慈雲尊者『十善法語』による天啓

「悟りを開いた」と言っては不妄語戒を破ることになってしまいますが、今朝、まさに雷に打たれたように天啓を受けました。
「天啓」というのも恐れ多いですが、他に良い表現が見当たらないので天啓と呼ばせていただきます。

「この世は全て因縁生起である」
今の自分や世界は過去の結果であるし、未来の自分や世界は今の選択によって結実する。
当たり前のことですが、これが世界の真実であると心が完全に共鳴した時、今見ている世界がそれまでとまるで違う景色に見えました。
今までも懸命に生きてきたつもりですが、それまで見ていた世界はもやがかかっていたかのように、今見ている世界がとても鮮明に映っています。

天啓のきっかけ?

昨日まで高野山に行って、十善法語を読みつつ、このマガジンの⓪を執筆しました。
帰ってきて、十善法語を読みながら寝落ちしました。
朝起きて、具体的には覚えてませんが十善に関する夢をみたような気がして、youtubeで「十善」で検索して動画を見ました。
出かける用事があったのでシャワーを浴びてる最中、慈雲尊者の「因果を楽しむ」という言葉を思い出し思索にふけり、「こうしてただ呼吸してるだけでも世界の酸素濃度は変わってるんだよなぁ」と思い至ったのがきっかけだったと思います。
そこから思索を深めていって、雷に打たれました。
積み上げの結果なのか、短時間ながら集中した結果なのか、は分かりませんが、「雷に打たれる」という表現がピッタリと当てはまる経験をしたので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

天啓→思索

ただ自分が存在するだけでも世界は変わる。
まして行動すれば必ず何かがが変わる。
「行動しない」という選択をするのも行動であり、そもそも何かを行動するということは無数の行動の選択肢を捨てている。
つまり何かをしようがしまいが、現在の自分は将来の自分や世界の因であり、因果から逃れることはできない。
現在の自分が因であるなら、今する行動、今話す言葉、の一つ一つの選択が将来の自分や世界を形づくる。
そこに心から思い至った時、今までの自分は何をしていたのかと。
無駄な時間を過ごし、ご縁を当たり前と思い感謝もせず、自分をちっぽけな存在として大事に扱ってこなかった。
これまでの43年を後悔し、因果を理解せずに選択していた恐ろしさに震えながら、今の世界はこれまでと全く違って鮮明に見える。
会う人にも有難さと愛おしさをおぼえる。
そして自分の選択の結果は自分に現れるとも限らず、自分が生きている間に現れるとも限らず、良いことをしても悪い結果として出ることもある。
だから人に対して求め過ぎず、自分がやるべきことは、世界が1ミリでも良くなると信じて、一瞬一瞬、一番良い行動を選択し続けること。

人生二度なし

ここまで思索して、「この世は因縁生起である」と読書会で取り扱っている森信三先生の「人生二度なし」が完全に合致しました。
「良い人生だった」は結果を拙速に求めすぎで、それでも常に世界にとって良い行動を選択しつづければ「自分は世界に生まれ落ちる価値があった」と感じられることは間違いない。
そうすれば自分がその果実を見られないとしても、捨石になれることすら喜びと感じられる。
これが二度ない人生の生き方です。

文章にすると当たり前のようですが、心から理解している人はほとんどいないでしょう。
昨日までの自分もそうです。
しかしこの天啓に打たれた以上、絶対に忘れてはいけないし、この晴れた世界で世界を1ミリでも良くするための選択を続けたい。
十善法語を読み深めたことがきっかけでこの境地に至ったので、本編とは離れましたが書き留めておきました。
ただ、十善戒を実践するためには因果の理解が必須なので、ここまで読み進めてくださった方にも無駄にはならないと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?