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へすへす。2

前回のnoteを読んで下さった方々、本当にありがとうございました。
TwitterのDMで感想を送って下さった方なんかも居て、結構ドキドキしながら書いたんですが勇気を出して良かったと心から感じました。

さて、今回も続きを語っていきますよっと。
前回が幼少期編。今回は母親と私の思春期編です。

前回もかなりヘスヘスした内容だったんですが、今回もかなりヘスヘス出来ると思います。
暴力的な表現も含む内容になっておりますので、苦手な方はそっとこのnoteを閉じてください。
それでも大丈夫だよ!という上級者ヘスニストの方々はどうぞお付き合いくださいませ!

【追記】
えっと、今執筆終わったんですが4700文字書いてました。
長いしダラダラだしへすへすだしなので、マジで究極にやることない人だけ読んでいただければと思います。
それでは4700文字どうぞ!


突然だが母の話をしよう。
母はかなり波乱万丈な人生を送ってきている。

北海道で生まれ育った母は、幼少期に虐待を受けていた。
両親…すなわち私の祖父母にあたる人物は、気に食わないことがあると日常的に暴力をふるう人だったらしい。
竹製のホウキでぶん殴られたり、マイナス20度の冬の北海道で肌着のまま外の物置に閉じ込められたり、火の付いたタバコを腕に押し付けられたり。
母曰く、弟(私から見て叔父)が知的障害を持っていたため、必然的に弟に対しては過保護になり、そのしわ寄せが自分に来たのだろう、とのことだった。

そんな幼少期を経て、母は当然の如く思春期にグレた。
思春期真っ只中、16歳の頃に妊娠・出産した。
生まれたのは私の兄である。兄についてはまた別途で語ろう。

兄の父にあたる男はロクでもない男だった。
それはそうだ、成人の身で16歳の少女に避妊無しで手を出す男なのだから。
そんな男と祖父母から逃げるように、母は別の男と東京まで駆け落ちした。
幼い兄を祖父母に預けて北海道に残したまま。
兄は虐待されなかった。それが不幸中の幸いだった。

駆け落ちした男とは別れ、月日が経ち、母は私の父と出会った。
母はパチンコ屋の正社員、父は主任だった。
社内恋愛で交際をし、父からプロポーズをして、2人は結婚した。
結婚した翌年の秋に私が生まれた。母が34歳のときのことだ。
兄は18歳になっていた。高校を卒業してすぐ就職し、社会人1年目の年だった。そんなときに妹が生まれた。
私と兄は年齢差が18の兄妹で、母と兄は年齢差が16の親子である。
そんなちぐはぐな家族が誕生した瞬間だった。

なぜ急に母の半生を振り返ったのかというと、母は所謂アダルトチルドレンだということを伝えたかった。

アダルトチルドレンとは。

『親や社会による虐待や家族の不仲、感情抑圧などの見られる機能不全家族で育ち、生きづらさを抱えた人。』(Wikipediaより引用)

ちなみに私もアダルトチルドレンにあたる。
蛙の子は蛙って言葉、こういうときに使うのかなあ。


それはさておき。本題に戻ろう。
時はかなり進んで12年後。私が小学6年生だった頃。

母の話からはだいぶ逸れるが、のちのちの説明に必要だったりするので許して聞いて欲しい。

前回のnoteでも少し触れたが、私はあまり周囲と打ち解けられない子供だった。
家庭環境が特殊だったから、普通の家庭環境で育ってきた同級生たちの気持ちが全く理解出来なかったし、話題についていくことが出来なかった。
DSやWii、ポケモンを買ってもらっただとか、夏休みに海外に旅行に行ったとか、私にとっては遠い夢のような話題ばかりに溢れていた。

子供同士のコミュニティはその場所によって善し悪しが決まってくると思うのだが、私の通っていた小学校は完全に『悪し』の方だったと思う。

団結力があると言えば聞こえは良いのだが、如何せん方向性が悪い。
浮いているクラスメイトが居ると、他のクラスメイト達は一丸となって浮いている子に『仲間外れ』のレッテルを貼るのだ。

