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日本GRAFFITI(グラフィティ) ざっくり歴史

今年、2024年、アメリカの新聞大手『Los Angels Times』が、”グラフィティ(graffiti)は町の一部だ”的なことが書かれたコラムを発表した。ヒップホップの人気などにより近年、街中やラップのVideoをはじめ、ショップ、ファッション、またポップミュージックの映像の中とかにも目にすることが増えたと感じられる「グラフィティ(GRAFFITI)」。一方で、メディアの一部は”落書き”と呼んで、迷惑系ユーチューバーや路上飲酒している人並に嫌う「グラフィティ」。そんなこの時代に溢れる「グラフィティ」とは、何か?
グラフィティライターで、ラップグループ・SD JUNKSTAのメンバー、そしてマンガ作品『少年イン・ザ・フッド』の著者である“ヒップホップ何でも屋"ことSITE(サイト)さんは、かつてこう言っています。

グラフィティは、真夜中にスプレーをリュックに詰め込み、街や眠る操車場へ繰り出し、ひたすら描く行為。

『BURST』 FEBRUARY 2000

そして、『つまり商品ではない』と。さらにグラフィティと”落書き”の違いについては・・・

グラフィティとは、和訳そのまま落書きではあるが、街で見る他の落書きとの違い(中略)、描きたいという衝動はグラフィティと一緒だが、(落書きには)主張はあるがプライドがない

『BURST』 FEBRUARY 2000

と述べている。
「グラフィティ」については他に、グラフィティアーティストのKRESS(クレス)さんが・・・

GRAFFITIは落書きでもARTでもない。GRAFFITIはGRAFFITI。

『STUDIO VOICE』VOL.360

グラフィティアーティストのQP(キューピー)さんは、こう言っています。

グラフィティって僕の考えではジャンルでもメディアでもなくて、ビジュアルでは映らないものというか、そこにあるもの

『DYZ』

グラフィティの始まりは、第二次世界大戦中に兵士が戦地に残した絵や文字、19世紀末からいたアメリカの鉄道労働者(=Hobo)が描いた自らを示すマーク、とか諸説あるそうです。・・・ここからは、雑誌『BURST』のSITEさんの記事に続きまして、SITEさんのマンガ作品『少年イン・ザ・フッド』に載っていることを社会問題になっているレベルで無断で転載&公開しちゃってます。
そんなある意味で落書きに近いモノが、グラフィティへなっていく過程は『より目立つために数とスタイルで競い合ったこと』があったそうです。

60年代にはフィラデルフィアのごく小さな流行に過ぎなかったタギング(※ライターの名前【タグ】を描く行為。一番シンプルなグラフィティのスタイル)の競争はやがてニューヨークに飛び火。(中略)
71年には新聞の記事で街中に謎のタグを残す男 Taki183が紹介され この記事は大きな反響を集めタギングが爆発的に流行するきっかけになったらしい

『少年イン・ザ・フッド』 3
グラフィティライター・KANE(カネ)さんのタグ at 杉並, TOKYO

↑が、タグ(Tag)です。これがー、こう変化を遂げていきます・・・。

タギングも最初は電車の中に描かれてたけどライターたちはより目立つ場所を求めて電車の外側に巨大なタグを描くようになる。タグの巨大化はアウトラインや3Dが施されたピース(作品)へと進化していった

『少年イン・ザ・フッド』 3

ピース(Piece)

グラフィティライター・KANEさんのピース at 真鶴, KANAGAWA

タグが『ピースになる』ことに関しては、グラフィティアーティストのCASPER(キャスパー)さんとJOE(ジョー)さんがプロデュースする大阪のギャラリー『CMK gallery』の動画でも言葉にされています。1:22~!

Graffitiholic #02.

では、アメリカから外来生物やデーブ・スペクターさんかEXILE・関口メンディーさんのように海を越えてやってきて、現在、日本でも当たり前のように目にするようになったグラフィティは・・・、いつ日本でバブーと産声をあげ、各地へ広まっていったのか?

