AIRA.|短編小説

 ぼくはすべての人間を理解することができる。

 その人間が行った善行、あるいは悪行、そのすべての動機を類推し、推測することができる。

 しかし何もぼくはこんなことを言って、能力をひけらかしたいわけじゃない。なぜならばそれは誰にでもできることだからだ。自分に正直であろうとする限り。

 そう、ぼくはただ正直なだけだ。ただ自分の良心と欲望に、正直なだけなのだ。

 だからぼくには、できる。あらゆる人間の行動と心理をも理解することが。

 たとえそれが一見どんなに馬鹿げていたとしても、直視できないほどに残忍なものだとしても。

 この調子でゆくと、やがてはアドルフ・ヒトラーやイエス・キリストの気持ちでさえも完璧に理解することができるだろう。自分に正直でいる限り。

 ──が、しかし、どんなことにでも例外があるように、そういうぼくにもちゃんと例外はある。

 要するにぼくには、どうしても理解することのできない人間が一人だけいる。これまで生きてきた二十一年間と、そして多分これから先も死ぬまでずっと理解できないかもしれないと思う人間が、この世にたった一人だけ。

 アイラだ。

 ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 大晦日の朝。

 久しぶりに実家の自分の部屋で目を覚ましたぼくは、喉の渇きと尿意に操られるままにベッドを抜け出して、台所へと向かった。

 でもふと気が付くと、途中にある応接間の窓の前に立っていて、遥か南方の活火山の前に座る、幼馴染みの薩川(さつかわ)アイラの姿を眺めるともなく眺めていた。

 今からおよそ七年前のあのときと多分一ミリも変わることなく、湾の向こう側に聳える桜島の斜面に寄りかかるようにしながら女の子座りで座っている、超が付くほどに巨大なアイラ。

 まるで取り計らってでもくれたかのようにちょうどここから真っ正面に当たる位置でにこにこと機嫌よさげに微笑んでいる。

 ひょっとして本当にそうしてくれたんじゃ? なーんて馬鹿げたことを思いながら、とりあえず喉の渇きと尿意をなかったことにして引き続きアイラを見る。今日はほとんど雲のない爽やかに晴れ上がった天気だったから、いつにもまして鮮明にその姿を見ることができた。

 まるでごっそりと何かを持ち去った跡のような水色の空の下で微笑むアイラは、七年前のあの日から、全然歳を取ってないように見える。つまり依然として十四才のままということだけど、でもきっとそれはアイラの全身を覆っている火山灰のせいかもしれない。

 そう、アイラの全身は桜島の火山灰によってびっしりとまんべんなく、完全に覆い尽くされている。

 だからぱっと見石像のようにも見えるのだけど、といっても別に死んでいるわけじゃなくて、その証拠にじっと耳を澄ますと、アイラの呼吸をする音が地面を伝わって確かに聞こえる。

 現に今も聞こえている。消し忘れた深夜のTVが発するノイズのような、一年で一番穏やかな夜の波のような、ほんの微かながらもはっきりとした音が。

 ぼくは一歩窓に近づいた。

 アイラの着ている洋服は全身のいたるところにフリルの付いたいわゆるロリータ系で、その中でもゴスロリと呼ばれているまあ言うならば豪勢にした黒白のメイド服のようなものなのだけど、女の子座り──アルファベットのWのように折り曲げた両足を地面にべったりとくっつけている座り方──をしているために、スカートの中が見えるようなことは決してない。

 そこへきてアゲハ蝶の指輪で飾られた二枚の手のひらがずっしりとスカートの真ん中に置かれているために、多分どんなことがあっても絶対に見えるようなことはないはずだ。

 と、そうなるとぼくも一応は男だからなんとなく残念のような気がしないでもないのだけれど、でも、やっぱりそれは見えなくていいのだと思う。きっとほんの一瞬だけだといいのだろうけど、もし仮にそういう類のものがずっと見えていたとしたら、色んな意味でけっこう困ってしまうと思うからだ。

 だいたい言うまでもなく小さな子供たちの教育上よろしくないだろうし、逆に萌え好きなオタクたちが今以上に狂喜乱舞していただろうし、加えてただでさえアイラの存在を目の敵にしているヒステリックな運動家連中に一体どんな難癖を付けられるのかもまったくわかったもんじゃないし。

 一見のんびり&おっとりしているように見えて成績も運動神経もなかなかによかったアイラのことだからひょっとしてそういうところまでちゃんと考えてあんな座り方をしたのかもしれないけれど、まあそれはさておき、その件については本当に見えてなくてよかったと思う。

 ぼくは寒さのためにブルっと震えると、尿意を我慢しきれなくなってトイレへと向かった。

 そのあと台所で手を洗うふりをして、冷蔵庫の中の家族共同のエビアンを密かに豪快にラッパ飲みしたあとで、自分専用のバーバパパのマグカップに注いだ調整豆乳をレンジで温めながら、引き続きアイラのことを考える。

 鹿児島と言っても離島にでも行かない限り冬は普通に寒いから、ドレスを一枚しか着ていないアイラは絶対寒いに違いない。ともうこれで何度目かになることをぼくは意識的に考えたけれど、やっぱり今回もいつものように、うまくそう思ってやることができなかった。

 多分、アイラがとてつもなく大きいからだ。全身が灰に覆われているということもある。だけど今と同じ大きさのまだ灰にまみれていないアイラを思い出してみても、やっぱりぼくはそう思ってやることができない。そう考えてみると、灰うんぬんよりもやはりその大きさに関係があるんだろうなって思う──あれっていつだったろう? ある大きさを越えた時点で、ぼくはアイラを理解することができなくなった。

 バーバパパのマグカップはグルグルと回り続けている。

 今の大きさになる前、つまり今から七年前までのアイラは、至って普通の女の子だった。もちろん普通なんて表現は本当は誰にも当てはめたりなんかできないということはわかっているのだけど、それでもアイラはそう言いたくなるような、そう呼んでも何ら違和感のないような、少なくとも外見的には標準サイズ内の女の子だった。年齢はその頃のぼくと同じ中二の十四才で、身長は多分、157ないし、8センチくらいだったと思う。

 ぼくにはミロという思わず牛乳で割りたくなってしまうような名前の一つ年下の妹がいて、その頃のミロとアイラは身長が同じくらいで、ミロはその頃から身長がほとんど伸びていないからそれはだいたい間違いがないと思う。

 幼馴染みというだけあって、アイラの家は今現在ぼくのいるこの家の二件隣りに建っていて、しかもぼくたちは幼稚園から小六までずっとクラスまでもが一緒だったから、ほとんど毎日一緒に手をつないで登園、登校するほどの仲よしだった。

 と言ってもそれはせいぜい一年生くらいまでで、二年生になってからはぼくの代わりにミロがアイラと手をつないで登校し、その三メートルくらい後ろをぼくが小石を蹴ったり通りすがりの葉っぱをちぎったりしながら落ち着きなくついて歩くというのが毎朝のお決まりで、それが卒業するまで延々と続いたから、ぼくは小学生の頃のアイラを思い出すとき、自然と後ろ姿と横顔を思い出してしまうことが多いかもしれない。