私は貼られた側だった。
誰とも目が合わない。誰も言葉を交わしてくれない。
私が何か失敗をすれば、その時だけ私に注目して笑った。
1番タチが悪かったのは担任教師だった。
皆と一緒になって私をからかった。

あるとき、1人のクラスメイトから言われた一言がどうしても許せなくて喧嘩になった。
喧嘩になれば当然、担任教師が間に入って話し合いとなる。
私は感情の整理が上手くつかなくて泣きじゃくっていたが、クラスメイトから言われたことと自分の気持ちを一生懸命訴えた。
きっと傍から見れば何を言っていたか分からなかっただろう、と思う。

自分の受け持っている生徒が喧嘩していて、何かを訴えていたら担任教師はどうするのが正解なのか。
私が担任教師の立場なら、子供が2人いて1人が泣いていたら、落ち着くまで待ってから話を聞いていたと思う。だが私の担任は、私を見て半笑いでこう言い放った。

「いや、あなたの意見は聞いてないから。笑」

もしかしたら喧嘩相手が何か言おうとしていたのを私が遮っていたのかもしれない。
今は向こうの子のお話を聞く時間だからね、という意味だったのかもしれない。

でももう少し違う伝え方があったんじゃ…?

ただでさえ喧嘩相手に傷付けられていた私の心は、担任教師のひと言で完全に打ち砕かれてしまった。まるで断崖絶壁から突き落とされたかのような感覚だった。

この日から私は自分の意見を言えなくなったし、極度の人間不信に陥った。
今でも自分のことを話すのが苦手だ。「こうしたい」とか「これが好き」とか他愛のない話でも「いやでも私のことなんて誰も興味ないだろうしな…」なんて考えて、喉の奥で言葉がつっかえてしまう事が多々ある。
このときのトラウマは、大人になった今でもたまにフラッシュバックして泣いてしまうことがある。

こうして私の小学校生活は散々な状態で終わってしまった。そして結果から言ってしまえば中学校も散々だった。
なぜなら入学した中学校が、卒業した小学校の隣に位置していたからだ。
私に『仲間外れ』のレッテルを貼った奴らはそっくりそのまま中学でも同級生だったのだ。

それでも「このままではいけない」という想いだけはあった私は、中学校に入学してから自分に貼られたレッテルを剥がそうと躍起になった。

人とのコミュニケーションは壊滅的だった私だが、スポーツは得意分野だった。
小学校低学年の頃、ママ友同士の付き合いで勧められてミニバスケを始めたのが大きい要因だったと思う。運動神経は元々良かったようで、有難いことに低学年でも高学年になってもずっとスタメンだった。

中学の部活動は勿論バスケ部を選んだ。
部活のチームメイトとは良好な関係を築けていたし、ミニバスケで培ってきた技術があったから1年生のうちから試合にも出させてもらえてかなり楽しかった。
やっと「上手くいってる」感覚を味わえていた。これからも上手くやろう、そう思った。
だが人生、そう上手くはいかないようで。

ある日、数名のチームメイトが部活に来ない日があった。
先輩に「どうしたか知ってる?」と聞かれ、ほんの冗談で「今日が部活だって忘れちゃってるか、サボってるかのどっちかじゃないですか」と答えた。

次の日、その来なかったチームメイト数名に呼び出され、凄い剣幕で詰め寄られた。
ほんの冗談で言った「サボってる」は、チームメイト達の中で先輩への告げ口に変化していた。本当にサボっていたらしい。
そしてその告げ口はチームメイトたちにとって『裏切り』だったようで、彼女たちを裏切った私はいじめの標的となった。
暴力こそなかったものの、彼女たちから私は見えていないようだったし、私が何を言っても聞こえていないようだった。
ああ、またこれか。中学でもやっぱりダメなのか。やっぱり私はこうなる運命なんだな。
もう諦めの境地だった。

だが幸いなことにいじめは同学年の中でしか行われなかった。2,3年生の先輩たちは普通に接してくれていた。そのお陰で私は部活を続けることが出来た。
いじめに対しても「結果を出して認めさせてやればいい」くらいのスタンスでいられた。部活へは仲良しこよしをしに来ているわけではない。バスケが上手くなりたくて来ているのだ。私は以前にも増して練習に打ち込んだ。