日本にグラフィティが最初に紹介されたのは83年。映画「ワイルドスタイル」の日本公開と、それに伴って来日したキャストのプロモーションであった。(中略)西武デパート、ツバキハウスでのライブ、生のブレイキンバトルは大成功を納めた。ここで衝撃を受けた人達が後に、DJ、ラッパー、ブレイカーとして日本のヒップホップのオールドスクール期を創って行くのだ。
しかし、グラフィティだけはこの時点で大きなインパクトを残すことはなかった。なぜなら、ラップやブレイクダンスがライブで生の空気を叩きつけたのに対し、グラフィティはあらかじめ用意してあったキャンバスを展示したに過ぎなかったからだ。勿論ライターが電車に描くパフォーマンスなど出来るはずもなく、グラフィティだけは本物を見る事が出来ずに第一次遭遇は幕を下ろした。(中略)
映画「ワイルドスタイル」の影響でグラフィティをやってみた人間も少数いたらしい。しかし、本物のグラフィティカルチャーが日本に生まれるまでは、更に90年代前半まで待たなくてはならない。
日本のグラフィティは、ごく個人の動きから始まった。海外に遊びに行った人間が、LA、ハワイなどで本物のグラフィティに出会い、日本に帰国後早速壁に向かった。(中略)大体時を同じくして、日本に来ていた外国人のクルーは、本場のスキルとメンタリティを、まだ出来たての日本のシーンへと伝えた。

『BURST』 FEBRUARY 2000

出典は『BURST』、もちろん筆者はSITEさん。『アメトーーク!』のザキヤマさん&フジモンさんクラスに、まだまだパクらせていただきますっっっ!!!(←「行くぜっ!怪盗少女」をMashup)
日本のグラフィティの始まりについては、”日本のグラフィティ状況が変わるきっかけぽい感じになった”と言われた、2005年、茨城県水戸市で開催された大規模なグラフィティの展覧会『X-COLOR / グラフィティ in Japan』。この作品集『X-COLOR GRAFFITI IN JAPAN』の中で、当時、水戸芸術館現代美術センターの学芸員だった窪田研二さんも、こう記しています。

日本にグラフィティが入ってきた時期については諸説あるが、本格的に広まりだしたのは90年代前半と言われている。

『X-COLOR GRAFFITI IN JAPAN』

同じ作品集(『X-COLOR GRAFFITI IN JAPAN』)の中で、写真家の能勢伊勢雄さんは、窪田研二さんの言葉をこうNERVのように補完します。

ニッポンにも'80年代初頭に映画『ワイルド・スタイル』(チャーリー・エイハン監督)の公開を契機にグラフィティが上陸したと伝えられている。その頃の桜木町(横浜市)には壁画スタイルのものが多く描かれてはいたが、その中でも早くからHIDEはグラフィティのスタイルで作品を残していた。当時、他にも活動していたB.F.S.やC.A.P.等のいくつかのクルーがあった。このような状況下で手探りで始められていたニッポンのグラフィティに、外国人ライターの多いS.T.M.クルーがグラフィティのスタイルやゴーイング・オーバー(上描き)時のルールを伝え、我が国のグラフィティ文化が成熟していった

『X-COLOR GRAFFITI IN JAPAN』

バカリズムさんの本名かL'Arc〜en〜Cielのメンバーみたいな名前の、”HIDE”というライターの方については、グラフィティ出身の日本を代表するアーティスト・ESOW(エソウ)さんの発言の中にも出てきます。

(1992年~1993年あたり)の頃にはGRAFFITIライターは他にも多少出てきてて、その時はだれもGRAFFITIライターとしてまともな奴いなくて、俺もまともじゃ無かったけど。CREWとかそういうのあんま無くて、あと横浜でHIDEとかいうレゲーよりの奴がいたんだけど。スプレーも使ってたね。

『Kaze Magazine』 ISSUE2

日本グラフィティシーンの爆誕については、グラフィティーアーティストのKRESSさんが、時間をよりピンポイントで記憶しています。

GRAFFITIシーンとしてのGRAFFITIが日本で始まったのは、89年前後。そして今、日本でGRAFFITIを続けている者たちの多くはその時代からの日本のGRAFFITIライターの影響を受け初めて来た者ばかりだという事、そうでもないものもいるが。