 そんな感じだったから、中学生になってからもきっとそうなんだろうと漠然と考えていたのだけど、アイラは予想外にも、偏差値のちょっと高過ぎる私立の名門中学校を受験して、というか両親にさせられたようだったけれど見事無事に合格して、その後家から徒歩と電車で一時間以上もかかる市内の学校に通うことになってしまったから、中学に上がってからのぼくたちは、まったくと言ってもいいほどに口を利かなくなった。

 実のところ、小五くらいからアイラとぼくは既にほとんど口を利かなくなってはいたのだけど、でも中学に上がってからは、利く機会があってもあえて利かないようになった。向こうはそうでもなかったみたいだったけど、ぼくの方が単なる幼馴染みではなく、一人の女子としてアイラを意識し始めていたからだ。

 ただミロの方はそんなぼくと反比例するかのようにぐんぐんアイラと仲良くなって、いつからか二人は本当の姉妹みたいになっていた。

 もちろんそれはぼくの思う理想の姉妹像に過ぎないのだけど、それはさておき、ミロは中学に上がったときに謎の不登校を約一週間ほど発動し、その間家族の誰とも一切口を利かなかったのだけど、そのときでさえもアイラとだけはちょくちょくと携帯で連絡を取り合っていたくらいだったから、自分でもきっとそう思っていたと思う。

 そんな感じの二人だったから、週末になるとミロはアイラの家によく遊びに行って、ときには二人で市内にある天文館という屋根付きの繁華街にまで遊びに行ったりなんかしていた。ちなみになぜ繁華街に屋根なんてご大層なものが付いているのかというと、それは南国特有の強い日射しを防ぐ目的もあるのだけれど、真の目的はそれ以上に厄介な桜島の火山灰を防ぐためだったりする。

 ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 アイラが大きくなり始めていることを知ったのは、中二の一学期をどうにか乗り切って、ようやく夏休みに入ってからちょうど十日後のことだった。

 他の夏はもうろくに思い出すことができないのだけれど、その夏のことだけは細部まではっきりと覚えている。もちろんそれはその夏にアイラが大きくなったからということもあるのだけど、その他にもちょうどその年の春から夏にかけて、東京を中心とした関東地方で、ぼくやミロと同い年くらいの女子たちが担任教師の首をコンパスで突き刺したり、いじめていた同級生を校舎の三階の窓から突き落としたり、寝ている両親に灯油をかけて焼き殺そうとしたりするという痛ましい事件が相次いで起こっていて、ワイドショーをやたらと賑わせていたせいもあると思う。

 その日、ベッドに寝転びながらベジータのフィギュアをただひたすらに眺めていたときだった。珍しくぼくの部屋にやって来たTシャツ&ショーパン姿のミロが、「これからアイ姉(ねえ)の家に遊びに行くんやっけど、ニジ兄(にい)もちょっと一緒に来てくれんけ?」と開きっぱなしのドア越しに言った。

 いやーだべんじょ、とぼくは寝転んだままで答えたのだけど、直後にズカズカと不法侵入してきたミロがいともあっさりとベジータを裏拳で壁に叩き付けたあと、「じゃったら貸してた五千円今日中に返しっくれやほあ、早(はよ)お」と、ぼくのことを見下ろしながら、まるで取り立て屋のような口調で誘うというよりは脅すから、ちょっと、というかかなり照れくさかったけれど、その日はたまたま何も予定がなくてそのままフィギュアを眺めるかクリアしたロープレのレベル上げをするかくらいしかなかったし、当然返すお金もまったくなかったということもあって、仕方なく誘われるままにミロと二人でアイラの家に遊びに行った。アイラの家に行くのは、小三のとき以来だった。

 久しぶりに会ったアイラは、ついさっき窓から見たのとほぼ同じ格好だった。

 全身のいたるところに何本ものリボンやフリルがまるであみだくじみたいに縫われたり結ばれたりしている上着とスカートを身に着けていて、フリルで縁取られた太ももまでの長さの黒いストッキングを履いていた。長めで直毛&黒髪の前髪を眉の上で丸くなるように切っていて、外国の赤ちゃんが被るようなびらびらで黒白の布をラッパのように頭に巻きつけていた。そしてそこから伸びている紐を顎の下で蝶々結びに結んでいて、爪には黒いマニキュアを塗っていて、指にはアゲハ蝶の指輪をはめていて、顔には化粧品ではなく絵の具とフェルトペンを使ったようなどぎついメイクを施していた。──でも、アイラはその全身から発する雰囲気とはまったくの逆の、にこにことしたすこぶる上機嫌な笑顔でぼくたち兄妹を二階にある八畳間の自分の部屋に招き入れた。

 アイラはミロとぼくをベッドに座らせると、隠しきれない上気した顔で服の感想を尋ねてきたにもかかわらず、ぼくらが答えるよりも前にキキとララの勉強机の上に置いていたそっち系のファッション雑誌を手に取って目の前に跪き、一枚一枚宝石でも扱うがごとく丁寧にページを捲りながら、これまでずっと内に秘めていたらしきゴスロリファッションに対する想いを熱っぽく語り始め、そして遂に今日の午前中、今自分の着ている服が届いたのだということをものすごーく嬉しそうにしゃべったのち、一方的に話を締めくくった。と思ったらほとんど似たような内容の話をもう一度繰り返し始め、その途中でアイラのおばさんが困ったような、引きつったような笑顔でお盆に載せたジュースとかすたどんを持ってきてくれたけれど、そのことにさえまったく気が付いていない様子に見えた。

 ぼくはその初めて見るテンションの高めのアイラとアイラのファッションに圧倒されていて、アイラが大きくなり始めていることに、すぐには気付かなかった。そのことに気が付いたのはようやくアイラに解放されて家に帰る途中で、「ねえ、ニジ兄はどう思うけ?」とミロに尋ねられてからのことだ。

 え? とぼくは答えた。

「すごかったが。初めて見たがよあんなの。でもま、いんじゃねえのけ、なかなか似合っちょったし、ちょー嬉しそうやったし」

 実際ゴスロリファッションのアイラはけっこういい感じだった。テンションが高めなのも初めて見たせいかものすごく新鮮で、ぶっちゃけちょっとだけ萌えてしまったほどだ。いやほんとはかなり。

 じゃなくてよ、と、またチンピラのような目つきと口調でミロが言った。

「アイ姉の身体よ」

「身体? 身体ってなんよ」

 その頃のアイラの胸はもう既に大人並みのサイズだったから、思わず淫らな想像をしてしまったぼくは真っ赤になった。そのぼくの顔を一転インテリヤクザのような醒めた目で見やりながら、ミロが開いた携帯の画面を見せる。

