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劇団天地『異邦人の庭』 観てきました。

劇団天地『異邦人の庭』@塩原音楽・演劇練習場 観てきました。

https://x.com/tgtenchi/status/1745796455137177941?s=20

天地は今回見るのが2回目になるのですが、たまたま福岡に来る母と妹に『観にきたら?』と誘ったりしてたので、あんまりな舞台だったら誘った手前、申し訳ないな〜などと思いながら見に行きましたが、そんなことはなかったです。(良かった)


脚本は戯曲賞大賞の受賞歴があるということ(戯曲賞の影響力自体は詳しくないのですが)は知っていましたが、納得の内容でした。

秋の拘置所に、男が1人やってくる。ここに収容されている死刑囚の女と面会するためだ。女は、男の真の目的が、自身の戯曲を書くための取材だと見破る。食い下がる男に、取材を許可する条件として突きつけたのは、自分と結婚することだった。

死刑制度が変わった近未来の日本を舞台に描く、獄中結婚と死ぬ権利の物語。

第7回せんだい短編戯曲賞大賞作品。

戯曲デジタルアーカイブ『異邦人の庭』作品概要(https://playtextdigitalarchive.com/drama/detail/387)より

ここからネタバレになりますが、


実際のところ、この死刑囚の女 というのが、ある種の自殺幇助的な殺人であり、一方でその女は事件直後の記憶を事故によって失っており、その中で死刑とは何か、死のあり方とは、というものが問われていく社会的な作品だったように思います。

高校時代に「尊厳死」「安楽死」を取り上げてディベートを交わしたり、死刑制度のあり方を描いた東野圭吾『虚ろな十字架』で読書感想文を書いたりと、個人的な思い出の中でも、「死ぬ権利」というものは時折姿を表すもので、そういったものを思い出しながら見ていました。

第一に脚本の話ですが、構図が美しいですね。
希死念慮の中で死ぬ決断ができない女性たちの背中を押すように数多の殺人を犯してきた女、事件の記憶を一切持ち合わせないものの、その記憶が戻って来る気配を感じており、「自分が自分であるうちに死にたい」と宣いながらも、その執行という無慈悲な死に怯える様はかつて自分が殺してきた女性の有様そのものであり、

一方で、取材のためにやってきた男、死刑制度の改正によって死刑囚に死ぬ時期を選ぶ権利がある(←これはフィクションですが)中で、「配偶者の同意」という条件を満たすために婚姻を結び、女の生死に介入できるようになった姿は、かの死刑囚が行なってきた「死にたいと思う人々に手を下す」という行為のようで、

かつての加害者と被害者(男もある種の被害者遺族なのが後に分かるのですが)が、立場が逆転しながらも、そこで為される行いは「望むものに、死を下す」という変わらないものであり、かつて行われていたそれは罪とされたのに、これから為されるだろうそれは罰として正当化される。拘置所のガラスを境界にその両側の在りようはどこまでも対象的、あるいは二項対立的であり、美しかったです。
面会の前から、互いが他方を一方的に認知しており、それがただならぬ感情と共に語られる様も良かったですね。

一番印象的だったのは、面会を断られた(?)次の日で、あそこから一気に「死」のリアリティラインが上がったなと思いましたね。それまで世間話のように繰り広げられていた要素が、そこにきて死へと次々に繋がっていって、まさしく「死と隣り合わせ」の拘置所の環境を感じさせられました。

最後も綺麗で良かったですね。一方は尊厳のある死を遂げるため、もう一方は取材の交渉材料のために遂げられた契約結婚が、離婚か、執行へのサインかの選択として襲ってくるのは、ある種わかりきっていた展開でもありますが、ズシンと来るものがあります。そして、その選択を彼女へ返す というのがまた残酷で…..
きっと彼女は誰かに裁かれたかった、あるいは許されたかったのだろうに。