でもちょっと我武者羅に頑張りすぎたのかもしれない。


ある日の練習中、シュートを打つ直前のフェイントで、右膝から「パキッ」と嫌な音がなった。
フェイント直後の右脚の着地で、膝から激痛が走る。
立っていられなくて、体育館のド真ん中で崩れ落ちた。
膝裏の十字靭帯の損傷。全治3ヶ月。

今思えばかなりゆっくりだが自力で歩けていたし、全然大したことない怪我だったのだが、成長期の子供にとって3ヶ月はかなり長い期間だった。
「練習に打ち込んでいじめっ子たちを見返すくらいに上手くなること」が原動力だった私にとって、3ヶ月も練習が出来ないのはかなりの大ダメージだったのだ。
私も成長期ということはチームメイトも成長期。私が怪我で練習出来ない間に、チームメイトたちはもう追い付けない程どんどん上手くなっていった。
あといじめられてるし友達がいなかったので、誰にも心配されることがない。私が怪我から復帰するのを待つ人は誰も居なかった。
怪我の痛み。心配されない寂しさ。頑張りたいのに出来ないもどかしさ。これらが一気に押し寄せてきて、今まで何とか私を繋ぎ止めていた糸みたいなものが、プツンと途切れてしまった。

ぜーんぶ、面倒くさい。もういいや。

中学1年の冬に退部届を提出し、そのまま不登校になった。

不登校になりたての頃は、体調不良を装って休んでいた。
お腹が痛い。頭が痛い。吐き気がする。母にそう訴えて、学校に休みの連絡を入れてもらった。
装うというか、学校に行きたくないストレスで本当に症状が出ていた。だが休めることが確定した瞬間にストレスから解放されるので昼にはケロリと治るのだ。

始めは休むことを了承してくれていた母も、何日も続くと「仮病じゃないのか」と訝しがるようになった。
登校を拒否し始めて1週間経った頃、病院に連れていかれた。
メンタルから来る不調だったので勿論異常などあるわけもなく、医者からは決まって「また何かあったら受診してください」と言われて申し訳程度の風邪薬を処方された。
まあ勿論病院に行ったからとて治るわけがなく、引き続き学校を休み続けた。

2週間経った頃、ついに母の堪忍袋の緒が切れた。

朝起きて、学校のことを考えると頭痛と腹痛が襲ってきた。
いつも通り「ごめん今日も休む」のひと言を母に伝えた。
いつも通りだったら。母は渋々ながらも「じゃあ電話しとくから」と休むことを了承してくれていたのだが、この日は違っていた。

「お前ぇ!!!いい加減にせえよ!!!毎回毎回仮病で休みやがって!!!!!サボるな!!!学校行け!!!!!!!」

つんざくような、ヒステリックな母の怒鳴り声が薄い団地の壁に反響していた。

「仮病じゃないよ、本当に頭とお腹痛いよ」
「嘘つくなお前!!!病院で診てもらって何一つ異常ないじゃねーか!!!!!!熱測ってみろよ!!平熱だろうが!!!」
「嘘じゃないって」
「いいから学校行け!!!!!!」

次の瞬間、母は私の髪を鷲掴みにしてそのまま玄関まで引きずっていった。
頭皮からブチブチと数本髪が抜ける音が聞こえたし、普通に痛すぎるし、ただでさえメンタルやられて不登校だったのにいきなり暴力受けてパニックだしで、ぐっちゃぐちゃに泣きじゃくった。
玄関のドアを開けて、寝間着の私を外に放り出す母。
「いやだ!!!!行きたくない!!!」と泣き叫びながら抵抗する私。
朝8時の光景だった。ご近所迷惑すぎるよね。当時のご近所様、誠に申し訳ございませんでした。

結果的には学校はその日も休んだが、正直そのあとの決着がどうついたかは覚えていない。
多分だけれど、辛すぎる記憶から脳が私を守ってくれたのかもしれない。
防衛本能すごい。


えー…、気付いたら4700文字を超えておりましたので、今回はここまでとさせて頂きます。
最後まで読んで下さった方がいらっしゃったら本当に有難うございました。あとめちゃくちゃ申し訳ない。

今回もへすへすしてもらえたかな。では。

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