 そこには、アイラとミロが並んで立って写っていた。にこにこ顏でゴスロリ姿のアイラとTシャツにショーパン姿という何の面白みもない格好のミロが。ちなみにミロの髪型は小生意気にも美容室に行っているくせにどう見ても床屋で切ったようにしか思えない刈り上げ交じりの超ベリーショートだったりする。

 なんよ、さっき撮ったやつかよ、と妙にガッカリしているぼくに向かって、大きいやろうがアイ姉の身体、とそっけない口調でミロが言った。それでようやく気が付いたぼくは、画面をえっと見つめ直す。

 画面の中のアイラは、確かに大きかった。ちょっと前までは間違いなくミロと同じくらいの身長だったのに、明らかに十センチほど大きくなっていた。ただ大きいのなら何も問題はないのだが、そうではなく、全体がちょうど拡大コピーでもしているかのように、不自然な感じの大きさだった。

 ぼくはアイラの部屋にいた最中何とはなしに抱き続けていた違和感の原因のほとんどがその奇抜な服装と高めのテンションのせいではなく、身体の大きさの方にあったのだということに初めて気付く。

 ぼくは、ミロの顔を見た。ミロは何も言わないままに閉じた携帯をショーパンの前ポケットに突き差すと、さっきとは打って変わった切実な目でぼくの顔を見つめながら、「ねえ、アイ姉これ以上おっきくなったりせんよね?」と尋ねてきた。「ま、まさかあ」とその馬鹿げた質問に思わず笑いながらぼくは答えたけれど、ミロは不安そうな顔のままで何も答えなかった。

 と、そのときのぼくはアイラのことを気に留めはしたものの、すぐに忘れた。

 確かにアイラのような服を着ている女子はぼくの田舎ではものすごく珍しいことだったけれど、TVやネットの世界ではけっこう普通だったりもしたし、テンションが高めだったのもぼくだって発売を待ち望んでいたゲームを手にした瞬間には似たような状態になるし、それに何より、アイラがまさに文字通り一回り大きくなったとはいえ、それはまだまだ常識の範囲内での大きさだったからだ。

 というかぶっちゃけるとミロの手前ちょっと大げさに驚いて見せただけで、本当は単なる偶然が積み重なった何かの感違いだとそのときから考えていた。だからぼくはすぐにアイラのことを忘れて、日に日に少なくなってゆく夏休みをここぞとばかりに満喫し続けた。中学二年生の夏休みが思いっ切り遊べる最後の夏休みなのだと、自分でもわかっていたからだ。

 でもその十日後、次にアイラに会ったとき、ミロの心配が的中していたのをぼくは思い知ることになる。

 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 映画を観るために友だちと三人ではるばる天文館まで繰り出したときのことだった。

 時間まで暇を潰そうと何気なく入ったゲーセンのメダルコーナーでまさかの大散財をやらかしてしまったあと友だち二人と、

「すまん金貸して」「いやべ」「金貸して」「いやべ」「頼む映画どころか電車賃もなか」「いくら残っちょっとよ」「二円」「もうお前一生ここにおれ」

 などというやり取りを交わしながら天文館のメイン大通りへ出ようとしたまさにそのとき、ゴスロリファッションに身を包み、真っ白い日傘を持ったにこにこ顏のアイラがちょうどぼくたちの目の前を通り過ぎた。

 もう一着買ったのだろうか? そのときアイラが着ていたのは以前の黒白のものではなく、上着もスカートもそして太ももの途中まであるやたらと長い靴下も全部が全部きれいな薄ピンク色のものだったからきっとそうだろうとは思ったけれど、今一つ確信は持てなかった。

 ただ一つだけはっきりとわかったことがあって、それはすれ違う誰もがアイラのことを驚いた顔で振り向いていたのは、その奇抜な服装のせいだけじゃ絶対にないということだった。なぜなら縦に盛られた髪の毛とそのてっぺんに置かれた高さのある銀色のティアラのせいもあるとは思うのだけど、そのときのアイラの身長はゆうに二メートルを超えていたからだ。

 そしてやっぱり拡大コピーをしたかのように身体全体が不自然に大きかったものの、でもそのときのぼくは、そういう具体的な疑問を持つことが一切できなかった。

 それは元々アイラの頭と体型が小さく細めだったからということもあっただろうけど、でもそれ以上に多分二人の友だちや振り返って見ている周りの人間たちと同じように、ひたすらその存在に圧倒されてしまったからだと思う。例えは悪いけれどまったく何の予備知識も持たないままに、いきなりキリンやゾウを見せられでもしたかのように。

 とそんな感じだったから、ぼくはアイラと一緒に歩いていたミロのことを、うっかり見過ごしてしまうところだった。よそ行きの格好をしていたとはいえ結局はTシャツにショーパン姿という素朴な格好のミロは、日傘をクルクルと回しながらにこにこと上機嫌に歩いているアイラとは対照的に、恥ずかしいというよりもどことなく思いつめたような顔でじっとぼくのことを見つめていた。

 ただ、友だちの二人はミロのことはおろか、たった今目の前を通り過ぎた異常に大きな女子が元クラスメイトの薩川アイラだということにさえ、どうやら気が付いていないようだった。アイラの今日のメイクは前とは違ってごくナチュラルなもので、こっちに向かってそれとなく──けれども優雅に──一度手を振ったにもかかわらず。

 誰かがスマホのカメラを取り出して構えたのをきっかけに多くの人々が一斉に遠ざかってゆくアイラの後ろ姿を急遽撮影し始める。ひょっとして手を振られたことに時間差で気が付いたのか、友だちの二人が突然わっと話し始めたけれど詳細を覚えてはない。覚えているのは、クルクルと周りながら遠ざかってゆく真っ白い日傘のことだけ。

 ──と、そんな決定的な場面を目の当たりにしたにもかかわらず、それでもぼくはアイラの存在を、なんとか常識内で処理しようと試みていた。たった十日間で? という事実を少しも考えることなく、ただ単に普通に成長しただけに違いないと、世の中にはあれよりももっともっとおっきな女の人がおるがあ、という風に考えようとして、実際にそう考えた。

 ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 ミロがまたぼくをアイラのところに誘ったのはそれからさらに十日後の、いよいよ二学期開始への魔のカウントダウンが始まった頃のことだった。ちょうど関東地方でまたぼくと同い年の女子が自分の家族全員を寝ている間に裁ち鋏で惨殺してしまうという凄惨なる事件を起こし、これまでにないほどワイドショーを賑わせていたのと同じ頃だ。

 ミロはぼくの部屋にやって来ると、ほとんど何も言わないままにぼくの着ていたラガーシャツの裾を掴み、アイラの家へと引っ張って行った。ぼくの方もぼくの方で何も言わないままただミロにされるがままにしてついてゆく。アイラのその後に文字通り、恐ろしいほどの興味があったからだ。

