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御義口伝 普賢経五箇の大事と法体

”法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事”
”六に法体に約するとは法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり”
”事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行〜”
本門の本尊=法体
総別の二義
仏力法力の妙法
仏力法力の御本仏日蓮大聖人の宝号南無妙法蓮華経
本化信力行力の妙法
弟子旦那等の色心命の十如是円融三体の本地
信力行力の南無妙法蓮華経

引用はじめ”普賢経五箇の大事
第一普賢経の事
 題号に云く仏説観普賢菩薩行法経と云云。
 御義口伝に云く此の法華経は
十界互具三千具足の法体なれば三千十界悉く普賢なり、
(法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事)
法界一法として漏るる義之れ無し故に普賢なり、
妙法十界蓮華十界なれば依正の二法悉く法華経なりと結し納めたる経なれば此の普賢経を結経とは云うなり、
然らば十界を妙法蓮華経と結し合せたり云云。
第二不断煩悩不離五欲の事
 御義口伝に云く此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲は貪欲のまま瞋恚は瞋恚のま
ま愚癡は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。
第三六念の事  念仏 念法 念僧 念戒 念施 念天
 御義口伝に云く念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり念僧とは末法にては凡夫僧なり、念戒とは是名持戒なり、念施とは一切衆生に題目を授与するなり、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意な
り、末法当今の行者の上なり之を思う可きなり云云。
第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事
 御義口伝に云く衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、
然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、
慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、
慧日とは仏に約し法に約するなり、
釈尊をば慧日大聖尊と申すなり
法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり、
末法の導師を日月光明等と説かれたり。
第五正法治国不邪枉人民の事
 御義口伝に云く末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法
華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり。

”引用おわり

”法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事”
”六に法体に約するとは法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり”
事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行〜”
本門の本尊=法体
総別の二義
仏力法力の妙法
仏力法力の
御本仏日蓮大聖人の宝号南無妙法蓮華経
本化信力行力の妙法
弟子旦那等の色心命の十如是円融三体の本地
信力行力の南無妙法蓮華経


引用はじめ”

四条金吾殿御返事     文永九年五月 五十一歳御作

 日蓮が諸難について御とぶらひ今にはじめざる志ありがたく候、法華経の行者としてかかる大難にあひ候はくやしくおもひ候はず、いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ、又三悪四趣にこそ候いつらめ、今は生死切断し仏果をうべき身となればよろこばしく候。

 天台伝教等は迹門の理の一念三千の法門を弘め給うすらなを怨嫉の難にあひ給いぬ、日本にしては伝教より義真円澄慈覚等相伝して弘め給ふ、第十八代の座主慈慧大師なり御弟子あまたあり、其の中に檀那慧心僧賀禅瑜等と申して四人まします、法門又二つに分れたり、檀那僧正は教を伝ふ、慧心僧都は観をまなぶ、されば教と観とは日月のごとし教はあさく観はふかし、されば檀那の法門はひろくしてあさし、慧心の法門はせばくしてふかし。
今日蓮が弘通する法門はせばきやうなれどもはなはだふかし、其の故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し

されども三世の諸仏の師範十方薩の導師一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり、経に云く「諸仏智慧甚深無量」云云、此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏真言宗の大日如来浄土宗の阿弥陀乃至諸宗諸経の仏菩薩過去未来現在の総諸仏現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて次に智慧といへり、此の智慧とはなにものぞ諸法実相十如果成の法体なり、其の法体とは又なにものぞ南無妙法蓮華経是なり、釈に云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」といへり、其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、
諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にしてしかも境智不二の内証なり、此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提生死即涅槃と云うもこれなり、まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを煩悩即菩提生死即涅槃と云うなり、生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり、普賢経に云く「煩悩を断ぜず五欲を離れず諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す」止観に云く「無明塵労は即是菩提生死は即涅槃なり」寿量品に云く「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速に仏身を成就することを得せしめん」と方便品に云く「世間の相常住なり」等は此の意なるべし、此くの如く法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事なり、かかるいみじくたうとき法華経を過去にてひざのしたにをきたてまつり或はあなづりくちひそみ、或は信じ奉らず、或は法華経の法門をならうて一人をも教化し法命をつぐ人を悪心をもつてとによせかくによせおこつきわらひ、或は後生のつとめなれども先今生かなひがたければしばらくさしをけなんどと無量にいひうとめ謗ぜしによつて今生に日蓮種種の大難にあうなり。

