Mr.daydreamer『卒業、果て剥がれて』@福岡女学院大学、観ました

Mr.daydreamer『卒業、果て剥がれて』@福岡女学院大学 ハウイ館 学生ホール
観てきました。

正直、観終わってからバッド入ってしまって、書こうか悩んだんですが、落ち着いてきたので、後の自分のために書き記しておこうと思います。ありがとうストゼロ。

(劇団の方がもし読まれる場合は、ご覧の通り素面で書いていないことをご了承のうえ、読み進めてください、申し訳ない...)

デイドリとの出会いは、昨年夏の学生演劇祭でMr.daydreamerの学生支部(?)の「でいどり。」の公演にどハマりしたのが始まりでして、あの時も悲劇というか、ひたすらに苦しみを伴う観劇だったんですが、そんな作風も好みでした。
今回はそんな「でいどり。」ことMr.daydreamerの古賀さんの大学卒業公演ということで、楽しみにしていましたが、キツかったです。

なんていうかな。デイドリ(支部との混同を避けるため、以降本部はカタカナで略しますが)のコンセプト自体が悲劇で、それを観るために来ているのはそうなんだけど、今回はカタルシスみたいな鑑賞物としての悲哀・苦痛じゃ収まらないレベルのダメージが襲ってきて割とダメ寄りでした。

いや、未成年への性加害や自殺の描写が含まれることは劇団から再三アナウンスされていたんだけれども、まさか自分でもこんなに喰らうなんて思いもしないじゃないですか。
もともと、ここ最近(最近に止まらないかもしれない)男性性から生じうる加害者意識 みたいなものはずっと考えていて、それ故に暫定的な自認としてアセク(というよりはアロマに近いけれど)を緩やかに主張していたのだけれど、あの作品に描かれている男性像はあまりにも ”加害“ の、 ”穢れ“ の象徴だった。少なくとも自分にはそう見えてしまった。会場も会場だったしね。

いや、自分でも理解してはいるんですよ?この作品の本旨はそこではなくて、そういう行いを目にした 過去 に蓋をしてきた “彼女” がそれにどう向き合って、どう答えを出すかの物語であり(いや、作品に沿って言えば「物語」という表現も適切ではないのでしょうが、それは後述しましょう)、最も目を向けるべきはそこではない と、 それでもそこで “彼女” がどんな答えを出そうとも、それを眺める自分は害悪の象徴なんだよなぁ と思うとだいぶ無理だった。

あと、作品では性別故に生じる不幸を見せつけられながらも、メタ的な視点に立つと、公演を行える幸福みたいなものが書かれていて、なんというか、場所は違えど同じ時期を大学生として過ごした者として詰んでしまった。まさか不幸自慢すらも許されないとは。

そんな感じで、些事にばかり目が向いてしまって、正常な精神状態で鑑賞できなかったな という感じでした。まじで散々な帰り道だった。

ただ、誤解を避けるために一応明言をしておくと、作品が駄作だったとか、そういうことではなくて、ただ苦しみを想起させる作品を観て、苦しい思いを抱いただけで、それは正当な流れであり、作品自体は非常に良い出来だったと思います。
一つ間違いがあったとするなら、それは慎重に足を踏み入れるべき領域に、生半可な覚悟で足を踏み入れたこと。

それに、今回の作品は、ある意味での通過儀礼なのでしょうから、外野がとやかく言ったところで、この作品が価値を失うことはないでしょう。そういう意味では、何を書いたところで野暮なのでしょうが、それ故に好き勝手に書くことができるし、もし関わった方がこれを読んでいたらそういう風に捉えてほしい。不容易に近づいて火傷を負った野次馬のようなものです。

あるいは、演出の上野さんの言葉を借りるなら、傷を負い、それを乗り越えることで深く触れ合うことができるのだから、この傷にも意味が付くのかもしれません。尤も、僕は誰かを傷つけることを自分に許すことができないので、その考えに共感するか と言ったらまた別の話なのですが。

最後に、傷を負ったついでに仕返しがてら嫌味を書くならば、この作品の綻びは「物語を抜け出して、自分の足で歩く」というゴールでありながら、その営みはどこまでも物語である というところではないでしょうか。その言葉が 真に “誰が放った” ものであるかは存じ上げませんが、それに説得力を持たせるために、演劇の、物語の “魔力” を借りていることは、否定しようのないことであって、その自己矛盾に思い悩んでくれたら、ちょっとは僕の溜飲も下がるかもしれません。

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