 事前に話をつけていたのか、ミロはアイラの家の玄関を開けるとサンダルを脱ぎ、何も言わないままに二階へと登り始める。その途中で隣りの部屋に立っていたアイラのおばさんを見かけたけれど、おばさんはぼくと目が合った途端さっと奥に隠れてしまった。ああ、きっと今日はジュースもかすたどんも出てこないんだな、と漠然と思いながらぼくはミロにシャツを引かれるままに階段を登り、まもなくしてアイラの部屋に入り終えた。

 部屋に入ってまず最初に思ったことは、これは夢なんじゃないのかということだった。部屋の奥に女の子座りで座っている、というよりは鎮座するアイラがくにっと窮屈そうに首を曲げたまま、ぼくたち二人のことを、トラックのタイヤくらいもある巨大な顔で、にこにこと見下ろしていたからだ。ちなみにそのときのアイラの格好は初めに見た黒白のもので、例のびらびらの赤ちゃん布を頭に巻き付けていて、メイクはほぼスッピンと言ってもいいくらいのごくごくナチュラルなものだった。

 尋ねたいことはいくらでもあった。大きくなった理由はもちろん、なぜ服と小物までもが大きくなってしまったのか、食べ物やトイレはどうしてるのか。

 個人的には服と小物のことが一番気になったけれど、とにかくそのときのぼくはただただ目の前の巨大なアイラに圧倒されてしまって何も言うことができなかった。

 ──と、体勢がきつくなったのだろうか、アイラが頭を天井に擦り付けながら曲げていた首をゆっくりゆっくりと回転させるように動かして、逆の方向へと曲げ終えた、そのときだった。ぼくの横に立っていたミロが突然夕方五時のサイレンのようにして泣きだした。

「ど、どうしたとよミロ」

 ミロはぼくの問いかけに答える代わりに、いよいよ本格的に泣き始めた。そして小さな子供のようにひぐひぐとしゃくり上げながら、アイラに対して途切れ途切れに訴え始める。

「ねえアイ姉、どうして、どうしてそげんことになっちゃったのけ? もしかして今、トーキョーで起こってることと、なんか関係があるんじゃないのけ? アイ姉がそんなに大っきくなったのは、わたしたちのせいだったりするんじゃないのけ?」

 東京で起こってること? わたしたち?

 ミロの言っていることを理解しようとするぼくの斜め前を、広げたバンダナくらいもある巨大な手のひらがふわふわとよぎってゆく。

 アイラはミロのすぐ前で手のひらを停止させると、そろりと拳を握りしめながら、アゲハ蝶の指輪のはまった人さし指を慎重に伸ばし立てた。そして爪に透明なマニキュアの塗られているラムネ瓶ほどもあるつるりとした白い人さし指を使ってミロの頭をやさしく撫でながら、泣き続けるミロの目をにっこりと見据えたままに、そっと左右に首を振った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇

 翌日の早朝。

 起床後にとりあえずいつもの習慣で応接間へ行ってTVを点けてみると、画面には、アイラが映っていた。

 背もたれの代わりにしているのかもしれない、赤い象の滑り台の前で例の女の子座りをしてにこにこと微笑みながら、カメラに向かってゆるゆると手を振っている。

 テロップからしてLIVE中継ということがわかったけれど、それよりもぼくは、とにかくアイラのその大きさに釘付けになった。なぜなら格好やメイクは昨日最後に見たときと全部同じだったものの、全体のサイズがぐっと大きくなっていて、後ろにある赤い象の滑り台が、ほとんどとび箱の一段めくらいの大きさに見えてしまうほどだったからだ。

 ──そうか、きっと気づかい屋のアイラのことだから、家を破壊しないためにああして自分から外へ出たに違いない。

 とそんなことを考えながら画面内のアイラを見ているうちに、ぼくはアイラのいる場所が、家からそう遠くない場所の公園らしいということに気が付いた。うし、だったら直接見に行ってみっかね、とリモコンを放り投げ、大急ぎで服を着たのち、ハンドルを曲げそこなった愛車、地獄のカロリーメイト号で公園へと向かった。

 冗談なしに町中の人間が集まったのかというくらいに公園とその周辺は人々でいっぱいだった。

 滑り台の前に座るアイラの前にはいつかネットで観た野外フェスか何かのように、カットされたバームクーヘンの形になって無数の人々が群がっていた。

 先頭にはマスコミ関係と思しき本格的な撮影機材を持った一団が占めていて、その後ろではけっこうな人数が携帯やスマホのカメラを使って背伸びをするまでもなく巨大なアイラの姿を撮影し続けていた。

 ──見ると、周囲にある家々のベランダや屋上にもこれまたけっこうな人影が見え、その多くはやはり何らかの機具を手にアイラを撮影しているようだった。そしてその光景の全体を集団特有のがやがやとした喧騒がすっぽりと包み込んでいる。

 そんな文字通りのお祭り騒ぎの中心で皆からのちょっと好奇過ぎる視線を浴びているにもかかわらず、今現在もにこにこと微笑み続けているアイラなのだった。

 ぼくはそんなあくまでもいつも通りのアイラを見ながら地獄のカロリーメイト号を適当な場所に乗り捨てると、運のいいことに誰も乗っていなかった回転地球儀の北極の部分に立って、あらためてその姿を見た。

 わかりきっていることだけど、アイラは、でかかった。すさまじくでかかった。

 小六のときの修学旅行で見た長崎の平和記念像よりもずっとでかい。第二十三回天下一武道会ででかくなったときのピッコロと同じかもしくはそれ以上かもしれない。

 ──と、ぼくに気が付いたアイラがこっちを向いて、嬉しそうな顔でゆるゆると手を振った。

 ぼくは予想外の展開に激しく動揺しながらも、思わず手を振り返す。でもそれがまずかったらしく、最前列から人を掻き分けてやって来たマスコミの一団が回転地球儀の前半分を取り囲み、ここぞとばかりに一斉に質問を開始した。

「君とあの子は一体どういう関係なの?」「なぜあの子はあんなに大きくなったの? 心当たりはある?」「何でもいいから知ってることがあれば教えてくれないかな? プラモデル買ってあげるから」

 プラモデルという言葉につい首を大きく動かしてしまったぼくを見ていたに違いない。ふと視線を感じてアイラを見ると、アイラはガンツの例の球体よりも大きなグーを口元に添えて、おかしそうにくすくすと笑っていた。それでぼくは急に真面目な顔になって、「すみません、これから塾がありますからノーコメントで」とわざとらしい標準語で嘘を吐きながら地球儀の後ろ側にヤッと降り立って、逃げるようにと言うよりは実際に逃げ出すべく引き起こした地獄のカロリーメイト号にまたがると、即行で家まで駆け戻った。

 家に入ると、TVの前で体育座りしていたミロがぎろっとぼくを睨みつけた。

 どうやらぼくが映ったのを見ていたようで、「もー、なんしちょっとよニジ兄はー、何が、『ノーコメントで』よー、あほー」とぼくの真似をしながら、果てしなく迷惑そうな顔で言って再び画面に視線を戻す。

