道 - Wikipedia

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