失神師たちとその駆け引き

 失神師とは気付かれることなく相手の意識を奪う職業である。クライアントはおよそ失神させるターゲットとは違う。失神師の仕事は殺し屋のそれとは異なる。あらゆる感覚を初恋の如くもぎ取った上で、自らの意図した時間通り回復せしめるのが失神師の伎倆なのである。気を失わせる時間は短いと一瞬、長いと半日程度と幅があるが、熟練の失神師であれば仕損じることはない。
 計画に取りかかる失神師は神経を研ぎ澄ます。どんなに長い時間でも集中することができる。何日でも眠らず、食事も取らず、疲れることを知らない。失神師は人間の知覚全般を操ることが可能だ。ターゲットだけでなく、自らの感覚さえ自由にすることができるのである。それだけ注力し続けなければ成立しない作業が常にともなう。失神に到るプロセスにちょっとしたミスが一つでもあろうものなら、ターゲットは眠り続けて死ぬ。
 失神師はチームを組んで仕事に取り組む。一人で遂行可能である容易な案件かどうかに依らず幾重もの保険を掛けるのである。それは失神師たちに支払う報酬が高額にならざるを得ないことを意味しており、ターゲットが一廉の人物である割合が高くなることや依頼主に個人が少なくなることと併発している。どんな著名な人物がどれだけ長時間意識を失わせられていたとしても、その事実が客観的な事実としてターゲット自身を含め世間に知られるということはない。失神師たちは失敗を何より怖れる。
 意識を取り戻してなおターゲットは自分が失神していたことを認識できない。これは気絶している前後の認識をシームレスに繋げる《キリトリ》という、仕掛けた失神師がかなりの手練である証左ともなる高度な技術である。《キリトリ》にはターゲットの精神状態である《セット》とターゲットを失神させる環境の《セッティング》の両方を完璧に作り上げる必要があり、少しでも失敗の危険があると判断したらば、それまでどれほどの犠牲を払って来ていたとて必要なコストと看做し作戦は切り替えられる。時として数ヶ月に及ぶ仕込みが全て無駄になることもあるが、失敗のリスクは徹底的に排除する。こうした大胆にして細やかな配慮こそ失神師に求められる資質なのだ。ちなみに意識を失う前の(本来は意識があった時の)記憶まで奪った上、その前後の繋がりの断絶を強調することでターゲットを混乱させる技術は《ネコソギ》と呼ばれる。《ネコソギ》はともすればターゲットに自分が失神させられたのではないかという疑惑を抱かせやすく、依頼主の望む長期的な展望に見合う展開が見込める状況でのみ使用される。大した腕前は要求されない。
 ターゲットには自らが失神師に狙われていると自覚しているものもいるが、これは失神師に却って都合良く働く時が多い。殊に自分がかつて失神師に意識を奪われたことがあるかも知れないと疑っているのであれば、その不安な気持ちを利用し揺さぶりを掛ける。そもそも一度でも失神師に意識を奪われたことのあるターゲットは次からは格段に失神させやすくなる。パンチ・ドランカーになったボクサーの様にちょっとした手筋ですぐに意識が断たれてしまうのである。これは失神師の手法が確立される過程において行われた数多の実験からも明らかであり、大半の失神師も経験則からそう認識している。――もう一つわかっていることがある。ターゲットは失神する直前にもの凄い快感を味わうのである。一瞬にして五感に漲った愉悦は即座に決壊する。その刹那に安らかな眠りへと落ちるのだ。ただ目が醒めても何も思い出せない。自らが何らかの快感を覚えていたと追憶するのは不可能である。悦楽の記憶は那由他の彼方に消え失せてしまう。失神させられた経験のあるターゲットが失神させられやすくなることと、失神の直前に感じる快感とに何らかの関係があるかどうかはわかっていない。
 一仕事を終えた失神師たちは小さな打ち上げに出かける。タフな仕事の後ほどにぎやかな店での打ち上げを好むが、どの打ち上げも雰囲気は常にひどくダウナーなものとなる。テーブルにはその店で最高の酒と料理が並べられる。しかしそれらは殆ど口を付けられることがない。初めの注文以外にほぼ言葉を発することのない打ち上げが終われば(乾杯すらしないことも多い)、失神師たちは握手を交わすこともなくそれぞれ家路につく。部屋に帰るとそれぞれ自らを気絶させ、しばし安らかな眠りにつく。ごくまれに、このまま眠り続けて死ぬ。

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