 ぼくはいつものごとくミロの口撃を見られてもいないのにアニメ風に避け終えると、そうだと思い付いて携帯のネットでアイラの名前を検索した。

 有名な匿名掲示板にはアイラに関するスレッドが既にいくつも立てられていて、そのすべてが異常なまでのスピードで消費されているようだった。

 そこでまたそうだと思い付いてしまったぼくは、今度は仕事でいない父親の部屋にまったく必要のない抜き足で忍び込むと、ノートパソコンを起ち上げて有名な動画サイトでアイラの名前を検索してみた。すると予想通り動画の方も既に何本もアップされていて、そこには普通じゃない数のコメントが寄せられていた。

 とそれはいいのだが、どうもアクセスが集中しすぎて回線がパンク寸前になっているらしく、初めの方こそ一度だけつながったものの、それ以降はなかなかうまくつなげることができなかったのが難だった。

 それくらいネットでもTVでも、まさにお祭り状態以外の何ものでもないようだった。表向きはいつも通りの穏やかな日曜の朝なのに、電波の向こう側ではとんでもないことになっていた。

 それで俄然あおられてしまったぼくはパソコンを勝手に応接間に移動して、TVと携帯とパソコンの画面を延々と三角食べならぬ三角チェックし続けた。TVではいつの間に住所をつきとめたのか、とある放送局ではおそらくアイラの両親のどちらかに突撃インタビューを行うためだろう、なんと二軒隣りのアイラ邸の前から生放送をしているようだったけれど、右下にある分割された小さな画面では公園にいるアイラのことをしっかりと同時に中継し続けていた。

 アイラに関する緊急番組を放送している局はもう一つあったのだけど、その局のチャンネルでは画面右下のアイラのLIVE映像は同じだったものの、メインの画面ではアイラ邸の前からの生放送ではなく、急遽招集された専門家や文化人と称される人間たちが巨大なディスプレーの用意されたスタジオ内において、さまざまな憶測を飛ばし合いながら激しい議論を繰り返していた。

 そうこうしているうちに遂には我が家にまでマスコミの人たちが話を訊きに来始めて、初めの方こそミロの用意したすばらしく慇懃なセリフの通りにぼくがインターホンでまたしてもわざとらしい標準語を使っていちいち断っていたのだけれど、あまりに何度もやって来るものだからそのうちほとほと嫌になって、ホンの電源を切ってそのままにしておいた。

 やがて母親と父親が帰ってきてミロとぼくに一体何が起こっているのかを半ばキレ気味で問い詰めたけれど、ぼくたちが本当に何も知らないということを知るとそれ以降尋ねてはこなかった。

 そしてその次の日、なんと信じられないことに、北海道でも突如として巨大化した女子が現れたという衝撃の事実をTVにてぼくは知ることになるのだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 その北海道に突如として出現した女子はアイラと同い年の十四才で、名前を菊花(きっか)といってセーラー服姿だった。

 無改造の制服を着て紺色のハイソックスと茶色いローファーを履いている、至って普通な感じのする普段のアイラと似たような雰囲気の黒髪の中学二年生だ。

 ただ菊花がアイラと大きく異なっていた点は、彼女はアイラよりあとに現れたにもかかわらずその時点で既にアイラの倍以上の大きさで、十階建てのビルよりも大きいということだった。

 そして彼女にとって不幸だったのは、周囲の過剰な反応によって──と言っても冷静に反応しろという方が無理な話かもしれないのだけど──一時的なノイローゼ状態に陥ってしまい、結果的に二人の人間の命を奪ってしまったことだ。怒涛とも言えるマスコミのインタビュー攻撃によって発症してしまったヒステリーが原因で後ろ向きに蹴躓ずいてしまった拍子に、逃げ遅れてしまったカメラマンとリポーターをお尻で押しつぶしてしまったのだ。

 しかし菊花にとっての真の不幸は実を言うとここからだったりする。

 と言うのも、その痛ましい事故をきっかけにしていよいよ騒ぎは大規模なものになってしまい、政府の命令によって直ちに出動した自衛隊の射撃部隊によって針付き麻酔薬入りの銃弾が菊花の履く紺ハイの上からその形のよいふくらはぎにびっしりと打ち込まれ、予定通りに眠らされてしまった菊花はいつかの絵本で見たガリバーのごとく仰向けになった身体をワイヤーで拘束されたのだけど、どうやら麻酔の量が足りなかったらしくだしぬけに意識を回復し、ワイヤーをいとも簡単に引きちぎりつつ起き上がった。

 そして麻酔の効いている朦朧酩酊とした状態で解読不能な阿鼻叫喚の叫声&嬌声を発しながら暴れまくって周囲の建物を壊しまくり、全員が自衛隊員であったとはいえわずか五分のうちに三十人近くもの命を奪ってしまったがために、最終的には隊の実力行使によってその命を絶たれてしまうことになったのだ。麻酔がもっとあれば回避することのできた事態だったのだけど、はじめに使った以上の量が現場になかったのが決定的な要因とのことだった。

 それで事の危険さに初めて気付いたかのように政府はぼくらの町の住人たちに対して緊急避難勧告を発令し、アイラの周りからは一気に人々がいなくなった。

 ミロとぼくはそうする必要なんてないと何度も主張したのだけど、何かがあってからでは遅すぎるからと断固として反対した両親に強制的に連れられて、数日のうちに危険の及ばないと思われる隣り町の公共の施設へと一時避難することになった。

 そんなこんなでアイラの周りには百人以上の自衛隊員と数十人の命知らずなマスコミだけが残り、他には誰もいなくなった。そしてその間にもアイラは大きくなり続けていて、その時点で最初に公園に出現した際の実に三倍近くまで大きくなっていた。ざっくりと例えると、多分二十階建てのビルよりもいくらか大きい感じだった。

 でそのときのワイドショー系の番組では、まるで当然かのごとくアイラと菊花の生い立ちにスポットが当てられるようになっていて、いずれの番組も二人の過去の不幸探しを躍起になって続けていた。

 ぼくはぼくでそうせずにはいられなくて、ネットを含んだそれらのすべてにおけるアイラの情報を余すところなくチェックした。

 その大半は既に知っているものばかりだったけれど、中には初めて聞く情報も少なからず含まれていた。アイラの父親は血のつながった本当の親ではないだとか、本当の父親は刑務所に入ったことがあるだとか、今の父親は不倫をしていただとか、母親が小さい頃のアイラを虐待していた可能性があるだとか、通っている私立の中学校でアイラは陰湿ないじめにあっていただとか。

 むろん真実かどうかはわからないのだけど、全部真実だと仮定してそれらの情報を受け止めてみたときに、一体おれは今までアイラの何を知っていたつもりだったんだろう? とけっこう凹まされた感じだった。そして何も言わなかったけど、ミロも似たようなことを考えているのが雰囲気からしてなんとなくわかった。なぜならミロもぼくと同じように、メディアによって発信されるアイラの情報のすべてをチェックし続けていたみたいだからだ。