 諸経の頂上たる御経をひきくをき奉る故によりて現世に又人にさげられ用いられざるなり、譬喩品に「人にしたしみつくとも人心にいれて不便とおもふべからず」と説きたり、然るに貴辺法華経の行者となり結句大難にもあひ日蓮をもたすけ給う事、法師品の文に「遣化四衆比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と説き給ふ此の中の優婆塞とは貴辺の事にあらずんばたれをかささむ、すでに法を聞いて信受して逆はざればなり不思議や不思議や、若し然らば日蓮法華経の法師なる事疑なきか、則ち如来にもにたるらん行如来事をも行ずるになりなん。

 多宝塔中にして二仏並坐の時上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の御使いか、貴辺日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ是れ豈流通にあらずや、

法華経の信心をとをし給へ火をきるにやすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや、女房にも此の由を云ひふくめて日月両眼さうのつばさと調ひ給へ、日月あらば冥途あるべきや両眼あらば三仏の顔貌拝見疑なし、さうのつばさあらば寂光の宝刹へ飛ばん事須臾刹那なるべし、委しくは又又申べく候、恐惶謹言。

五月二日      日蓮花押    四条金吾殿御返事
”引用おわり

引用はじめ”
第四仏所護念の事 文句の三に云く仏所護念とは無量義処は是れ仏の証得し給う所是の故に如来の護念し給う所なり、下の文に仏自住大乗と云えり開示せんと欲すと雖も衆生の根鈍なれば久しく斯の要を黙して務て速かに説き給わず故に護念と云う記の三に云く昔未だ説かず故に之を名けて護と為す法に約し機に約して皆護念する故に乃至機仍お未だ発せず隠して説かず故に護念と言う、乃至未説を以ての故に護し未暢を以ての故に念ず、久黙と言うは昔より今に至るなり斯要等の意之を思うて知る可し。

 御義口伝に云く此の護念の体に於ては本迹二門首題の五字なり、此の護念に於て七種の護念之れ有り
一には時に約し二には機に約し三には人に約し四には本迹に約し五には色心に約し六には法体に約し七には信心に約するなり云云、
今日蓮等の類いは護念の体を弘むるなり、
一に時に約するとは仏法華経を四十余年の間未だ時至らざるが故に護念し給うなり、
二に機に約するとは破法不信故墜於三悪道の故に前四十余年の間に未だ之を説かざるなり、
三に人に約するとは舎利弗に対して説かんが為なり、
四に本迹に約するとは護を以て本と為し念を以て迹と為す、
五に色心に約するとは護を以て色と為し念を以て心と為す、
六に法体に約するとは法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり、
七に信心に約するとは信心を以て護念の本と為すなり、
所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら護念の体を開くなり、
護とは仏見なり、念とは仏知なり此の知見の二字本迹両門なり
仏知を妙と云うなり仏見を法と云うなり
此の知見の体を修行するを蓮華と云うなり、
因果の体なり因果の言語は経なり
加之法華経の行者をば三世の諸仏護念し給うなり、
普賢品に云く一者為諸仏護念と護念とは
妙法蓮華経なり諸仏の法華経の行者を護念したもうは
妙法蓮華経を護念したもうなり機法一同護念一体なり、
記の三の釈に約法約機皆護念故と云うは此の意なり、
又文句の三に云く「仏所護念とは前の地動瑞を決定するなり地動は六番破惑を表するなり、妙法蓮華経を受持する者は六番破惑疑い無きなり」
神力品に云く「於我滅度後応受持斯経是人於仏道決定無有疑」
仏自住大乗とは是なり、
又た一義に仏の衆生を護念したもう事は護とは
唯我一人能為救護念とは毎自作是念是なり、
普賢品に至つて一者為諸仏護念と説くなり、
日蓮は生年卅二より南無妙法蓮華経を護念するなり。

”引用おわり

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