鰐が赤子を攫う。助けを求める母親に対し鰐は条件を出す。もし自分がこれから行うことを当てることが出来たら赤子は返す。外せば赤子を喰らう。
 母親は思案し「あなたはこれから赤子を食べる」と答える。本当に鰐が赤子を喰うのであれば赤子は返さねばならない。赤子を喰う以外のことであれば赤子は喰わなければならない。典型的なパラドクスである。さしあたって赤子の命は無事となる。鰐にしてみれば赤子を喰うことも母親に返すことも出来ない。
 鰐は母親を喰う。そして自ら赤子を育てる。

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 奇術師は客席に恭しく一礼する。粗野な男にリクエストされて鰐を出す破目になる。その客にすれば無茶振りを失敗させて奇術師を見下げ果てようという魂胆である。
 幕で覆われた大きな檻が運び込まれる。指を鳴らす。幕を開けば檻の中で件の男が驚きの表情を浮かべている。他の客たちは歓声を上げる。ふたたび檻を覆う。指を鳴らす。悲鳴。そのまま固いものが砕かれる音や水分を含んだ柔らかいものが何度もすり潰される音が続く。奇術師は客席に恭しく一礼する。
 通報に駆け付けた警察官から事情聴取を受ける。奇術師は鰐など端からどこにも居ないと答えるのみであり男に関する一切が見付からない。警察はしぶしぶ捜査を切り上げる。

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 手ごろな大きさの鰐を拾い集める。乾いた鰐は叩くと軽い音がする。鰐を彫り組み合わせて仏壇などに供える菩薩を造る。端材は護摩木にする。
 大きな鰐は詰まったような甲高い音がする。これほどの鰐はなかなか見付けられないし業者からもそうそう譲って貰えない。力量を認められた証とも言える。この鰐を彫って如来を造る。大きな鰐の中には如来がいるとされる。まずは中のものを掘り出すだけなのだが相応の技兩が求められる。形そのままに掘り出すと数多の人間が同性の者たちや動物らと交わっている姿が現れる。その形状を活かしつつどこにでもある意匠の如来像に仕立てる。ここが一番の力の見せ所なのである。

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 鼻を噛むとティッシュに小さな鰐が動いている。意外と可愛い。花粉症で鼻から鰐が出てくるなんて聞いた事がない。とはいえこれ以上また鰐が出てきても困る。ティッシュ越しに鰐を摘みながらどうすれば良いか考えあぐねる。鼻を噛むのを我慢していたら堪え切れずくしゃみをしてしまう。小さな鰐が遠くへ飛んでゆく。
 とりあえず鰐を鞄に隠して急いで家に帰る。その後も鼻を噛むたびに鰐は増え続け衣装ケースが小さな鰐で溢れてしまう。トイレで用を足しても鰐が出てくるのでこれは水に流す。
 夜中にいきなり下腹部に激痛が生じ飛び起きる。ほうほうの体で救急車を呼び病院へ運ばれる。検査結果によれば尿道結石とのことである。なるほど。鰐の卵だ。

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朽ちた鰐だけ隙間なく立ち並びああこれは国境なんだな

他人にも心があるか《鰐》という言葉をつかい証明しなさい

鰐の初恋に慈愛と祝福を。「あの女なら誰でもやれる」

わたくしはまだ鰐なのでなぜ無ではないか光があるかわからん

永遠と今とが交わる境界を緑の鰐は「瞬間」と呼ぶ

「抜いたあと気付いちゃったの鎖骨から生えたあの鰐、翼だったの」

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 地球が滅亡するというので鰐に入ってやり過ごす。さいわい川が干上がることもなかったので水には困らなかったがあらゆる生命が失われてしまったので仕方なく草や低い木に生っている木の実を食べる。食べにくい。太古には草食性だったらしいが肉食になって久しい鰐の体では旨いとは微塵も思えない。単に死なないための燃料を注入しているに過ぎないのである。
 宿主である鰐の意識が絶えてからどのくらいの年月が経ったかわからない。会話などは交わせなかったが自分以外で唯一の意識ある生命なので否が応でも孤独に苛まれる。寿命の何倍もの時間が経過している。何者をも噛み殺せる牙を持っているにも関わらず噛み殺す相手などいない。植物に覆われた瓦礫の平原を抜けて自分以外の命を探し歩き続ける。

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 川から上がり丘で休む。涙が出てくる。どうしようもないのでそのまま寝てしまう。目が醒めると数多の蝶が顔に集まり涙を吸っている。
 誰からも愛されないのは仕方ないとしても誰からも嫌われてしまうのが解せない。余りに近すぎて羽根の模様がはっきりと見えない。もっと離れて見ることが出来ればきっと美しいのだろう。
 私は子供のころ鰐に育てられたのだという。

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