 しかもミロはアイラだけでなく、菊花の情報も同様にチェックしているようだった。

 そんな感じでしばらくの間各番組による巨大少女二人の報道合戦というか生い立ち不幸暴露合戦が続いたのだけど、それに押し出される形で一度だけアイラのおじさんとおばさんが家の前で開いた短い記者会見というか謝罪会見をピークに、徐々に下火になっていった。ちなみにその後のおじさんとおばさんは家に閉じこもっているのかはたまたどこか違う場所へと引っ越してしまったのかは傍から見る限りわからなかった。

 とそんなある日、新たな【燃料】を手に入れようとしたのだろうとある命知らずな女性リポーターとカメラマンがわざわざクレーン車を使ってアイラの顔の前に立ち、実は数日前に北海道でもあなたのように巨大化した少女が出現すると同時に暴れ、合計で三十六人もの尊い命を奪ってしまったが、そのことについてあなたはどう思いますか? という内容の質問をした。

 するとそれまでの間ずっと続いていたアイラの機嫌よさげなにこにこ顔が一瞬にして終わり、体感的には一時間以上にも思える約一分近くに渡る長い長い沈黙が過ぎ去ったあと、「……一体北海道で何が起きたのかを教えてください」と、いつの間に覚えていたのかなんとも流暢な標準語で、秘密でもばらすかのようなささやき声でアイラは言った。余談ながらささやき声だったのにはちゃんとした意味があって、普通にしゃべったら声の大きさや空気の振動だとかで周囲に迷惑がかかると思ってそうしたに違いない。だって気づかい屋のアイラのことだから。

 それはそうと、TVに映ったアイラが言葉を発したのは何げにそのときが初めてだった。そのちょっとした衝撃の事実に、アイラの人気声優っぽく聞こえないこともないふんわり&ほんわかとしている声を聞いた瞬間うわっとぼくは思い至った。だってそれまでは誰が何を話しかけてもただただにこにことしているだけだったから、知らないうちにしゃべらないことが普通になっていたのだ。

 きっとその女性リポーターもぼくと同じような認識だったに違いない。自分から話を振ったくせにアイラが応えた途端やたらと動揺していたのがその証拠に見えた。でも彼女はなかなかに誠実な人のようで、ほどなくするとアイラにお願いされた通り、菊花が出現して息絶えるまでの一部始終を用意したタブレット端末で再生したいくつかの映像と共にアイラに説明した。

 アイラは見ているこっちがドキドキしてしまうような大人びた顔で彼女の話に耳を傾けていた。

 そうして最後に菊花が武力によって命を絶たれたことを知ると、黒いマンモスの牙のようなまつげの生え揃った両目をわなわなとたわませ、口元を数本の指先で押さえ、文字通り以上の大粒の涙をとくとくとこぼし始めた。

 その間リポーターが何を言っても応えることはなく、可能な限り堪えているにもかかわらずほとんど雷のように聞こえる嗚咽を空に響かせながら、それからほぼ丸一日の間涙を流し続けた。そしてその間もアイラの身体は急激に大きくなり続けていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 翌日の朝。

 ようやく泣き終えたアイラはほとんど小石程度のサイズになっていた象の滑り台に手を付きながら、きっと東京タワーよりも大きくなっていたに違いないはずの巨体をゆっくりゆっくりと立ち上がらせると、周りの風景というかおそらくは方角を確かめたあと、南へと向かって歩き始めた。

 そのアイラのあとを編隊を組んだ自衛隊のヘリコプターと武器を搭載した十数台の大型車両、そしてマスコミの車とヘリ数台が待ちかまえていたように付いていった。直にマスコミのヘリがアイラの前方と列の最後尾に別れ、アイラの正面と後ろ姿を随時報道してくれたおかげでぼくらはアイラが移動するさまをバッチリと知ることができた。

 そしてもう言うまでもなく、TVやネット上ではまたしてもさまざまな憶測が過熱して入り乱れ、再びお祭り状態となった。

 そんな騒動をつゆとも知らないアイラは一歩一歩慎重に、都度足元を確かめながら何もない場所を選んでは慎重に足を進めていた。明らかに建物をできるだけ壊さないよう、振動を発生させないように気づかって歩いているようだった。

 でも一度だけ地面の色とシンクロしていたとある古民家をうっかりと踏んでしまいそうになって、寸前でなんとかそうせずに済んだものの、その際にその古民家の脇の空き地へ強力に足を着いてしまい、それが原因で鹿児島県全域に震度三強の地震が発生した。足を着いた地面の半径数十メートルに関しては震度五弱の大揺れだった。

 途端にアイラはやってしまったという顔で慌てながらもそろそろと身を屈めて古民家の中を覗き込んだのだけど、運よく空き家だったことを知るとふうと立ち上がってにっこりと目をつむり、どこかのアニメキャラのごとくに真っ白い歯の隙間から一度だけぺろっと桃色の舌を出して小首を傾げたあとで、気を取り直したようにまた南へと向かって歩き始めた。

 ちなみにそのときのアイラの映像はすぐに編集されて音楽が付けられたのちネット上にアップされ、日本国内だけでわずか数時間のうちに故・キングオブポップマイケルジャクソンの一千万回以上にも及ぶ動画再生回数を軽々と突破した。むろんその間もアイラの身体は大きくなり続けていた。

 さておきTVに出演する専門家や文化人たちの間では、アイラの目的地は海で、その目的は入水自殺することだとや、重力を和らげるために海上で生活するのだとや、海を渡ってオーストラリア等の広大な大陸を目指すのだとや、挙げ句の果てには途中で潜水して海底に沈んだ幻のアトランティス大陸を目指すのだとや、おむもろに飛び立ってM78星雲に還るのだとや、太平洋の真ん中に泳ぎ着いた瞬間一気に地球レベルまで巨大化して人類にとって事実上のセカンドインパクトを起こすのだとやいう何だか冗談のような説までもが割りに本気で交わされていたのだけど、アイラが目指しているのは多くの専門家が予想した通り、桜島だった。ただしその理由までを説明できる者はいなかった。

 やがてアイラは桜島にたどり着くと、足元に人がいないのを確認したあと、その斜面へとなるべく振動が起きないようにして、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、と、やっぱり女の子座りで腰を下ろした。

 そしてその頃にはアイラの身体は今とほぼ同じ、桜島がちょうど座布団くらいの小ささに見えるまでに大きくなっていた。島の住人は既に全員が避難したあとだった。

 しかしそこはかとない皆の期待とは裏腹に、それから数日の間、何も起こらなかった。

 やがて二学期が始まったけれど、そのときになってもアイラは桜島の斜面に女の子座りをしたままで、簡単に顔文字化できそうなくらいにっこりとしている笑みを浮かべつつじっとしているだけだった。その様子が特別に作られた専用のTVチャンネルで二十四時間常にライブ中継され続けた。

