外に向かうイメージの話

メールでしていた何気ない話への返信がやたらめったらに長くなったので(しかも別に聞かれてもいない)、備忘録代わりにまとめ直そうと思う。

頭の整理なので、知ってる人には知ってる話。新しいことは何もないのでご容赦。

「イメージ」ということば

「イメージ」

個々人が自分の心の中で抱いているなにがしかの像、やらぼんやりした対象についての雰囲気のようなもの。像でありながら、その実はっきりした形をもっていなかったりするもの。

ただ一方で個人における私秘的なものというのを超えて、人に伝えられる、伝達可能なものということも意識されている。

イメージが単なる現実のコピーではないとか、むしろ私たちにインスピレーションを与えるという意味で現実を超えて新しいものをもたらす(創造的)というのはそれはそれでよくある議論。

個人的な印象だと、ハンス・ベルティンクだったりジョルジュ・ディディ=ユベルマンあたりの議論だと、概念的な「イメージ」だけでなく、物質的な「像」としての性質も兼ね備えたものとしての「イメージ」が扱われるようになってきている。

(とはいえ想像的なものを現実的なものと言語的なもの(象徴的なもの)?との中間に位置づけるというのも結構ある話)

最近は見かけないけれど、imageは「心像」という訳語があてられることがかつてはあった。

その場合のイメージとは、先述のように「心の中で抱いた像」、意識に表象されるもの、現実のコピーという前提があった。今でも一般的な使い方だと思う。

「心像」としての「イメージ」

一方で、イメージによって思考が外に連れ出される、自分の考えてなかったことをイメージをきっかけにして思い至る、という経験がありうる。

そういう時、あるイメージと隣接するイメージの連想、結局意識による論理的操作によって説明することもできるけれど、どう結びついているのか、論理的には説明しがたいようなケースもありうる(ありうる、ばかりだがそうした経験がないと主張する人もいるだろう)。

ともかく、イメージによって思考が拡張されている、と感じる時に、少なくとも既得の意識にはなかったものが外から新たに与えられている、ということは言える。

この場合のイメージは既に(意識的に)「心の中で抱いた像」という規定は超えてきている。意識が構成したものであるならば、意識の中に既に含まれていなければならないだろう、と思うからだ(差し当たり、意識が手持ちの素材を組み立てるる機械のようなものだとして)。

だとすると、どの段階で話が違ってきているのか。

20世紀特に盛んになった議論として、デカルト主義的な(「デカルト的」かはさておき)近代的自我(私秘的)に対しての根本的な批判。意識はそんなに明晰判明でも私秘的で閉じたものではない、と。

私の意識は常に志向性をもっていて、思考単独で存在するのではなく常に外側に向けられているということはフッサールに端を発する現象学が云々。

こういう記述は多分耳にタコとイカが同居するくらいに見られる。

メルロ=ポンティは『知覚の現象学』において「あらゆる意識はあるものについての意識である」ことについて、これ自体はフッサールの発見ではなく、カントにも既に言われていたことだと述べている。

フッサールの「志向性」の白眉は、私たちが意識的に認識するよりも前に、世界の統一性が既に作られたものとして生きられていることだと彼は指摘する。

大仰に言ってはいるものの、私たちが意識する前に世界はあるんだよ、なんて言ってもそんなの常識ジャン、となってしまう。

そうではなくてポイントは、世界が「既に作られたものとして」というところにある。と思う。

世界の複層性

私の見ている世界と他の誰かが見ている世界が同じ、と考えるとバグが生じるケースが「多様性」を叫ばれるようになって顕在化しやすくなった。

ただ私と他人とで全く別な世界を生きている、とするとそれはそれで極端に過ぎる。

そうなると、私が生きている世界と他人が生きている世界の層(レイヤー)があって、複層的に世界ができていると考えるのがイメージとして掴みやすいのではないかと思う。

ステップとして一番シンプルなのは、物質的なものの層、生命としての層、人間(文化)としての層だけれど、それぞれが統一的なものというより、「生命」の定義も複数考えられる(たとえばこれからAIやロボットはどうか、コミュニケーション可能な「意味」を提供する振る舞いをもつ存在が必ずしも既存の定義で「生命」と呼べるかどうか)。しかも人間の層も私のもつ層、日本人のもつ層(これも怪しい)、東京人の層、東北人の層、大学生の層、あげだしたらキリはないけれど、とにかく「人間」にはたくさんいる(急にざっくり)。

私の世界がそうした複数の層から成り立っているとして、それらは私だけで作り上げているものではなく、他人と共有しているものもある。(究極的には全て他人と共有していると思うが、差し当たりはイメージしやすい範囲で、「ある程度」ということで)

つまり、「私の世界」、「私の認識」は私だけのものではない、ということだ。もちろん「私が大事にしている視点」、「私オリジナルの考え」というのは心理的には大事なものだけれど、レトリックの問題として、原理的な問題からは切り離した方がいい。

そろそろなんの話だったっけ、となる頃だと思う。私がそうだ。

とにかく、私の意識=認識という見方から出発してみた場合、私の意識=認識がそもそも私だけの個人的なものからは成立していないという話。

そうなってくると、当然、イメージを「心の中で抱いた像」としてみたところで、その心の成立から個人的なものではないので、イメージも個人的なものには原理的になりえない、ということになる。

そうはいっても私が考えただけのことは他人には伝わらないじゃないか、という話もでてくるけれど、他人に伝えていない、伝わっていないということだけでは、「私だけのものである」ということの根拠にはならない。

イメージはどう入ってくるか?

イメージが個人的なだけのものではないのはわかった、意識が自分だけのものでないこともわかった。けれどそれはイメージの形成過程で外の素材を使っただけで、そのイメージを作り上げたのは自分なのだから、やはり素材が公的なものでも作品そのものは個人的なものではないか。

たしかに。そこまで言われると納得したくなる。多分このことについては「私的なもの」をどう考えるかによってくるので、一旦置いておきたい。

差し当たり、意識は個人的なものだけでできてはいない、というあたりでここは納得していただきたい。

さて、肝心のイメージの話。

とはいえ、先程述べた世界の層がイメージかというと、話としてはきれいにまとまりそうだけど色々と説明することが必要になるので、今はここまで。

・イメージは心的な、内側だけのものではない

・心、意識にしても閉じられたものではない

・イメージは能動的な意識作用に還元されず、イメージが意識を拡大させる機能をもつ

単純化したまとめ。否定的な規定ばっかりで、じゃあなんなんだ、となる。

でも疲れたのでここまで。備忘録なので。

続く?

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