『STUDIO VOICE』 VOL.360

2005年12月に発刊された雑誌『STUDIO VOICE』はグラフィティを特集、記事では日本のグラフィティシーンが誕生してから現在へつながる歴史が書かれています。書いているのは、美術専門誌『美術手帖』によると”日本人グラフィティライターのパイオニア”である、snipe1(スナイプワン)さん!記事のタイトルは『DAWN OF JAPANESE GRAFFITI』、日本のグラフィティの夜明け。ではsnipe1さんが書いた記事を、KOHHさんの『YELLOW TAPE』クラスにジャックします。それかグラフィティ・シーンで使われる言葉だと”バイト(bite)、パクって転載します。\ おまわりさーん /

1991年、日本には既にグラフィティがあった。(中略)
93年あたりから、ストリートを中心にしたグラフィティライターが出始める。(中略)
94年あたりから本格的にあちこちでいろいろな仲間達が出来始め、クルー活動として展開していく。(中略)それと平行してストリートでは渋谷、原宿などでグラフィティが大きな問題となり始めていった。(中略)
94年ごろには下北沢に日本で初めてのグラフィティ専門ショップ「FUNKCRIB」がオープン。(中略)
95年あたりから東京の公園ではグラフィティアートに対し消極的になっていき、描くことが違法行為(そもそも違法なのだが)となってしまった。(中略)
97年から99年あたりの間(中略)。本国アメリカからもたくさんのグラフィティ・アーティストが日本へと足を踏み入れ、展覧会などを開いた時代でもある。グローバル化するグラフィティ社会の中、99年、日本で初めてのグラフィティマガジン『KAZE MAGAZINE』が創刊される。
2000年以降は(中略)、グラフィティライターは少しずつ中心市街地からそのポイントを郊外へと移動し始めた。(中略)絶対的にグラフィティライターは増えていった。

『STUDIO VOICE』 VOL.360

99年に創刊された、日本で初めてのグラフィティマガジン『KAZE MAGAZINE』。その『KAZE MAGAZINE』 ISSUE2には、このような一文がある。

日本では、風Magazineよりも前に3種類のGRAFF MAGが出ています。C.y.b.(CHECK YO BLACKBOOK)これが日本初のGRAFF MAG

『Kaze Magazine』 ISSUE2
『Kaze Magazine』 ISSUE2

以上、ここ数年でアタシが購入(葉っぱのお金で)した資料から、ライターの方たちの知識&文章をドロボウみたいに盗んで転売ヤーにようにネットにあげた、検察が重い腰をあげるクラスに罪を重ねた作文でした。紙資料の他に、ネットの中でも、グラフィティアーティストのBEL×2さんが『1996年 高井戸倶楽部で日本初のGRAFFITIエキシビジョン「GRAFF EXPO96`」主催・企画』などあり重要な出来事はまだまだ”エロ詩吟”並に、あると思います!
2000年以降の今。2024年の現在も、グラフィティライターは増えていると思われ、それに正比例するようにグラフィティの数と人々が目にする機会も増えていると思います。最後に、ではなぜライターはグラフィティを描くのか?QPさんの1つの考えを載せたいと思います。

グラフィティって結局、人が大事にしている場所を夜な夜なこっそり勝手に使って、言ってみれば卑怯者で最低の行為だと思うんですよね。そうやって人様のものを傷つけたことのマイナスの大きさは計り知れないし、僕が何をしても変わらないものなので、その分他のことでプラスの行為をして、ちょっとでも、まず自分や周りがポジティブになれたらいいなって思います

『DYZ』

アニメ『鬼滅の刃 無限列車編』の有利な夜の闇の中で戦っているんだ!!”的なグラフィティを見て嫌な気持ちを持つ人もいるでしょうが、あたし(ラッパー・LANAさんと同じ一人称)は、今日もポジティブなバイブスになります!それか海賊王か発明王に俺はなる、転生したら。

QPさん × AMESさん × VERYさん × KANEさんのグラフィティ at 相模原, KANAGAWA