 微動だにしないまま、トイレにも行かず、食べ物はおろか水さえも口にしないことから、既に死んでいるのではないのかという説がまことしやかに流れたが、でも、アイラが生きていることは明白な事実だった。だってアイラの鼻で呼吸する音が、ほんの微かではあるものの聞こえ続けていたからだ。加えて以前アイラに質問をしたあの命知らずの女性リポーターとカメラマンが取材用のヘリから垂らしたとんでもなく長い【吹き流し】を使ってアイラが鼻で呼吸をしている証拠映像をカメラに収めたのでそれが決定的な証拠になった。

 さらに加えて、各放送局のマスコミが競い合うように結成した科学チームらによるさまざまな調査によってもそのことが証明された。記憶にあるのは、その中のとあるチームが解析したサーモグラフィーの映像により、アイラの頭部と四肢と皮膚に近い部分の温度は約二十度前後の超低体温ではあるものの、心臓に近い部分のそれは標準的な人間の体温と同じ三十六度前後で安定しているということだ。

 そうしてアイラは桜島の斜面に座り続けたままで、一時評判になった深海生物のように何も口にすることなくにっこりと微笑みながら静かに静かに生き続けていた。

 ただ、何も起こらないとは言え、人々がアイラの存在を忘れてしまうようなことは決してなかった。逆に何も起こらないからこそますますアイラの謎は深まってゆき、人々はそれを解明しようといよいよ熱心になった。

 アイラ自身はもちろんのこと、一体なぜ着ている服までもが巨大化してしまったのか、なぜ飲まず食わずでも平気でいられるのか。ワイドショーでは日替わりで色々な分野からのゲストが招待されて、多様な議論が交わされていた。次元の変容や遺伝子の疾患などの科学に基づいた仮説を初め、神や悪魔の降臨などという神秘的な仮説や、人類全体が何ものかによって催眠術をかけられて幻を見せられているのではないのだろうかというとんでもないような仮説までもが真剣に出る始末だったけれど、どの説をもってしてもアイラのことを完全に解明するには至らなかった。

 とは言えそうした議論だけでなく、政府公認の自衛隊を引き連れた科学捜査班によって実際に採取されたアイラの毛髪を用いての遺伝子検査も行われたのだけど、なんとアイラは人間そのものということだった。細胞の大きさを司る部分をはじめとしたその他の部分の遺伝子も普通の人間とまったく変わらないとのことだった。

 その際アイラの着ている服の方も科学的に調査されたのだけど、ただの繊維に過ぎないということだった。

 つまりアイラの存在は、科学的にありえないことだった。

 にもかかわらずゴスロリファッションに身を包んだ巨大なアイラは桜島の斜面に女の子座りをして存在し、微笑みを浮かべたまま死んだようにして生き続けていた。

 世間のアイラに対する関心がなくなることはなかったものの、時間が過ぎるごとに、人々の暮らしは徐々に以前のものへと戻り始めていた。島を追い出された住人が県に対して抗議を起こし始め、休日になるとアイラと同じか同じようなロリータファッションに身を包んだ女子たちがアイラ邸とアイラのいた公園とを聖地と崇めて全国からやって来るようになった。

 そう言えばアイラが着ているゴスロリ服のブランドは、アイラが巨大化したのを機に飛躍的に売り上げと知名度を上げ、ほどなくのちに一部上場を成し遂げた。デザインを担当したデザイナーは一躍有名人になり、ぼくも一度その人がTVのインタビューに応えているのを見たことがあるほどだ。

 一般の人たちもアイラを見に鹿児島まで何人もやって来た。それに目を付けた自治体の連中はアイラに関する大規模なキャンペーンを展開して無数の商品を作り出し、さらに人を呼ぼうと躍起になった。

 その甲斐あってか、特に正月には今でも毎年大勢の人間が他県どころか全世界からやって来る。

 そしてそのだいたいの人間の片手には、端がフリルっぽくデザインされた紙ナプキンに包まっていて、デフォルメされたアイラのイラストが片面に焼印されただけの回転饅頭──関東で言う今川焼きだ──に過ぎない【アイラ焼き】なるものが握られている。心底馬鹿げているとは思うのだけど、味はまあ悪くない。

 そんな感じで桜島の前に座ってから今までの七年間アイラ自身に関してはまったく何も起こっていないのだけど、しいていうならば二つだけ変化があった。

 その一つは髪の毛の長さや肉付きなどの見た目を含めてのアイラの大きさがまったく変わらなくなったということと、もう一つはその原因が科学的に解き明かされることは遂になかったとは言え、アイラが桜島の斜面に座るようになってから、どういうわけか桜島の活動が不活発になり始めたことだった。

 それまでは月に一度くらいの頻度だった噴火がアイラがその場所に座るようになってから、三ヶ月に二回になったとかいうレベルではあるけれど、確実に少なくなったのだ。

 それが功を奏してか、多数の人間がアイラを鹿児島の守り神として崇めるようになった。

 と言っても噴火がなくなったわけではないからアイラの全身は当然のようにびらびらの赤ちゃん布に覆われている顔までも含め、桜島が噴火する度に徐々に徐々に火山灰によって満遍なく覆われていった。

 ときには激しい雨が降ったり台風がやって来たりしてその灰を洗い落としたがまたしばらくすると噴火して少しだけ余計に灰が積もり、その二つの現象を繰り返すことによってアイラに積もる灰はその厚みと堅硬さを増していった。そんな感じだから噴火が数十回に達した五年間が過ぎた頃には、アイラに積もった火山灰はどんな大雨に降られても剥がれなくなった。そしてアイラは今のような石像のごとく状態になった。

 でだいたいその辺りからだと思う。人々の関心が急速にアイラから遠ざかっていったのは。

 もちろん完全になくなることは今でもないのだけど、以前のようなお祭り状態になったことはこれまでのところ一度もない。一部の信者と言っていいほどのアイラに熱烈な関心を寄せる人々の中にはアイラの再始動と菊花に続く第三番目の巨大少女の出現を待ちわびているという話を耳にしたこともあるけれど、アイラが再始動することも第三の巨大少女が現れることも、やはりこれまでのところという条件付ではあるのだけど、ない。

 そのようにして毎日は、アイラが巨大化する以前の状態へと戻りつつあった。

 それにしてもまったく慣れとは恐ろしいもので、なんと避難していた島のふもとの住民の半数以上までもが家に帰り、普通に生活をし始めたほどだ。そしてそれは妹のミロとぼくに関しても同じことが言えたりする。

 ミロとぼくは──いや、少なくともぼくの方は、巨大なアイラを常に目の前に見ながらも、忘れている時間が少しずつではあるとは言え、確実に多くなっていったのだ。

 でもなんだかそれじゃいけないような気がして時折り思い出したようにアイラのことについて何かを考えようと試みてはみるものの、うまくそうすることができないままにして現在に至る。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 電子レンジがピーッと鳴った。