「死を選ぶ権利」というのは、まあ分かるというか、そういうものを望む声もあるだろうなと思いますが、こうやって、自己の判断のもとで死を選ぶというのは、どこまでも平等で不条理な「死」という舞台装置を、言い訳のできないものに、言葉を選ばなければ、自己責任として負わなければならないものに挿げ替えてしまうのではないか などと思いました。

そして、本当に最後、ふたりが交わす約束。
(ここで引用出してもいい気がしたんですが、ちょっと野暮ですね。気になる人はアーカイブから脚本の方読んでください)
あそこが本当に美しい。双方の利益のために始まった契約結婚、既存の夫婦の枠組みとは言い難くとも、2人の関係が形容し難い歪なものであったとしても、あのガラスで隔たれた空間で行われる ”それ” は、確かに逢瀬だったんですね。
あそこ、本当に良かった。普段クソデカ感情を主食にして暮らしていますが、感情ってデカくて複雑なほど美味いですからね(突然のオタク構文)

「死とはなんなのか、どうあるべきなのか」一つの問題提起を扱いながらも、それだけに留まらず、興業として満足感のあるストーリーラインで非常に良い作品に出会えたな という感じです。
あと、この戯曲自体が登場人物の1人、一春が書いた作品のように見えるのも完成度高いですよね。どこまで意識して書かれているのかは分かりませんが、そういうフィクションとノンフィクションを絡めた入れ子構造や前述の対比構造をといった関係性の構築がこの上なく秀逸で、かなり好きな部類の作品でした。
強いて惜しい点を挙げるなら、タイトル「異邦人の庭」への言及があまりにも緩やかでパワーに欠けるものだった、という事ですかね。

さて、まあまあ長い脚本論評をしたところで、ここからは演技に関してですが、

天地主宰の原さんとは個人的に親交があり、この作品の準備期間中も度々お話することがあったので、ちょっと裏話が出るのはご愛嬌。

今回の公演は2回公演で女性役はダブルキャスト(僕が見たのは2回目)だったのですが、女性側の上仮屋さんの演技がめちゃくちゃ良かったです。
実際、役柄として、死を目前とした人のある種のヒステリーというか、感情表出が激しかったので、役者関係なく目立つ立場ではあったのでしょうが、その役を我が物にしているというか、すごく……いい感じの演技でした。(語彙力の敗北)

一方の原さんはというと、なんというか、堅実で、真面目、みたいな感じでした。正直、役者の巧拙を判断するのには長けていないので、こういう役所の演技を評するのが一番難しいです。
ちょっとメタ的な情報を借りるのならば、劇団の創設が20年強ということから鑑みても演技歴の長い原さんが演技しやすい役ではあったのかな とは思います。
多分、こういう役って演技の基礎的な技能がものをいうのでしょうし(←完全な憶測ですが)、そもそも、男性(一春)は高校時代に創設した劇団を続けて20年ほどという設定で、境遇的にも原さんのそれと重なるところがあります。

それ自体を乱暴に、悪意のある言い方をするならば、”イージーな役に逃げた” ということになるのでしょうが、(それ自体の賛否はありますが、今回の公演で言えば、プライベートで見る原さんの違った側面を見れることを期待していて、その点ではちょっと残念だったので) ただ、この作品に際して、キャストオーディションをやったり、女性側の配役に慎重になっている姿も見ているので、いい意味で作品を ”振り回してくれる” 女性側の方がこの作品のメインであって、原さんの立ち回りはその輝きが目を引くように、そっと影を添えるようなものだったのかな というのが個人的な結論 というか解釈です。(違っていたら失礼なのですが)

総じて、かなり満足感のある公演でした。
前述の通り、知り合いが出ている公演 という意味でも少なからず思い入れのある公演ですし(とはいえ、知り合いが関わっているからと見にいく作品は少なくないですけど)、思いがけず家族と一緒に観劇するという滅多にない経験にもなりましたし、それでいて作品自体も質の高いものを見せてもらったと思います。

ただまあ、なんというか、パーソナルな感情に依存している自覚はあるので、これを他の人が見て、同じように良い と思うかについては、正常な判断ができないんですけれどもね。



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