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掬いとる

秋急行

秋が来る、秋が来てる、そう思うだけでちょっとしたことを〈るんるん〉とやっていける。

毎年その〈るんるん〉を喜びはじめたところで、季節の揺り戻しのように再び暑い日が続くのも、嫌いじゃない。

電車の1両目にて、新聞紙で包んだすすきを持つ人が下車するのを見届けながら、秋急行 と心の中でつぶやいた日は、秋分の日だった。

夏越えの露草 心のお守り

つのりつまる言葉/めがさめる言葉

自分の気持ちを記そうとすると、結局うまくいかなくて、結局結局「うまく言葉にできること」を指標にしている自分が情けなくなっちゃう。

毎日いろんな出来事(と、ふちどらなくても、流れるような時間がもはや全て鮮やかな出来事に感じるここ最近)に突かれて、言葉のようなものがからだじゅうに溢れかえっている感覚がある。ほんとうは、溢れ募る言葉のようなものをぐちゃぐちゃのままではなくて、少しばかり整えたり役割を与えてみたり そんなふうにしてみたい。

でも待って、なんで、そんなふうにしてみたいのだっけ?理由は特にないではないか。

溢れて募って、どこかつまってしまうのが怖いのかな。整理したらきれいに流れるように表出できて安心できると思っているのかな。わかりやすさに変換することを自分に課して 課しすぎているのかな。

だとしたら、ちがう安心のために言葉をつかいたい。言葉のようなものを綺麗な言葉にしちゃおうとするのをやめてみたい。ちがう安心、それが何なのかはまだわからないけれど、自分の気持ちを編集するための言葉よりまえに、ポッと水滴みたいにこぼれるそのままのホワホワ(いわゆる言葉にならないけれど、、、みたいなときのそれ)の状態を言葉で掬いとりたい。

うん、言葉のようなものだと思っていたのを、まったく言葉でもなんでもないものとして、迎え入れたい。それが、ホワホワ。

そのままのホワホワをのせる皿のような言葉を用意する前には、ホワホワの様子をどんなかな とただみつめたり匂いをかいだり、手触りをたしかめたりして、味わいたい。わたしはきっと、ホワホワが生まれたことを誰かに伝えたくて言葉にしてみるがずれが起こりやすい。だから、ホワホワがホワホワらしくいられるような皿を探す気持ちを持ち直そう。

そんなことを考えていたここ最近、近所の本屋で本を選んでいたら出会った常連さんとこの犬。名前は「ずぶぬれ」らしい。めがさめる名前、めがさめる名付け、言葉だ!と嬉しくなった。

ずぶぬれがすぶぬれである背景を想像して、そこにたくさんの情景が浮かんだ。ずぶぬれがたまたま持っているホワホワが、潰されずにいかされているように感じて、飼い主を尊敬せずにはいられなかった。実は何も考えずつけられた名前だったとしても、かなりときめいた。✴︎✴︎

吃音の少年の話。
つまる言葉のあるときに読む、好きな絵本。

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