 それで時間の束縛から解き放たれた記憶旅行より強制帰還させられたぼくは、回転をやめたバーバパパのマグカップをレンジ内から取り出して、その縁にひょっとこ型にした口元を近づけながらバーバパパのあとでも継ぐかのようにくるりと身体を回転させた。そうして回転させ終えて居間の方を向いた瞬間、そこにあるテーブルにいつの間にか頬杖をついて座っていたミロの姿にすわっと気が付いて危うくカップをひっくり返してしまいそうになったけれど、オップス、という無駄に外国人のような声を発したただけでなんとか堪えることができた。

 ふうと一息ついたあとに改めてミロを見ると、どうやらミロは窓越しに、今座っている場所&角度からギリギリで見ることのできるアイラをぼんやりと眺めているようだった。

 ぼくはそんなミロを見ながら彼女が七年前からずっと実家にいて大学へは進学せずに、高校を卒業すると同時に隣り町にある会社でOLとして働いていることや、今は正月休みで年明けの四日までは休みだと言っていたことをなんとなく考えた。あとはまだ就寝中の両親のことなんかも。

 ちょっと熱くしすぎてしまったらしいゆけぶった豆乳へ息を吹きかけているぼくに向け、アイラの方を向いたままのミロが眠たげな感じで声をかける。

「ねえニジ兄」「なんね」「わたしが中一の頃、学校に行かんくなったときのこと憶えちょっけ?」「あったねー」「そん頃ね、実はわたし、いじめられちょったんだ。そんでなんかもう嫌んなって」

 ぼくはその場に立ったまま豆乳を舐めるように一口飲んだ。まだ少し熱い。

 じゃっどんね、とミロが続ける。

「引きこもっちょった理由はね、そんだけじゃなかったとよ」

「なんがあったのね」

「なんかね、夜になっと、身体のどっかがおっきくなっとよ。手とか足とか、頭とかが。夢とかじゃなくてマジによ。戻れ戻れ必死に念じながら寝て、朝になったら普通に戻るんやけど、それが昼間もなったらどうしようかと思って……。それが怖くて部屋にこもるようになったとよ」

 確かミロが引きこもっていた時期は、アイラがまだ普通の大きさの頃だった。

 それを言おうと思ったけれど、やっぱり何も言わないで待つことにした。また豆乳に息を吹きかける。

 あえてそうしているのか、ミロはあくまでも眠たげな声でしゃべり続ける。

「やっけどちょー不安やったから、アイ姉に相談しに行ったとよ。そしたらアイ姉、ロリ服の雑誌見ながら、そんなん大したことじゃなかがって顔で、『大丈夫、もうならんよ』って、それしか言わんかった。そいでなんか頭にきてすぐに帰ったんやけど、でも、ほんとにそれから一回もおっきくならんくなった。そん代わり、アイ姉がおっきくなり始めたと」

 ──と。目の前に粉末ココアの袋があることにおっと気が付いたぼくは、豆乳の中に投入、と心の中でダジャレを言いつつ粉末ココアとついでにその横にあった砂糖もスプーンでカップに入れた。ぽっかりと塊になって浮かんだ砂糖まみれのココアをスプーンの先でつついて崩し、ねじ伏せるようにしながらぐるぐるとかき混ぜる。なかなか溶けなかったけど、しつこく混ぜているうちに結局は全部溶けた。その間もミロは眠たげな声でしゃべり続けている。

「でね、もしかしたらアイ姉がおっきくなっていくのと、自分がならんくなったのが何か関係あるんじゃないかと思って、気になっていろいろとネットで調べてみたんやけど。そしたらさ、あん頃ってうちらと同い年くらいの女子がけっこう荒れてたやろ? なんか伝染したみたいに、何人かの女子が続けて事件起こしとったが。アイ姉がおっきくなる前によ。で、なんとなくそれ関係のことも調べとったら、たまたまその中の一人の子が事件起こす前に書いてたブログのコピー見つけたと。でそこに、毎晩頭がおっきくなって破裂しそうだって書いちょった。比喩じゃなくて物理的に。日付は、わたしがそうなってた頃と同じやった」

 ぼくはちゃんと話を聞いていたし、ミロが何を言いたいのかもなんとなくわかったのだけれど、何をどう答えればいいのかがわからないこともあって、んで? とだけしか答えなかった。クリーミーなこげ茶色をしている液体を一口飲んだ。

 とそれとは別に、思い付きで作った豆乳ココアがなんだかやけにおいしかったから、ぼくは独断でミロのためにもう一杯作り始める。ただしむっちゃくちゃに熱くしてやろうと内心でほくそ笑みながら。

 ぼくが自分の豆乳ココアを飲みながらミロの分を作っている間、ミロは一言もしゃべらなかった。むくれているようにも聞こえる電子レンジの稼働音だけが朝の台所にしばらくの間響き渡った。

 そうやってとうとう出来上がった史上二杯目のちんちん激熱豆乳ココアを、ほれ、と言いながらミロの前に置くと、ミロは一瞬だけ泣きそうな感じの顔でぼくを見上げたあとでさっと顔を伏せ、小声でありがとうと言いつつ、なんだかドラム缶のたき火に当たる疲れきった浮浪者のような趣きの丸い背中でカップの柄をすっと握りながら、

「……ねえニジ兄、わたしたちのせいじゃなかよね? アイ姉がおっきくなったと。わたしたちの、これみたいに渦巻いてる黒いなんかを、アイ姉が身代わりになって飲んでくれたとかじゃなかよね? 違うよね? そげんかことがあったりせんよね?」

 と泣きそうな感じバレバレの声にもかかわらず、どうにか眠たげな声を死守しようとしている変な声で言った。

「……一緒にすんなって。まあまずは飲まんねそれ。めっちゃうめえで」

 思わずはぐらかすようにそう言ってしまったぼくの言葉には何も答えないまま、ミロは豆乳ココアを一口飲んで、【熱っつ】と言った。

 それはもう全然眠たげでも泣きそうな感じでもなくて、本気の本心からの声だった。丸まっていた背筋も一気にぐんと伸びた。直後に振り返ってぼくの顔をぎりりっと睨みつけるミロ。

 けれどすぐに前を向いて、「じゃっどんほんとにうまいで許す」と快活に言った。

 ミロのリアクションと言葉に満足したぼくはシンクに寄りかかりながら、立ったままで残りの豆乳ココアを飲んだ。

 飲み終えるまでの間、ぼくたちは一言もしゃべらなかった。

 途中で冷蔵庫の切なげなモーター音がふっと途切れたときに、アイラの呼吸する引き伸ばした波のような音がほんの微かに、けれど確かに聞こえてきて、そのときふいに、遥か向こうに見えるアイラの姿がなんだか前よりも少しだけ小さくなっているような気がしたけれど、きっと気のせいに違いないと思ったぼくはとりあえず何も言わないでおくことにして、実際に何も言わなかった。

〈了〉

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